July 23, 2008

人前でキョロキョロしている自分

人生の修羅場から

逃げている人間、

すなわち、

一つ一つのことに対して

責任をとっていない者は

人前で落着かず

人の目を気にして、

キョロキョロしている

という。

自分もよく

キョロキョロしている、

挙動不審であると

いわれたことがあった。

放送作家として

活動し始めていた頃、

あるパーティーの席上、

ホームビデオに気づかないうちに

撮られていたことがあったが、

ビデオに映されている

何か悪い事をやった人間のような

落着かない自分の動きを見て、

思わず目をそらしてしまった。

たしかに、衆人の中で

そわそわと落着かない

自分を強く感じていた。

心を平静に保とうと思っても

心のどこかで

どうしても動揺してしまう。

その頃だけではない、

今でもまだある。

ビデオに挙動不審な

自分が移され、他人からも

キョロキョロしてると

指摘された時期、

自分は社会的にそんなに

間違った

ことをしていたとは思えない。

それでは、何から逃げようとして

いたのだろう。

何に対して

責任をとっていなかったのだろう。

やはり自分だったのではないか。

自分のほんとうの気持から逃げ、

自分を裏切っている。

そういう人生を選んでしまって

いるにもかかわらず、

自分に対して責任を取れていない。

もしかして放送作家という

仕事を心底愛していたわけでなく、

他人へのその響きのよさを感じて、

ただ自分は“放送作家”だぞと

人に見せようとしていたのではないか。

もしかして、自分にとって

アクセサリーと化していたのではないか。

仕事は面白かったし、

好きな局面もたくさんあったが、

ほんとうの放送作家に

なりきれてなかった。

にもかかわらず、

人に見せようとしていた。

でも、自分ではちゃんとわかっている。

ほんとうの

放送作家ではないということを。

それを見つめることから自分が

“逃げている”ということを。

このことは

大した実績を上げられなかったことが

証明している…。

今書いたことは、

自分にとってまだ確信を持てていない

仮説の段階である。

少し自虐的な見方かもしれない。

ただ、今後は、

別に他人の目をひくような

肩書きや地位なんていらないから、

もっと人まえで堂々とできる、

いやもう、どんなところでも、

ただ普通に振舞え、

決してキョロキョロと落着かないことが

ないような

人生を歩みたいものだ。

| | Comments (0)

July 20, 2008

他人と心が触れ合うってこういうこと?

                                       

今日は、これまでは

ほとんど接したことがない

96歳の、あるおばあさんと

話す機会があったのだが、

以前の自分ではなかったような

ささやかなしあわせ感を

得ることができた。

以前となにが違ったかというと、

できるだけリラックスして、

自然体で接しようと心がけていた

ことだけだ。

近頃は、電車にのってるときも

街を歩いている時も、

力を抜くことを考えている。

そして、周囲にいる人々は、

敵ではない、

味方なんだ

と自分にいい聞かせることもある。

おばあさんとは

かつて少しだけお話したことが

あったのだが、

そのときよりも、

今回の方が

ほんの少しだけど、

心が触れ合えたような気がした。

そして、

帰りながら、

胸にぽっと広がった

しあわせな感覚を

不思議に思っていた。

人と心が触れ合うとは

こういうことかもしれないと

ぼんやり思いながら

正午前の

焼けるアスファルトの上を

だらだらと歩いた。

日本一の放送作家になって、

ハリウッド映画に負けない

映画を作り、

全世界に向けてメッセージを

発信しよう!

夢に向って、

どんな手段を使ってでも

這い上がってやろう、

上昇!上昇!

とたった一人、血みどろの

努力していたときには

まったく

ありえなかった感覚だ。

自分の中では

正反対にある感情といえる。

だから、おそらく

すくなくとも

ぼくの場合は

両方を得るのは

難しい。

ならば

一度きりしかない人生、

今後の自分は

どちらを選択するのか?

ただ後者を選んだ場合、

目指すところまで

死にもの狂いの努力によって

這い上がり

世界へ向けて

何かメッセージを送れたとしても、

そのメッセージは

とても“希薄な”ものに

なってしまうに違いない。

                                      

“深い”ものにするのは

どうすればいいのか?

それをずっと悩み、

自分に問いかけているうちに、

夢が変ってきてしまった…

というのが、じつは

“ほんとうのところ”である。

                                             

                       

| | Comments (0)

July 19, 2008

なぐさめやアドバイスを求めていない

ぼくは、

このブログで、

プライベートな

生活ということではなく

自分の気持を出す

というのを

1つのポリシーにしている。

できれば、

自分の生活は

日記(ブログ)という形では

見せたくないと思っている。

なぜならば、

「その日は、

おまえ会えないと

いってたけれど、

ブログには、

遊びに行ったと

書いてあったじゃないか。

おれの誘いを断って、

遊びにいくなんて

ひどいじゃないか」

といわれるのが

いやだから。

理由なく誰とも

会いたくない、

何もしたくない

ということはある。

できるだけ自由で

いたいから、

プライベートは見せたくない。

自分はこのブログの意味を

つきつめていけば、

ただ面白い、楽しいから

やっていることになるが、

何が楽しいかと言うと、

「自己表現」なのである。

「自己を表現する」ことに

意味なんかない、

ただそうしたいから

やっているだけである。

「自己表現」とは、

自分の考えや気持、

‐自分というものを出す

ということであろう。

どこまで、純粋に

自己を出せるか?

ということが、

自分が自然に求めている

ことなのかもしれない。

自分の考えや気持ちを

表現するのに、

プライベートを出すのも、

1つの手段であろうし、

実際にプライベートを見せる

こともあるが、

まったくの作り事の方が

自分を出せるという事もあろうし、

ほんとうのことを

書いているようにみせて、

実は虚構も織り交ぜている

こともある。

つまり、

自分を表現する、

他者に伝えるということだけで、

完結している。

他者によく内容が伝わって

いれば嬉しいことは嬉しいが

それが目的ではない。

ましてや、

自分の窮状や悩みを

他人に伝え、

同情してもらったり、

慰めてもらうことは

求めていない。

むしろ、

この拙いブログを読んだ人が、

共感してくれ、

ご自身の悩みが

少しでも、

軽減してくれるならば

それは

とても嬉しいことである。

まあ、それは

思わぬ結果であって、

あくまでも、

今、求めたいと

思っているのは

“自分というものを

できるだけ純粋に

表現する“ことであろう。

いや、

そんなことも考えずに、

書きたいから書く、

むしろその方が

今の自分にはいいんじゃないか

と思っている。

もしかして、

それこそが

純粋な表現なのかもしれないとも

今、ふと考えた。

とにかく、

ぼくがあまり暗いことを

書いているものだから、

ときおり、

コメントやその他を

通して、

慰めてくれたり、

気の毒だと同情してくれたり、

相談に乗ろうとしてくれる

人もあるが、

すくなくとも、

このブログでは

それを求めていない。

端的にいえば、

こんなものでも

ぼくの作品なのである。

または、作品に

限りなく近いものなのである。

日常生活を伝える

日記でもないし、

悩みを打ち明ける場でも

ない。

これが、

このブログにおける

自分のスタンスである。

今まで、

“自分のスタンス”も

いろいろ変ってきたし、

これからも

また変るかもしれないが、

今はそう思っている、

それを今回は

伝えたかった。

| | Comments (0)

July 18, 2008

はじめに欠点はさらすべき?

初対面の男性に

欠点を見せる女性

女性の中には

初対面の男性の前で、

あえて、

自分の欠点をさらす人が

いる。

それは、おそらく

2つのパターンがある。

1つは、

その男性に気があって

あとで欠点を見つけられて、

ふられるよりも、

先に見せることで、

その欠点があるにも

かかわらず、

自分を受け入れてくれるのか

どうかを確かめたい。

あとあとになって、

自分の欠点が見つかって、

嫌になられるという

リスクはさけたい。

という場合。

もう1つは、

その初対面の男性が

自分のタイプではなく、

にもかかわらず、

相手の人は自分に

どうやら気がある

ようである。

その場合、

早々に自分が自分の

最大の欠点であると

常々気にしている

部分を相手に見せて、

その男から離れようとする。

でも、結局、

その男は、その女性の

欠点を聞かされて、

まったく、欠点だと思わず、

むしろ、その女性が自分で

欠点だといっている

部分をもっているがゆえに、

かわいいと思えてしまい、

ますます追いかけてしまう

ということもある。

「あるがままの自分」とは

「自然体の自分」

ぼくも、

相手の性別は問わず、

最初に、

あえて自分の欠点をさらす

という傾向もある。

そうでなければ

初対面の相手に対しては、

反対に、

かたまってしまって、

まともに自然な会話が

できないという

ことが多いように思う。

はじめに自分の欠点を

執拗なまでに言うことの根底には

相手に自分の欠点を

ふくめた

「あるがままの自分」を

認めてもらいたいという

考えがあるのだろう。

ところが、

あえて

欠点をいう、

欠点をさらすという

こと自体が、

すでに「あるがまま」で

なくなっていることに

気づいていない。

ほんとうの

「あるがままの自分」とは

“自然体”ではないのか。

人前で自然にふるまって、

出てくるのが、

その人の

欠点であり、長所であろう。

さらしている欠点とは、

「自分が欠点だと思っていること」

にすぎない。

また、過去に誰からか、

「おまえの欠点だと指摘されたこと」

であろう。

今、目の前にいる相手は、

それを欠点とは思わないかもしれない。

別のことを欠点だと

思うかもしれない。

だから、あえて

自分からひけらかすというのは、

その欠点に自分がとらわれている

場合、最初にいえば

気が楽になるということでは、

意味があるのだろうが、

それ以外では意味のないことかもしれない。

言葉をかえれば、

自分が狙っているような

「あるがままの自分」を

受け入れてもらう、

「あるがままの自分」を見せる、

といった効果はあまり望めない。

気になる相手の前でも、

“自然体”でいて、

欠点が出たら出たでいいや、

もしくは、

欠点が出ようが長所が

出ようが、

“自然体でいる”

ということが、

「あるがままの自分でいる」

ということだろう。

| | Comments (0)

July 17, 2008

生。そして、死。

                                                                                 

むりに

生きようとしなくていい。

むりに

死のうとしなくていい。

                                                                               

生きている。

                                                                                 

死んでいく。

                                                                              

ただそれだけでいい。

| | Comments (0)

シャボン玉は輝く

                                           

ぼくたちは皆、

シャボン玉みたいだ。

石鹸水にひたした

ストローから生まれ、

ユラユラ空中を

浮遊して、

草や、土、木、

アスファルト、

人の身体・・・

なにかにぶつかったり、

空中ではじけて

消えていく。

消えたら、跡形もない。

ほんとうに、

シャボン玉として

存在してるのは

ほんの一瞬にすぎない。

ならば、

ぼくらシャボン玉は

生まれた意味がないの?

いやいや、

それぞれのシャボン玉が

それぞれの輝きを放つ。

それこそが、

存在の意味さ。

太陽の光があたり、

風にゆられて

その輝きは変化し、

ときに窓ガラスに反射し、

花や自然を

透明なからだに

映し出し、

どれ1つとっても

シャボン玉は

同じ輝きをしているものはない。

すぐそばを飛んでいる

2つでも、よく見れば

必ずどこか色合いが

異なる。

1つ1つが

異質な

シャボン玉の輝きは

ストローから生まれたときから

もうその中に

内在している。

さらに、その輝きは

周囲の光、風、緑、影・・・

環境によって、

より一層、

独特なものになる。

周囲に生かされてこそ、

シャボン玉は

自分らしく輝ける。

もともと内在している

輝きがいっそうその光を増す。

自分らしく

輝いて、シャボン玉は

跡形もなく

消えていく。

ほんの一瞬だけど、

たしかに、

そこには、

そのシャボン玉にしかない

輝きがあった。

誰の記憶にも

留められていなくてもいい。

そこで確かに

輝いたこと。

必要なのは

それだけさ。

| | Comments (0)

July 14, 2008

自分にYESと言えない人は…

自分にNOといっている人の

一番の悲劇は、

他人の餌食になってしまうことだ。

今年、自殺した元TBSの

アナウンサーもそうだろう。

語弊があるかもしれないが、

怪死した尾崎豊もそうだったと

一ファンの意見に過ぎないけれど

ぼく本人は確信をしている。

他人の餌食にならなくても

自傷行為に走ったり、

過食症になったり、

ならなくていい病に

なったり、

つまり、自分に対して

“餌食”という言葉はおかしいかも

しれないが、

自分を餌食にするといっても

おかしくない状態へと

自分自身で

知らず知らずおいこまれてしまう。

そういった具体的な

結果を考えなくても

どうして自分にNOという

つまり自分に対して

無力感をもつことがいけないのか

という理屈は、

簡単である。

自分の身の回りのもの

すべてのものを

見て聞いて触って味わって匂いを嗅いで、

その上で認識しているのは

自分だからである。

自分にYESといえてない人は、

心の中に、

曇った目をもっているのと

同じである。

自分に対する無力感という

曇ったフィルターを通してしか、

あらゆる人や物、すべての

事象を見ることはできないのであるから、

ときには、

ひどい人間がよく見えたり、

心あたたかな人間が逆に悪く見えたり、

駄目でもなんでもない

自分というものが駄目で

どうしようもない人間に

思えたりする。

だからといって、

自分に対して強引に

YESといおうといったって、

無理なことであろう。

よく「自分はできる、できる…」

など肯定的な言葉を

繰り返しいうといいといって、