July 05, 2009

神の計画と自分の計画

自分の立てた計画がちっともうまく行かないことが多い。

数少ない成功体験をふりかえってみると、

自分が立てた計画でうまく行ったのは

神さまの計画を自分の計画としたときだけであったようにも思える。

いや、自分で立てた計画を強引に達成して、それがもしかしたら神さまのご意志ではなかったのかもしれないと感じたときの空しさがいやであるからこそ、

自分がその計画を遂行していくことに躊躇し、その結果、うまくいかないことが多いという悪循環に陥っているかもしれない。

なんにしても、神さま仏さまのご計画に身をゆだねてしまえば

これほどに楽なことはないだろう。

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July 01, 2009

大局的にものを見る 天台宗大阿闍梨・酒井雄哉氏

大局的にものを見てください。今を大切にして大局的にものを見て、現実の世界と離れるんじゃなくて、大局的な一つの路線を中心にその回りで今の問題を解決しながら、本線を間違えないように生きなさいという。僕が小学校の頃、中学校に入った頃、誰かがそういうことを教えてくれていたらね。坊さんにならねえですんだと思うね。他のことやっていたと思うよ。   酒井雄哉(天台宗大阿闍梨)

先月(20096月)BSフジを見ていて、天台宗大阿闍梨の酒井雄哉氏が「若い方に向けてなにか」の質問にこう答えておられた。この大局とはどういうものだろうか。プレジデント200391日号にはこうある。

―どうしたら「金剛心(仏教のことばで固い決意を示す)」が身につくのでしょうか。

 覚悟を決めるというか。腹を据えて実行することかな。ただし、その目標はなるべく大きな視点で考えることが大切なんですよ。一生を貫くような、さらにいえば世界を覆うような大きな視点だね。そうしないと日々の生活に惑わされてしまう。仏教的に言えば「仏様に任せて、あとは何も考えない」ということかな。そうすると一生に何一つ無駄なもののないことがわかってくる。

 仏教に帰依していない者がどうすれば大局的にものをみて、志を立てることができるのか。酒井氏のおっしゃっているのは、今、思っている“大局”でいいのだろうか。もっと勉強したい。

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June 30, 2009

そこから先は神の領域 その2

―そこから先は神の領域―

 この言葉を、自分の中にいつも思い出すように生きています。やるべきことは“うたし(うれしい・たのしい・しあわせ)”な人、きれいな人、素直な人、謙虚な人、誠実な人という五つの人格を目指すことですが、「そこから先は神の領域」だということです。

 結果として数字や売り上げがこうなるに違いない、というのは驕りです。「私」にできることは、その五つを目指すことであって、「そこから先は神の領域」なのです。

 だから、売り上げがどうの、という話になると、神の領域に踏み込んでものを考えている、ということになるのかもしれません。

          小林正観著『神さまに好かれる話』より

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そこから先は神の領域 その1

自分の人格として、手の届く範囲の身の回りをきれいにする、謙虚に物事を考える、誠実に生きる、というのは自分の手の内にあることですが、「そこから、何が生まれるの」「それから先、自分の人生はどうなるの」ということについては、「そこから先は神の領域」なのかもしれません。

                小林正観著『神さまに好かれる話』より

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June 21, 2009

ゴミは捨ててもいい!?

                                       

仏教は、別段、ゴミを捨てるな!と教えてはいません。ときどき禅のお坊さんが、ゴミを捨ててはいけません。ゴミを拾いましょうと、まるで道徳取締官のような発言をされますが、それはおかしいのです。たとえば、

『般若心経』は、

是諸法空相(ぜしょほうくうそう)。 

不生不滅(ふしょうふめつ)。 

不垢不浄(ふくふじょう)。 

不増不減(ふぞうふげん)。

〔すべてが空であるから、生じたり滅したりすることなく、きれいも汚いもなく、増えもせず減りもしません〕

 と言っています。きれいも汚いもないのです。ゴミなんてない。ゴミにこだわらなければいいのです。

               ひろさちや著『しあわせになる禅』

こういう考え方もあるのだ。

楽しいからゴミを拾う。気分がいいからゴミを拾う。なんらかのいい事があるからゴミを拾う。・・・等であって、他人に強いたり、自慢したり、批判したりするのはおかしい。

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ゴミ1個

ゴミを拾うと、地球はそのゴミ1個分だけきれいになり、日本もきれいになり、地域もきれいになります。

でも、「なんでこんなところに捨てるんだろう」と思いながら拾っていると長続きしないようです。

誰かがゴミを捨ててくれたお蔭で、自分が拾うことができる、「有難う」という気持ちで拾っていると、“ゴミ1個分の徳”がいただけるような気がします。

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人をさばける人はいるのだろうか・・・

なんぢら人を審(さば)くな、審かれざらん爲なり。

己(おの)がさばく審判(さばき)にて己もさばかれ、己がはかる量(はかり)にて己も量らるべし。何ゆゑ兄弟の目にある塵(ちり)を見て、おのが目にある梁木(うつはり)を認めぬか。

視よ、おのが目に梁木のあるに、いかで兄弟にむかひて、汝の目より塵をとり除かせよと言ひ得んや。

偽善者よ、まづ己が目より梁木をとり除け、さらば明らかに見えて、兄弟の目より塵を取りのぞき得ん。

『マタイ伝 第7章』より

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June 13, 2009

一点にかける

一番大事なものに 一番大事ないのちをかける
相田みつを(書家)

これは、本日、メルマガ「『致知』一日一言・言葉のエネルギー」で送られてきた言葉。

相田みつをはたとえ書(しょ)がなく言葉だけでも素晴らしい。

森信三先生(哲学者・教育者)のこの言葉を思い出した。

人間の生き方には何処かすさまじい趣がなくてはならぬ。

一点に凝集して、まるで目つぶしでも喰わすような趣がなくてはならぬ。

人を教育するよりも、まず自分自身が、

この二度とない人生を如何に生きるかが先決問題で、

教育というは、いわばそのおこぼれに過ぎない。

一点にかける。

二点でも三点でもなく一点に。

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June 12, 2009

狭き門より入るべし

皆が右の道へ行っていて、左に行く人がだれもいなくても、自分が左だと思ったら、絶対に左に行ける人になってほしい。

写真家、蜷川実花は、子どもの頃、父である演出家、蜷川幸雄にそう言われたそうだ。(6月10日朝日新聞夕刊より)

これは、聖書の「狭き門より入れ(Enter through the narrow gate.)」にも通ずるように思われる。

                                                                              

狭き門より入れ。

滅びにいたる門は大きく、その路(みち)は広く、

之より入る者おほし。

生命にいたる門は狭く

その路は細く、之を見出す者すくなし。

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June 09, 2009

「内なる声」をとりだすこと

全盲のピアニスト辻井伸行さんが、7日、アメリカのバン・クライバーン国際ピアノコンクールで優勝しました。ぜひこんどCD等で演奏を聴いてみたいものです。

ところで、トルコのピアニスト、作曲家のファジル・サイさんの以下のおことばに共感します。ぼくは音楽にくわしいわけではありませんが、これはあらゆる表現にいえることではないでしょうか。(以下、朝日新聞「Globe」より)

クラシック音楽の演奏から個性がなくなっている。最近では、本来、即興的に独奏される協奏曲のカデンツァも、演奏全体の解釈も、他人まかせになっている。これは間違っている。クラシックのピアニストがいくら技巧的に演奏しても、それだけではまったく興味を感じない。

 ハイドンのピアノ曲は、演奏技術的にはとても簡単で、8歳の子どもでも、何曲かは演奏できる。しかし、内面から演奏するには、とてもたくさんの人生の経験、感情といったものがないと難しい。3、4分で映画のサウンドトラックのように「物語」をつくらないといけない。

 自らの「内なる声」を取り出し、楽器に伝えるというのが、作曲でも演奏でも、音楽のとるべき方向なのだ。クラシックのピアニストの大半は今日、そうした方向性をもっていない。ジャズピアニストのキース・ジャレットを例に出せば、彼のピアノの音にどれだけの感情がこもっていることか。まるで「歌っている」ようだ。音楽の内面が演奏されているから、彼のピアノは人間の声のように聞こえる。

(中略)

 作曲とは「わき出るものを取り出す」作業だ。技術的発展がエモーション(感情)の高まりを伴わないならば、それは音楽ではないと思う。

 「内面から演奏するには、とてもたくさんの人生の経験、感情といったものがないと難しい」。-「内面からの演奏」で思い出すのは、フジ子・ヘミングです。彼女の引くリストやショパンには数々のドラマがあるように思います。たしかフジ子は以前、テレビ番組で「少しくらい鍵盤を間違えても気にしない」と言っていました。「わき出るもの」の方が大事なのでしょう。

 ところで、鏡島元隆『道元禅師語録』には、こんな言葉があります。

人人(にんにん)夜光(やこう)の珠(たま)を握り、箇箇(ここ)荊山(けいざん)の玉を抱く。若(いか)んが回光返照(えこうへんしょう)せずして、甘んじて宝を懐いて邦(くに)に迷うことをせん。

〔訳〕人びとすべては、夜光の珠にも比すべき明珠(仏性)を本来抱いているのであり、それぞれは荊山の玉にもたとえるべき宝珠(仏性)を本来蔵しているのである。それなのにどうして、回光返照してこれを覚らないで、せっかくの宝を抱きながら、他国に迷うているのであるか。

(※一部、筆者が書き換えました)

    

     回光返照‐外に向かう心を翻して内なる自己を反省すること。

 音楽について無理矢理につなげれば、さまざまな曲や音にとらわれ、惑うことなく、回光返照して、明珠・宝珠=仏性を覚り、表現するということでしょうか。

 これは言葉での表現も同じことだと思います。今はパソコンによっていくらでも言葉を取り出せます。しかし、そこに「わき出るもの」-「内なる声」がなければ、ただの文字の羅列に過ぎませn。

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June 07, 2009

『時代おくれ』の「深沈厚重」

                                                                     

深沈厚重なるは是れ第一等の資質

公田連太郎はその訳注した『呻吟語』にこう書いている。

                                                                              

呂新吾先生が深沈厚重なる資質を最も喜ぶこと、以て観るべし。深く味ふうべきなり。是れ呻吟語全巻を貫く思想なり。

                                                                              

河島英五の『時代おくれ』を聞けばきくほど、この歌は“深沈厚重”の人をうたっているように魂に沁み込んでくる。

そういえば、河島英五は歌をいつも呻くように吟じているなあ。

                                                                                                                         

YouTube 河島英五「時代おくれ」

http://www.youtube.com/watch?v=ua2PjjvS0K4&feature=related

                                                                        

時代おくれ

                                                                            

作詞 阿久悠 作曲  森田公一 

唄 河島英五  昭和61年(1986)

                                                                                    

一日二杯の酒を飲み

魚は特にこだわらず

マイクが来たなら 微笑んで

十八番(おはこ)を一つ 歌うだけ

妻には涙を見せないで

子供に愚痴をきかせずに

男の嘆きはほろ酔いで

酒場の隅に置いて行く

目立たぬように はしゃがぬように

似合わぬことは 無理をせず

人の心を見つめつづける

時代おくれの男になりたい

 

不器用だけれど しらけずに

純粋だけど 野暮じゃなく

上手なお酒を飲みながら

一年一度 酔っぱらう

昔の友には やさしくて

変わらぬ友と信じこみ

あれこれ仕事もあるくせに

自分のことは後にする

ねたまぬように あせらぬように

飾った世界に流されず

好きな誰かを思いつづける

時代おくれの男になりたい

 

目立たぬように はしゃがぬように

似合わぬことは 無理をせず

人の心を見つめつづける

時代おくれの男になりたい

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June 06, 2009

「ありがとう」というサプリメント

今朝方(6月4日)、なんとなく体や心が重く何もする気になれなかったのだが、ふと小林正観さんのことを思い出し「ありがとう、ありがとう、ありがとう・・・」と繰り返し口ずさんでみた。そしたら、100回を越えたあたりから、元気になれた。

まるで、無添加の良質なサプリメントをのんだときのように・・・。

「ありがとう」を数万回唱えるといいことあることを読んだが、たったの100回でいいことが起きた。ありがとう!

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June 05, 2009

“好き”ということと自分の使命

自分の“好き”はいっぱいあった方がいいと思います。

元気になれるし、いろいろな人と友達になれる。

ただ、仕事や自分の使命といったときに、とりあえず“好き”はおいておいた方がいいのではないかと、ここのところ思ってます。

まずは、人を喜ばすため、役立つため、人を幸せにするために・・・あるのが仕事であり使命であって、自分が好きかどうかは二の次ではないでしょうか。

つまり、自分の好きなことをやった方がより人のためになる、悦ばすことができるということで、好きなことをやるというのがほんとうだと思います。

だいたい好きかどうかというものはけっこうあてにならなくて、たとえば食べる物がなくて飢餓状態にあって嫌いな物しかないというとき、その嫌いな物ばかりを食べていると好きになるということは多いと思います。

だからまずは人を喜ばせることを好きになることだ、別の表現をすれば、自分が人を喜ばせるのが好きなんだということを思い出すことだと思います。

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June 04, 2009

病が治るかどうかなんてそんな問題じゃない。

病が治るかどうかなんてそんな問題じゃない。

たとえば、地位や名声、金を得るのだって、自分の力だけではなく、前世の影響、先祖や家族、周囲の人々の協力によって得られるのと同じように、病が治るかどうかは本人の努力だけではどうしようもないこともあるだろう。同じ病でも治る人もいればどんなにその人が努力しても治らない人もいるのだ。それに、もし、神さまがその病を与えてくださっているのだとしたら・・・。

いやぼくは病というのはほんとうに神さまの贈り物だと思っている。心より感謝している。

それよりも、病であろうが病でなかろうが、人を喜ばす、人のためになる、社会のためになる・・・ただただそれだけをやっていけばいい。

もし病が原因で他の人よりちょっとくらい寿命が短くなったっていいじゃないか。その分、誰かを幸せにできたらそれだけで充分満足だ。

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自分の肺腑から出た真のことばを言ってみよ

                                       

高尚な理論も、平俗な言説も駄目だが、かといって他人の口真似でも困る。真底、自分の肺腑から出た、自分の言葉を言ってみよ。

鏡島元隆著『道元禅師語録』の〔付記〕より

まったくこのための日々の修行であり、このための人生である。

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June 03, 2009

日本語が日本人をつくる

船井幸雄・中矢伸一著『いま人に聞かせたい神さまの言葉』より、子育てブログ“いのちのちから”で、船井幸雄さんの言葉を引用して、「日本語が完全でないうちに英語を習わせたくないという記事を書きました。

 そのタイトルにもなっている船井幸雄さんの言葉になぜ賛成するかということをここに書きたいと思います。

 「はじめに言葉ありき」と聖書にありますが、言葉は人間をつくります。日本語が日本人をつくるのです。日本の気候風土に生まれた以上、日本人として生きるのがごく自然であり、心やからだの健康にもいいと思うのです。(“いのちのちから”で考える自然な育児・子育てとはそういうことでもあります)

 その土台の上に、英語を学ぶのはいいけれど、土台を英語と日本語でつくっては日本人にとって不自然だからいけないと思うのです。

 帰国子女でそういう方がいるかもしれませんが、それはそれで特性を生かすべきだと思います。ただ多くの日本人がそうなること、日本語が十分にできない子どものうちから英語と日本語を学ばせることが日本人の常識となることは避けなければいけません。

                                           

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June 02, 2009

自分に向いているか、向いていないか・・・は無駄

自分に何が向いているか、向いていないかなんて

自分にはわからないと思っていた方が間違わないであろう。

それが、向いているか向いていないかは

他人が決めることである。

仕事というものは、頼まれて初めて発生する。

頼まれるということはそれが向いているからであって、

頼まれないということは向いていないからなのである。

初めの1回や2回は「向くか向かぬか」に関係なく、

頼まれることもあるかもしれないが、「向いていなければ」

永続的に「頼まれる」ことは決してない。

だから、やりもしないうちから「俺にはこれは向いていない」などと

いうべきではない。

それが判断できるほどの識見と経験をもったあなただろうか。

他人からそれが「向いている」といわれたら、とりあえず

やるべきだ。

やってやっぱり「向いていない」といわれるか、「頼まれなくなった」

ならやめればいい。

あくまでも「向いているか、向いていないか」を決めるのは、

他人であり、神様である。自分ではない。

自分はその状況を判断するだけである。

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May 31, 2009

自分が自分であること

一人路上で風に吹かれた

通り過ぎる人々がまぶしい。

なんで、俺は・・・とつぶやきかけて

口をとじる。

自分が自分であることに悩まない。

そう決めたばかりではないか。

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May 30, 2009

「働く」とは「志」をもつこと―北尾吉孝氏のコメントを聞いて

北尾吉孝(SBIホールディングス代表取締役執行役員CEO)氏が、さきほどテレビ東京『映画ハゲタカ特番 いま、何のために働くのか』で、コメントを述べられていた。

今、若者たちが働くことに生きがいを得られなくなっているのは、それは企業経営者の責任である。ほんらい「働く」とは「はた(傍)を楽にする」という意味である。それが忘れられている。それは、経営者が「志」を持たなくなったからだ。「志」ではなく「野心」をもつようになったのがいけない。

ざっとこのような内容であった。

「志」とは「野心」と異なるように「夢」とも異なるであろう。「夢」の中には「野心」も「志」も含まれている。「夢」をもつことが大事だということをよく言われるが、「夢をもつこと」そのものが尊いというわけではない。

森信三先生(哲学者・教育者)はこういわれている。

真に独創的なものが生まれるのは、「自分も何かひとつ独創的なものを生み出してやろう」などという野心からではなく、こうした難問題と取り組むには、自分などはその資格はないけれど、しかし自分より資質の卓れた人々がたれ一人これと取り組まない以上、自分みたいな者でもやる他あるまい―と考えて、コツコツと努力し続けてゆくことによって、いつしか独創的なものが、おのずから生まれてくるようです。

つまり真に独創的な仕事は、自己中心的な野心とか名誉心からではなくて、事柄自体に対する価値認識に基づく没頭的な態度の持続と献身とによるようです。

『不尽片言』より

企業経営でいえば、こうして創業者がこれまでにない独創的な分野の企業を創業したとして、その発展と真に社会のためを願うならば、自分よりも他の人に経営を変わってもらった方がいいという状況であるする。そう判断したならば、自分がたとえ平社員になっても“さっさ”と社長の座を譲る。それが「志」というものであろう。

「野心」はもちろん「夢」ということであれば、おそらく自分が創業した会社で経営者としてやりがいをもって働くことがそもそもの「夢」であるのだから、他人に譲るということはしないだろう。人によって「夢」が「志」になっている人もあろうが、たいがいの「夢」はそんなところであろう。

ところが「志」はちがう。そもそも「自分」ではなく「社会のため」「世の中のため」「人のため」―すなわち利他的な動機によるのが「志」である。「自分」はないのである。たまたま「自分」がそれを手がけざるを得なくなっただけだ。

西郷南洲は、一国の政治についてではあるがこう説かれている。

支配者として一国の政治を行なうのは天の道を実践することである。だからそこには少しの私心もあってはならない。

心を公平に配り、正道を踏み、賢人を選んで用い、その役職にふさわしい人物に政治を行なわせるのが天の意というものだ。自分が、これこそ真の賢人と認める人物があったら、ただちに自分の役職を譲るぐらいの心づもりでいなければならない。

高野澄『西郷隆盛』

「第一部 人を相手とせず、天を相手にせよ―西郷南洲遺訓」より

「働く」ということはほんらい「はたを楽にする」こと。すなわち「志」をもつということだ。トップが「志」をもてば、自ずとその下では「志」をもつようになるであろう。北尾吉孝氏のコメントに共感する。

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May 27, 2009

人間が自然との距離を縮めるには・・・。

ロケで、ある凶悪な罪を犯した者の家の近くを通り過ぎたのは、もう15年近く前になるだろうか・・・。そのとき、愕然としたのは、自然が豊かだったということだ。その頃から自然回帰への志向は日本人の間に広まっていて、自分も自然信仰じみた、動植物や山、川・・・から離れたからこそ人間はおかしくなってきたのだという信念があった。

ところが、罪を犯した“彼”は豊かな自然の中から生まれていた。これはなんなんだ、どうしたというのだ・・・。そのときから、自分の中に“命題”が出来上がってしまった。ところがあるとき、“彼”は自然の中で生きていたけれど、自然から離れていたのではないか。家の中に閉じこもり、自然より隔離されているのと同じような生活をしていたからこそ、そうなってしまったのかもしれないということに気づく。

多かれ少なかれ現代人は自然より隔離されている。自然豊かな地域でさえそうなのだ。都会に住む者は、完全に自然と隔絶してしまったといっても過言ではない環境に住む者が多い・・・。となると、その離れた自然とどうしたら、また近づくことができるのか。ただ、自然豊かな地域の緑のすぐ側に住めばいいというものではないことは、犯人の“彼”の生活環境を見ればわかる。

あるとき、樹木医の方にインタビューをする機会を得た。都会人が自然と触れるにはただ木々のそばに暮らしているだけではだめで、日々、その木々のうち一本でもいいから“観察”をすることが秘訣だということを教えてくれた。普通は「木を見て森を見ず」で森を見ないことを否定されるが、この場合「森を見て木を見ず」ではだめで「森よりも木を見る」ことが必要というのだ。

ただ、実際その“観察”をやろうとしていまだにできていないのだが、一本でも木に集中する時間を毎日つくるというのは、よほどそれが好きでもなければできないことだというのがわかった。また、やらざるを得ない環境になければやらないのは、痛感していることで、結局はやらざるを得ない環境にいたらなかったのでやらないで今日まで過ぎてしまった。

だから、いつまでも自然との距離は縮まらないのだけれども、あるときほんの数分にして縮まるどころか一体になれたような感覚の瞬間を得た。

 それは、わが家の近くの川沿いの街路樹の下を、散歩した時だ。他の通行人には聞こえないようにこうつぶやきながら歩いていた。「幸せだなあ。豊かだなあ。有り難いなあ」。それを感情を込めても込めなくてもいいので何回も何回も繰り返し言いながら歩いたのである。すると、いつかすーっと体の中に自然の風や緑や花や日の光がからだの中に入ってきたような気がして、ほんとうに気持ちのいい、まるで自分が自然そのものといったような感覚になれたのだ。これはたとえどんなに豊かな自然の中を普通に歩いていても決してなかったことであった。

 これでようやく命題が解けた。自然との距離を縮めるためには、自然の近くに行き物理的距離を縮めることではなく、自然に対して心を開くことこそが大事なのだということを。人間と人間とのコミュニケーションと同じだ。ともに溶け合うには、まずは双方が心を開かねばならない。ただ、人間と自然とのコミュニケーションは人間のみが心をあえて開けばよい。なぜならば、自然はいつでも心を大きく開きっぱなしだからである。

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«「相手に望まない人」になりたいなぁ