自分の神経症を見分ける1つの方法
A. 『軽度・神経症を治す』北西憲二(森田療法研究所所長)著という本を読んでいる。
これを読むと、自分は“神経症”なんだ、かつては、もっとその度合いが強かったと分かってくる。
この本には、
「神経症自体は精神病ではなく、専門用語でいうと『非精神病性』のものだと理解されています」
「神経症とは、本格的な精神病ではなく、精神のちょっとした不調というニュアンスのほうが近いのです」
「とはいっても、やはり現実に悩む人は深刻です。そして親しい人にも打ち明けられず、『このつらさは自分だけの特別のものだ』と悩み、症状におびえながら深い孤独感に苦しむのです」
と神経症が説明されている。目次には神経症の例として「抑うつ神経症」「引きこもり」「パニック障害」「対人恐怖症」「強迫神経症」が出ている。
B. 「抑うつ神経症」に悩む人ということで、インテリアデザイナーの 36歳の女性Aさんの例が出ている。男女の違いがあるにもかかわらず、とても自分に似ていると感じた。
たとえば「Aさんは、一面ではとても努力家ですから、他人の評価を得るためにはプライベートを犠牲にしても人一倍努力し、確かに周囲が納得するだけの結果を出します。しかし彼女には満足できません。何かが欠けていると思えてならないのです。周囲の評価を常に求めて、そしてそれを得ながら、彼女自身を縛っている『こうあるべきだ』という思いが彼女を満足させないのです。そしていつもの『私はダメ子ちゃん』というマイナスなイメージが彼女の心をさいなむのです。彼女の誇大化した自己と現実の間で生じる不全感、この落差が彼女に不安や落ち込みをもたらすのです」
まさに、かつての自分である。そして、まだ今の自分の中にもある自分の姿である。
上司や取引先から評価されようと、必死になって、台本や企画書・・・作品を書く。そして、周囲から思った以上の評価をされ、目標は充分に達したのにもかかわらず「空しさ」が残ってしまう。普通は目標を達成すれば喜び、そして次の目標に向かうエネルギーが沸いてくるのだろうに、目標に達したという安堵感だけで、疲れきってしまってまた次の目標を目指さなければならないのかという義務感だけが重くのしかかる。
それでいて、自分は「この世にできるだけ大きく貢献したい」のだという高い理想をかかかげ、めいっぱい背伸びをして足をひきずって歩いていく・・・。
C. しかし、神経症は精神病ではないから、自分でもなかなか分かりずらい。ここで、自分が神経症であるかないかの1つの基準を見つけたので紹介したい。
これは、心理学者の加藤諦三さんのホームページ(http://www.kato-lab.net/index.html)に紹介されているテープ「本当の『自分らしさ』とは何か」に出てくる。ある高名な外国の心理学者の著書からの引用である。
(自分はリンカーンではないのに~)
◆自分はリンカーンであるという人は“精神病”である。
◆自分はリンカーンになりたいという人は
“神経症”である。
◆自分は自分、リンカーンはリンカーンであるという人は
“健全な人”である。
リンカーンとまではいかなくても、「知人の○○さんのようになりたい」など自分の真の姿は切り離して誰それみたいに「なりたい」と思う人はけっこういるだろう。
D. 他人の不幸を喜ぶような人も、“神経症”だという。ワイドショーなどで芸能人の離婚などを取り上げられているのを喜んでみている人が多い(実は自分もそうである)。日本人には、軽度・神経症の人が多いということかもしれない。
私自身は、自分の喘息などの体の病気も、この“軽度・神経症”と絡み合っているような気がしている。だからこそ、そして、残りの「二度とない人生」を自分らしく生きる、自分の使命をまっとうするためにも、この神経症を治さなくてはならないと思っている。 (終)
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