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May 30, 2005

病も生命(いのち)


みんな忘れてることがある。
病も生命(いのち)の一部なんだ。
尊い生命現象の1つなんだよ。
世の中はうまくできたもんで
右に傾けば左に傾く
左に傾けば右に傾く
そうやって、バランスをとっているんだよ

だから、健康とはバランスのとれた状態のことなのかもしれない。
でも、病になるってことも、バランスを取り戻すための
自然現象がちゃんと起こっているということだから、
ほんとうは、健康な証拠なんだよ。
そう、何かバランスが崩れたときに立て直そうとする
のが病なんだ。
病も自然現象なんだよ。

だから、ほんとうは、病を抑えようとするより
バランスを取り戻す事を考えた方がいい。
それなのに、皆、病を治そう治そうと
ばかり考えている。
でも、病になると、とてもつらいけどね。
とてもとても苦しかったり、痛かったり、痒かったり、
我慢するなんて、なかなかできないよね。
バランスを取り戻すといったって
そう簡単に取り戻せるものじゃないからね。
だって、自分個人のアンバランスだけじゃなくて、
親やその親…先祖が引起したものかもしれない、
人類や地球のアンバランスが原因かもしれないんだよ。

だから、痛みや苦しみ…をまずは取ろうとする。
でも、その痛みや苦しみを取ることがまた、バランスを崩す
原因になっちゃうんだよね。
だって、自然現象を人の手によって
押さえ込んでしまうということだもん。
きっと、それが現代文明のもっとも大きな欠陥の1つなんだよ。

でも、ほんとうに、病ってつらいよね。
体の病気も心の病気も・・・
ふつうに、生活することできなくなっちゃうものね。
ほんとうに、そうだよね。
だから、病を止めるななんて、けっして言えないよ。
自分自身だって、すごく迷っているんだもの。
苦しみや痛みを止めるな、なんて決していえないよ。
まともな、社会生活ができなくなっちゃう。
病を止めることによって、かろうじて現在のバランスを
保っている社会ではね。。。

そして、何より、つらい。本人だけじゃなくて、
周りの人もつらい。
ときには、命さえ失う危険がある。。。
それでも、、、なんて決していえないよ。
決していえないよ。。。         (終)

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May 26, 2005

PKDをご存知ですか?

多発性嚢胞腎、英語ではPolycystic Kidney Disease、略してPKD(詳細は※参照)。私は、この奇病(難病)にかかっています。
今日も専門の医師から言われたのですが、
「あなたぐらいの家族の因子が強い人は、ほとんどの人が50代で人工透析となります」。
今月2回、似たような事を言われました。50代といえば後十年・・・。まあ、だいたいのことは認識していたのですが、あらためてPKDのことに詳しい2人の医師(T大学病院とO病院)両方から言われるとやはりショックです。
「人工透析いいじゃないか」という方もいるかもしれませんが、人工透析をしている方の苦しみ、絶望感をもたれている方が多いことを知っているだけに、また、同じPKDだった母は透析となって後も悪化を続け1年間たたないうちに死亡しているだけに、ぼくにとっては死の宣告に準ずるような強烈なインパクトでした
 そうです、母もPKDから透析となり死亡。祖父もPKDから透析、そしてうつ病にもかかり死亡しました。叔父もPKDであり、今闘病中です。
 ぼくは、腎臓と肝臓に無数の嚢胞があります。でも現在の状態はそれ程ひどい状況ではないそうです。
 ただ、医師ががん患者に「余命あと半年です」といえば、半年ぴったりで死ぬかどうかはわかりませんが、そう遠くない時期に死ぬことは皆信じるでしょう。それでも何年も生きているがん患者はほんのわずかでもいるかもしれませんが、その人は奇跡だと言われます。ぼくへの透析の宣告も似たようなものです。
 否定的にとらえない方がいいという方もいるかもしれませんが、やはりそういう事実が眼前にあることはしっかり見据えなければならないと思うのです。余命数ヶ月と宣告された患者がそれより先、かえって命の輝きを増して生きるように、死を見つめることによって(ぼくの場合は透析とその背後にある死ですが)、今ある“生”をより充実させて生きることができるのではないか。そう期待しています。また、そう捉えた時、人生へのファイトがふつふつと沸いてきました。
最後に尊敬する哲学者・教育者、森信三先生の言葉。

死の絶壁に向かってつよくボールを投げつけ、
そのはねかえる力を根源的エネルギーとしながら、
日々を生きぬく人物の生きざまは、げにも凄まじい。

 ここまで凄まじく生きられるかどうかは分かりませんが、とにかく、私は今回、医師から言われたことに逃げずに向き合いたい。また感謝したい。そして、精一杯この命を生きたい。そう祈るような気持ちでおります。

※PKD(Polycystic Kidney Disease、多発性嚢胞腎)
○腎臓に嚢胞(水がたまった袋)がたくさんできて、腎臓の働きが徐々に低下していく、遺伝性の病気。
○わが国で医療機関にかかっている患者は推定約30,000人。しかし、医療機関にかかっていない人を全て含めると、10万人~20万人の患者がいるといわれる。
○初期には無症状。腎臓に嚢胞がたくさんできてくると、腎臓が大きくなり、腹が張ってくる。腎機能障害の進行に伴って、食欲低下、疲れやすい、だるい、夜間多尿、さらには息切れなどが出現。また高血圧を合併することが多く、脳出血なども通常より高い頻度で起こる。
○根本的治療法はない。
○徐々に腎機能が低下していき、腎不全となり、透析療法が必要となる。しかし腎不全に至らない患者もいる。

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May 25, 2005

忘れてない?

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僕たちの頭上には
こんなに広い空があるんだ。

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いつでも太陽がいてくれる!

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たとえ、たった一人でいても
太陽はいつでも励ましていてくれる。

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May 24, 2005

ただいま発作中

世の中に自分より苦しい人はきっと山ほどいる・・・

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May 21, 2005

“存在”

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おまえは誰だ、なにものだ!!

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わからん。
どう考えてもわからん…

             (写真/文 モモタロウ)

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病気の知識は人を健康にしない


まずは反省、大反省!

モモナ(5才)、そして、モモイチロウ(2才)がゼエゼエ。
(※あえて、ぜんそくとは呼びません。そうじゃないかもしれないので。決め付けるとほんとうにそうなってしまうかもしれないので)。
父であるぼくもゼエゼエ(こちらは喘息です)。
それで、真弓小児科医院(“ほんのキビダンゴ”参照)に妻モモコが連れて行ったわけです。

そこで妻が真弓先生に言われたそうです(真弓先生はぼくが喘息であることをご存知です)。
「お父さんが、病気の知識を持ちすぎているんじゃないかな」
これを聞いたぼくはショックでした。
(このショックの意味は下記の★★情報キビダンゴ★★も参照にしてください)


「病気」じゃなくて「健康になること」に注意せよ!

 ぼくが反省したのは、「どうしたら喘息が少しでも軽くなるか?」、「喘息が少しでも治るか」などばかり気を使っていたことです。
 でも以前にも書きましたが心理学者シーベリーの「注意に注意せよ!」です。傷口が痛いときに傷口ばかりを気にして「痛い痛い!」と言っていると、傷口に塩を塗るようなものでますます悪化していきます。一方で、ほかの事に注意を向け、傷口のことを忘れてしまった方が自然治癒力がより発揮され、治りが早いのです。
 そして、病というものの知識を増やしていくということは、それは「○○(病名)がどうしたら治るのか・・・」ということを常に念頭に入れて勉強するわけでしょう。つまり「病気に注意をむけている」わけで、傷口に塩を塗っている事と同じだと思います。

 だから、われわれ(特に患者)は、医師や治療家などの専門家ではないかぎり、どうせ学ぶのなら、「どうしたら病が治るか?」「どうしたら病にならないか?」ではなく、「どうしたらより健康になるか?」の方を学ぶべきではないでしょうか。つまり「病気」に注意を傾けるのでなく、「健康」に注意を傾けるべきなのだ、そうぼくは気づきました。
 それは、つまり「病気を忘れる」ということなのかもしれません。


「生き方」に注意を傾けることは「健康」を注意すること

 また、「健康」に注意を傾けるといっても、やはり「健康」は手段であって、いくら「健康」であっても充実した人生を送っていなければ意味がないことです。また、人生が充実しない「健康」なんてありえるのでしょうか。
 「完全なる健康」を目指すよりも、より自分にとっての「完全なる人生」に近づく努力をする方が価値があることであると信じています。
 やはり「生き方」に注意を傾けることが大切なのです。“より健康になる”ということも“よりよい生き方をする”“よりよい人生を送る”という中に含まれる、ぼくはそう思います。
 ですから今後は、「病を治す」「病をよくする」そして「医療」ではなく、「よりよく生きるための“健康”」「自分のこの世で与えられている使命を果たすための“健康”」「皆がしあわせに暮らすための“健康”」ということに視点おいて「健康」という1つのテーマも追求していきたいと考えております。


★★情報キビダンゴ★★


親の不安が子どもに敏感に伝わる!

以下少し長くなりますが、真弓定夫先生の『自然流育児教室』(“ほんのキビダンゴ”参照)より引用させていただきます。

「子どもの、周囲を感覚的に察知する力は、ずば抜けています。こちらが何も言わなくても、両親の心、医者の心や先生の心を見抜いてしまうくらいです。

 ですから、病気の治し方以前の問題として、「知識は人を健康にしない」という言葉を、覚えておいてください。

 知識が悪いと言っているのではありません。マイナスのイメージを子どもにうっかり送って病気にさせないように、病気に関する情報ばかり頭の中にインプットしないでほしいということです。 (中略)

 また、今晩は天気がくずれそうだから気管支喘息の発作を起こすのではないか、夜遅くに病院に行くようになりはしないかと心配しすぎたり不安に思ったりすることで、喘息の発作を誘発してしまうこともあります。
 このように頭のなかを病気に関する知識や不安でいっぱいにしていると、そのお母さんが持つ不安心理が、増幅されて子どもに伝わり、大きな悪影響を与えてしまうものなのです。
 子どもの持っている能力は非常に高いものだということを念頭に置いて、周囲の大人は悪いイメージを子どもに伝えないようにすることが大切です。

 特に、アレルギー疾患などは心理的要因に左右される部分が小さくありません。ですから、マイナスイメージを送らないことと、子どもの環境を整えるということの2点をしっかり、押さえるようにしてください。」(※傍線は小生がつけたものです)


真弓定夫先生講演会のお知らせ

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日時 :   2005年5月28日(土)13:30~15:30

場所 :   西武池袋線ひばりが丘駅北口前
        正育堂書店ミューズホール3F(東京都西東京市)

タイトル : 『私が伝えてきたこと
        ~親として、夫として、小児科医として』

参加費 : 無料。
       ※ご希望の方は小生のメール
         ―プロフィール参照―に参加希望者の人数、お名前、
        連絡先―メールアドレス等、をお伝えください。
       ※さらに詳しいことを知りたい方も、
        メールでお問い合わせください。
         お待ちしております。

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May 19, 2005

“いのちの根”はもう抜かれた?

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アメリカ人の世界的な環境エンジニアを、以前、取材した。
彼は駒ヶ根の山中に、木の上の家をつくって住んでいた。

彼は山のふもとの自分のオフィスに下水道をつくるのを
断固拒否した。

そして自らが開発したトイレで用を足した。
排泄物は微生物によって分解され畑の肥やしとなった。

彼が拒否したために、そこから先の住人は
下水道が通らなかった。

だから、強烈な抗議があったろうことは想像に難くない。
彼は嫌われ者となり、変な外人と呼ばれた。
それでもかたくなに拒否をした。

彼は「下水道を作ると、自然が破壊されるから」と
言っていたことをぼくは覚えている。


今、思う。
その行動はほんとうに尊いことだと。

われわれ多くの現代人は、水道、ガス管、電気…、
ライフラインと呼ばれる管(くだ)につながれて生きている。
そして、排泄物などは下水管を通して捨てられる。

エネルギーを入れる管と出す管。
それらの管が切れてしまうと、
われわれは死んでしまうかもしれない。

それは、あたかも重病人が、病院の病室で人工呼吸器、点滴、
そして、尿を取る管(くだ)などで生きているのと同じである。

それを抜いてしまったら、死んでしまう。
それと同じなのである。


ただ、管(くだ)を使っているから悪いんじゃないと思う。

管を入れて、いのちの根を引っこ抜いたから悪いのだ。
いのちの根を引っこ抜いて、管を通したから悪いのだ。

いのちの根を引っこ抜いても
シャアシャアとしているのがいけないのだ。
いのちの根を引っこ抜くことが
どんなに重大なことが分かっていないのがいけないのだ。


いのちの根さえ張っていれば、健康になれる。
たとえ病気になっても怖くない。

でも、
いのちの根を張らないまま、体だけを治療をするから
いつまでたってもよくならない。

いのちの根を張らないまま、人の心をよくしようとするから
いつまでたっても犯罪は減らない。

いのちの根を張らないまま、元気になろうとするから
いつまでたってもほんとうの元気にならない。

いのちの根を張らないままだから、昔と比べたら
どんどん不可解な病に人間の体は侵されて行く。


もう、このままいのちの根を引っこ抜いたままだと
根は枯れてしまう。

根が枯れてしまえば、
文明がしぼみ、いつかは消滅することは間違いない。
もしかしたなら、人類は滅びてしまうかもしれない。

そして、もうすでに根は枯れてしまったのかもしれない・・・


だからといって、人間がみんなと励ましあって
生きていかなくてもいいというわけではない。

だからこそ、人間はみんなと励ましあって
精一杯生きていかなければならないのかもしれない。
                

                    モモタロウ(写真/文)

        ※写真は駒ヶ根や環境エンジニアとは
          何の関係もありません。

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May 17, 2005

パパはゼエゼエ、ムスコはコンコン

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パパは今日も1日ゼエゼエ。
2才のむすこも今日もコンコン。

パパはいつも咳が出ないでゼエゼエ・ゼエゼエ。
むすこはいつも咳が出てコンコン・ゼエゼエ。

パパはゼエゼエすると苦しくて動けなくなる。
むすこはコンコンすると苦しくてじっとしていられなくなる。

パパは苦しいとき寝床に寝られなくなる。
むすこは苦しいと寝床でもがいている。

パパがむすこを抱っこすると
どっちのゼエゼエ・ヒューヒューの音だかわからなくなる。

パパ自身の苦しみは体だけだけど
むすこが苦しむと心まで苦しくなる。

自分の苦しみは耐えられるけれど、
むすこの苦しみは耐えられないと思う。
むすこの苦しみの分を、
自分がもっともっと苦しんであげたいとも思う。

でも、どこかで自分の苦しみを分け持ってくれている
むすこに感謝している。。。
すまないと思っている。。。


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子どもが外遊びできない社会

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昔の子は日が落ちるまで外で遊んでいた。

今の子は親が見守っていなければ、
日が落ちるまで遊ばせられない。


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だから、外で遊ばせる時間は昔の子よりずっと少なくなる。

物騒な世の中になったもんだ。
しかも、この異常な事態を多くの大人たちが黙殺している。


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この状況が20年後の子どもたちにどんな影響を与えるのだろうか?
なんらかの影響を与えないはずがないだろう。

しかし、今のぼくの力じゃどうにもならない。
わが非力を思う…

                           モモタロウ

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May 15, 2005

コラム “健康”と“幻想”

“健康”という言葉があちこちに使われている。
でも、ぼくはその“健康”という言葉にあまり“ぬくもり”を感じない。

少し前まで社会には“理想の家庭像”というのがあって、
“家族の絆”だとか“親子愛”“夫婦愛”等の
“美しい言葉”が簡単に使われてきた。
でも、重大な罪を犯した少年の家庭が少なくとも表面的には
一般的にいう
“理想像に限りなく近い家庭”であったなど、
日本社会における“理想の家庭”というもののイメージが
ガタガタと崩れてしまった。

ちょうどそれに似たような感覚を“健康”という言葉から受けてしまう。

この世で、実際に、まったく病気にかからない、
“完全な健康体”と呼べる人は、
どれくらいいるのだろう。ぼくは限りなく皆無に近いと思う。

だとしたら、“健康”とは単なる“理想”にしか過ぎず、
もっといえば“幻想”であるのかもしれない。

だからこそ、
(ここからぼくが常々抱懐している意見になるのだが)
“健康”という“理想”をただ追い求めるより、
むしろ、

われわれはなんらかの病をもっているけれど、
「それでもいいのだ。病でもいいのだ」
「必ずしも治そうとする必要はないのだ」

さらに、

「むしろ病があった方がいいこともある」

というような認識に進んでこそ現実的であり、
人に真に生きる力を与えるのではないか、と思うのである。

そうした、
現実より出発してこそ、
“理想”というものも
“画餅”でない“ぬくもり”のあるものになると
思うのだが…、どうだろう。

ただ、多くの人が自然にそのような認識にいたる時代が
もうそこまで来ているような気が
ぼくはとてもしている。         (END)

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May 14, 2005

マイ・バーバー・イズ・マイ・ワイフ!

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「床屋さん代の節約のためよ」と、
妻に説得されカットしてもらった。

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妻は子どもの頭を刈ったことあるが、
大人の頭を刈るのは初めてである。
楽しそうではあった・・・


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ヒ、ヒ、ヒドイ。ヒドスギル。。。
マエノアタマニ、モドセ!!!

           (文/モモタロウ 写真/モモナ&モモコ)

            注)ヘノヘノモヘジなどの顔は写真に修正を
              施したもので、ほんとの顔ではありません。
              

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May 13, 2005

僕らは、今、どこにいるのだろうか?

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僕らは、今、どこにいるのだろうか?

からだのどこか?
わが家のどこか?
わが街のどこか?
日本のどこか?
地球のどこか?
宇宙のどこか?
この世のどこか?
この世やあの世よりもっと広くて大きいどこか?

もしも、目に見えるものすべてを取っ払ってしまったら
僕らは途方に暮れてしまうだろう。

でも、何もない中で生きているのが、
僕ら人間のほんとうの姿なのかもしれない…

だから、みんな仲良くしていこうよ。

          by モモタロウ(写真/文)

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ほんの一瞬の夕暮れギャラリー

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数十年住み慣れたところが、
毎日こんな風に彩られる時があるなんて
ぜんぜん気づかなかった。
夕日を切り抜き、影絵を作った“木”が
「おまえ、知らなかったのか?」
と笑っているようだった。。。

               by モモタロウ(写真/文)

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保育園がなくなった!

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2才のモモイチロウが3月まで通っていた保育園が
閉園のため取り壊された。

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建物はおろか、すべり台もブランコももうない・・・

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この子の目には、どう映ったのだろう。

               by モモタロウ(写真/文)

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May 12, 2005

LOHAS-健康と地球環境に優しく!

~Lifestyles of Health and Sustainability の頭文字をとった略語で、1998年に社会学者のポール・レイ氏とシェリー・アンダーソン氏は、「カルチャークリエイティブ」の概念でこの現象を表現しました。今後、先進国での生活様式の主流の一つとなると予測されます。米国では5000万人以上が実践しています(※を参照)。~

このLOHAS(ローハス)ですばらしいのは、

「健康にやさしいことは環境にもやさしい」

また

「環境にやさしいことは健康にもやさしい」

という考え方です。

環境と人間の健康を優先した

持続可能な社会のあり方を模索しています。

しかも、

おしゃれに、自分らしさを加味した生き方をして・・・

(以上、ローハスクラブhttp://www.lohasclub.org/index.htmlを参考にしました)


ぼくは、

「健康にやさしいことは環境にもやさしい」
「環境にやさしいことは健康にもやさしい」

であるとともに、

「子育てにやさしいことは環境にもやさしい」
「環境にやさしいことは子育てにもやさしい」

「自分らしく生きれば環境にもやさしい」
「環境にやさしければ自分らしく生きられる」

と思います。

そして、

日本人の昔ながらの生き方・哲学を根本理念において、

現代に生き、日本人である、自分にふさわしいLOHAS

を実践できればと思いました・・・

(この「キビダンゴをあげる!」もその一つになれば…)。


(※)LOHAS(アメリカ)の消費者イメージ

■ 環境にやさしいライフスタイルを心掛けている。
(例えば、商品の選択をする場合、価格よりも性能が良い、環境に優しい、デザインが良いが判断の大切なポイントと考えている。)
■ 持続可能な経済の実現を願っている。
(例えば、地球環境に負荷を掛けない、風力発電等の自然エネルギーの活用、サスティナブルな農業、地球温暖化の防止、エネルギー源の水素化の実現など)
■ 予防医学・代替医療を心掛け、なるべく薬に頼らない。
(例えば、運動、食育、医学についても気に掛けている。)
■ ヘルシーな食品やナチュラルなパーソナルケアー製品を愛用している。
(例えば、有機野菜や化学添加物の少ない食品を選び、自然系洗剤等を使う。)
■ 自己啓発のために投資する。
(例えば、異文化との接触、ヨガや習い事、友人関係への時間投資)

平均年齢は42歳、30%が大学卒、年収は全米平均以上、60%が女性といってます。
(ローハスクラブhttp://www.lohasclub.org/index.htmlより)

                                     以上

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May 11, 2005

この言葉で自殺は止められる?

「価値があるから生きるのではない。
生きていることに価値があるのである」
これは、ある本の広告の言葉。
いっこうに減らない自殺者に向けた言葉という。

でも「生きていることだけで価値がある。だから生き続けよう」
といわれて、自殺を思いとどめる人がどれだけいるだろうか

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人が死にたいのは、生きる価値のあるなしより、
生きていくことがとてもつらいから、死にたいのではないか。

あえて言うなら、人は、
「生きていることに価値があるから生きている」
のではなくて、

人は、「生きているから、生きている」のだろう。

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だから、早い段階で、「そんなにつらいなら死んじゃってもいいんだよ」って
言ってくれる人が傍にいる方がよほど自殺を思いとどまってくれるのではないか。

生きることがつらくてつらくてしょうがない人に、
生きることだけで価値があるんだからもっと生きてよ、
というくらい酷な事はないと思うのだがどうだろう。

そんな事を、今日、ただひたすら生きている
鴨(かも)を見ていて、ふと思った。。。

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            byモモタロウ(写真/文)

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曇りの日は曇りの心で…

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晴れたときは心も晴れ晴れ。
曇ったときは心も曇る。
その逆もまたしかり。

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人間の心は天候に左右されるようじゃだめという。
でも、神様から与えられた心が
天候に左右されるようにできているなら、
それはそれでいいじゃないか。

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毎日ビルの中にいて、
天候の変化に気づくことさえなくなってから
人間は急速に生きずらくなったような気がする。
 
               byモモタロウ(写真/文)

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May 10, 2005

二度とない人生だから

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二度とない人生だから
時には、空の青さを見つめていよう。
         
          byモモタロウ(写真/文)

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まずはパンツをはいてくれ!

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2才のモモイチロウは最近、
ぼくがパソコンをいじっていると
「マジレンジャー見せて!」
「トーマスは?」とやってくる。
今日は、覚えたての“トイレ”半ばで
やってきた。
パソコン、見せてあげるから
「まずはパンツをはいてくれ!」

           byモモタロウ(写真/文)

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自然をほんとうに守れる人


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病となったり、
自分の心の弱さを見つめたとき、
自然のやさしさが身に沁みてくる。

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健康で迷うことなく働いている時は
まるで感じないこと…。

とても逆説的だけど~~~、

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自然環境をほんとうの意味で守れるのは
体や心の弱い人かもしれない。

             byモモタロウ(写真/文)

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飛び込み!


位置について~

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ヨォーイ……

              byモモタロウ(写真/文)

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May 09, 2005

ラジオは人を癒す

平日の昼間、川の辺でたった一人、大音量を出してラジオを聞いている女性がいた。(―1ヶ月程前)
ピンクのシャツに、オーバーオールのジーンズ、みつ編みのおさげを左右に垂らしている。
10代の少女のような格好をしているが、少なく見積もっても40代。50代かもしれない。
彼女は“淋しい”のかもしれない。「誰か私に注目して!」と叫んでいるように思えた。
そして“ラジオ”から流れる音でその孤独を必死に埋めようとしているようにも見えた・・・。

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「テレビは『みなさん』、ラジオは『あなた』に語りかける」と言われたことがある。10年位前にラジオの構成作家をしていた時だ。ラジオ番組の制作に長年携わってきたあるベテランの方からの助言だった。しかし、その頃、ぼくはラジオの台本に「あなた」と書いても“心を込める”ことはできなかった。頭ではわかっていても心底からその意味を分かっていなかったのだ。

今、ラジオの台本を書いていないし、ラジオ番組をそんなに聞かないけれど、その言葉が少し分かるようになった気がする。
パーソナリティーが「あなた」と語りかける言葉、そして「あなた」のために流す音楽が、人の心の空虚を少しでも埋め、孤独をなぐさめ、不安をやわらげ、心を癒す。ラジオにはきっとそんな力がたとえささやかにしてもあるのだ。
お客さんの多くをテレビに奪われ「みなさん」が聞かなくなった中で、こつこつと「あなた」に語りかけてきたからこそ、今ラジオはその力を発揮しはじめたのかもしれない。

★★情報キビダンゴ★★
朝日新聞5/9朝刊“深夜ラジオ『かつて若者』に人気”の記事によると、現在シニア向けのNHK「ラジオ深夜便」を一晩に5分以上聞いている人は220万人になるという。ニッポン放送の「オールナイト・エバーグリーン」はシニア層が青春時代に聴いたポップスやロックなど音楽中心の編成にしている。ラジオ局は「深夜放送の洗礼を受けた人たちが戻ってきた」「(50代、60代のシニアたちが)眠れない夜にやすらぎを求めている」と言っているそうだ。


《お知らせ》
■「コラムDEキビダンゴ!」 http://plaza.rakuten.co.jp/momofugaku/(画面左側、リンクの「もう1人のモモタロウ」をクリック)に「ニートや引きこもりは甘えか?」という記事も書きましたので、興味のある方はぜひお立ち寄りください。

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May 08, 2005

セルフケアは「気持ちいい」から!

流行語大賞に秘められた真実

  昨年の流行語大賞「チョー気持ちいい!」。アテネ五輪で北島康介選手が金メダルとなりインタビューの冒頭で発した言葉だ。

  ぼくはそれを聞いたとき「気持ちいい」という言葉のあのシチュエーションでの使い方に新鮮さを感じた。テレビで見ていた多くの人も意外性を思ったのではないか。その感想は満更、マトをはずしていないことが平井伯昌コーチの言によってわかる。平井コーチによると、選手は自分の泳ぎや体調、水の状態など的確に“言語化”できなくてはいけない。選手が「考える葦」となり、自分の泳ぎを反省し“言語化”することによってコーチがアドバイスするときのヒントとなるのだ(幻冬舎『世界でただ一人の君へ』より)。

 その日の泳ぎ、1位となり金メダリストになったこと、今までの苦労が報われたこと、世界中の人の賞賛を受けてインタビューに立っていること、・・・その自分の心境、体の状態などを的確に端的に言語化したのが「チョー気持ちいい!」だったのだ。つまり日ごろ、水泳とともに“言語化”を訓練してきた“努力の結晶”だったのだ。

現代人は「痛い」も「気持ちいい」も感じない?
 
 われわれは“言語化”とまで畏まらなくとも、健康のために自分の体の状態を言葉で表せなくてはならない。「気持ちいい」とか「○○が苦しい」とか「痛い」とか。声に発しなくても“意識する”必要があると思う。

 そんな当たり前のことをなぜあらためて言及する必要があるかというと、現代人は、どんどんそういった身体感覚がなくなってきている。つまり「苦痛を感じる」力も「心地よさを感じる」力も減っていると思うからだ。それは自然の中にあまり行かないせいかもしれない、体を動かすことが少ないせいかもしれない、また医療によって簡単に「苦痛を止められる」せいかもしれない。

「気持ちいい」がセルフケアの原点?

  養老孟司氏はベストセラー『バカの壁』で「病気の苦しみには何か意味があるのか。(中略)しかし、実際にはその苦痛にも何か意味がある、と考えるべきなのです。苦痛を悪だと考えてはいけない」と語っている。

  とにかく現代人は「苦痛」の感覚も、その反対である「心地よさ」の感覚も弱くなっている、もしくは意識できなくなっているがゆえに、よほどのひどい状態になってどうしようもなくなって病院に行き「もう手遅れ」ということが多すぎるのではないか。

  そもそも「セルケア(健康の自己管理)」とは「ここがちょっと痛い」とか「苦しい」、「おかしい」だからお酒は控えておこうとか、早く寝ようとかそういうところから入るものであろう。ウォーキングをやると「とっても気持ちいい」から続けよう、早起きは「気分爽快である」、・・・。つまりおのれの体の感覚こそがセルフケアの基盤であろう。そして、本当は自分という「生命を大切にする」ということの原点もそこにあるはずだ。

さっさと自然の中へ行って、体を動かせ!
 
 心理学者の加藤諦三氏はそのホームページ(http://www.kato-lab.net/index.html)の中の子育ての項で「心の教育とは、気持ちいいなーと言う感じを体験すること。爽やかな緑を見て、朝の風にあたって『気持ちいいなー』と感じる。その爽快さの体感が心の教育である」と述べられている。

 心の教育だけではない体の教育、健康の教育についても同じであろう。そして子どもだけではない、大人こそその鈍った「気持ちいい」の感覚を「チョー気持ちいい!」にまで高める必要があるのだ。それには、やはり養老孟司教授が授業中に学生によくいう「さっさと外へ行って、体を使って働け」(『バカの壁』より)につきる。自然の中に丸裸で飛び込んでこそ、人間が本来もっている“野生”の感覚が揺り起こされるに違いないのだ。

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(写真は近所の“湧き水”で撮影)

       by モモタロウ

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May 07, 2005

出産についての赤裸々な告白?

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(※この写真は、チューブ状の滑り台を息子モモイチロウが
滑り降りてくるのを、母モモコが出口で待ち構えているところ)


「モモイチロウを産んだときはこんな心境だったでしょう?」
と妻モモコに得意げにこの写真を見せたら
「痛くも苦しくもないから、ぜんぜん違う」
とバッサリ切り捨てられた。


男はお産のときの女性の痛み・苦しみはわかりませんからね。
あとから、この写真は、出産に立ち会った時、
2人を見ていたぼく自身の目線だったのかな
とふと思いました。                 (終)

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May 06, 2005

“自然治癒力”否定論 ?

「自然治癒力を高める○○」。近頃やたらとそういった広告が目に付く。その○○に入るのは、健康食品、サプリメント、運動など健康産業の商品・サービスである。

 そもそも、自然治癒力とは「自然に治癒する力」のことであろう。人為によって高めなければ治癒しないならば“自然治癒力”じゃないではないか。健康食品、自然食品、サプリメントを摂らなくても、また運動をしなくても、何もしなくても“治る”から「自然治癒力」じゃないか。どんな人間にも備わっている病を治す力を「自然治癒力」というのではないか。

 「自然治癒力を高める○○」といった広告が増えたのは、たとえば「ガンに効く○○」といった広告をすると法律違反となり、捕まってしまうようになったけれど、「自然治癒力」なら曖昧なものであり逮捕されることはない。そのため現在、世間より注目されている「自然治癒力」という言葉を使っているというのが現状であろう。

 ぼくが、なぜ、この傾向についてあえて批判するのかというと、患者が「自然治癒力を高める○○」という言葉を目にしすぎると、「自然治癒力というのは高めなければ働かない」と思ってしまうのではないかと懸念するからだ。「自然治癒力」というのは、体が弱い人でも、病気の人でも、体力がない人でも、お金がなくて健康食品を利用できない人でも、なんらかの理由で運動ができない人でも、どんな人にでもそれなりに備わっているものである。何度もいうように、だから「自然治癒力」なのである。

 確かに、その人の健康状態などによって「自然治癒力」が高い低いはあるであろう。それに「自然治癒力」が弱い人は、高めるためのなんらかのアクションをした方がいいかもしれない。だからといって、“○○”等によって高めなければ働かないというものではないのである。そうだとしたら「自然治癒力」じゃないのである。いかに体が弱かろうがお金がなくて何も利用できなかろうが「あなたの心と体には自然治癒力が備わっている。だから心配しなくてもいいんだよ」と励ますことができるのが「自然治癒力」なのである。

 「自然治癒力を高める○○」という広告の背後には、「○○などによって高めなければ自然治癒力は働かず病は治らないんだよ」というキャッチ・コピーが秘められている。なぜならば、「○○を使わなくても自然治癒力が働く」ならば○○が売れないから。
 この文のタイトル「“自然治癒力”否定論」は、正確に言えば「コマーシャリズムの中で安易に使われている“自然治癒力”という言葉の否定論」なのである。

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                    by モモタロウ(写真/文)

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音を聴くと苦しみや痛みが和らぐ

苦しみにとらわれて悪化!
 喘息の苦しさ、刺すような頭痛、アトピーの恐ろしいまでの痒さ・・・。病には苦しい、痛い、痒い…といった症状が伴います。
しかし、その症状にとらわれてしまうとますます悪化します。たとえば、痛みの場合、「痛い!痛い!」と痛さに注意を向けていると、ますます痛くなります。それは、傷口に塩を塗るのと同じ事です。心理学者シーベリーが「健康でありつづけるには、病気にではなく健康に注意を向けていなければなりません」(『人生は心配しないほうがうまくいく』-“ほんのキビダンゴ”を参照)と書いていますが、それと同じことでしょう。

分かっていても気にしてしまう! 
 それが分かっていても、注意を外に向けられる人と、そうでない人がいます。「苦しいとき、痛いとき、痒いとき、それを“気にしない”方がいいのだ」と分かっていても、注意を他の事に向けられず、どうしても気にしてしまう人がいます。「気にしないように」「気にしないように」と思えば思うほど気にしてしまう人はたくさんいます。私もその一人です。
 加藤諦三氏は著作(『悩みの遺伝子』-“ほんのキビダンゴ”参照)で書いています。「悩みを反芻している人は、脳のある部分が膨張している。それは恐怖を管理するところの近くにある脳の箇所で、扁桃核とつながっている」とあります。つまり、苦痛で言えば、その人が持っている遺伝子によって、いやが上にも、苦しみ、痛み、痒みを普通の人以上に気にしてしまうのです。不可抗力なのです。

《 解決案① 》 
 加藤諦三氏は書いています。そのような状態のとき、「今時分の脳は『生きる』という視点からすれば『間違って活動している』と自覚することである。とにかく『脳のある箇所が活動しすぎている』と知ることである」。つまり「気にしすぎている」自分を客観視することによって、それだけでも苦痛は和らぐという。そんなに心配するほどのものではないと安心することによって、だいぶ症状も緩和されるのです。

《 解決案② 》
 自分で自分に向かって「大丈夫、大丈夫、大丈夫」と「大丈夫」を語りかける。とにかく、どんなに苦しくても痛くても痒くても、言葉を出せないならば、意識の中で自分に声をかける。そのことで、症状から注意をそらし、安心感を与えられます。すると、自然治癒力も高まるでしょう。

《 解決案③ 》
 そして、注意をそらすのに、とても有効な方法に「音を聴く」があります。深夜であれば、冷蔵庫の音でも、誰かのいびきでも、遠くを走る車の音でもいい。また、ラジオや音楽でもいいかもしれません。ただ、ボーっと聞くのではなく、肩に力を入れずに一つの音に注意を傾けるのです。「注意をそらす」ということであれば「テレビを見る」のもいいでしょう。しかし、散漫になりがちです。ぼくは、「目は心の窓」といいますが、「耳は心の入り口」と感じています。「聴く」「聞く」ということには、心に対する不思議な働きがあるようです。精神統一も助けてくれます。その聴覚の働きによって、脳の異常な働きをカバーするのです(もしかしたら脳のその部分の沈静化を促すのかもしれない)。

「注意に注意せよ!」
 これらは、西洋医学の“白い薬”のような特効薬ではなく、その効果の表れ方も、少しずつであったり、とても緩やかなものであり、また、誰にでも効果があるということではないかもしれません。しかし、心理学者シーベリーの言葉「注意に注意せよ!」にあるように、何に注意をするかによって幸福は決まるし、健康度も決まるというのは確かなようです。〈END〉

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May 04, 2005

大きな木と小さな木

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家の近くの神社にけやきの大木がある。

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樹齢350年、周囲5.95m。
市の天然記念物に指定されている。

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幾年月、風雪に耐え、そして
いまだに力強く生きる姿には
圧倒される。

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しかし、神社の脇にある小さめの木にも
それなりの存在感がある。

それぞれの木にはそれぞれの持ち味があるんだ。

          by モモタロウ(写真/文)

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たそがれの“蔵”

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昔の人は、
なんて美しい建物に囲まれて
暮らしていたんだろう。

                   by モモタロウ(写真/文)

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自律神経を安定させる“横ゆれ”

喘息などのアレルギー患者は、夜、症状がひどくなります。

喘息は発作が強くなり、
アトピーはより痒くなり、
鼻炎や花粉症は鼻水が止まらなくなる。

これは、夜になると、自律神経が
副交感神経優位の状態となるからです。

副交感神経が働いたよりリラックスした状態で、
こうしたアレルギー症状は強くなります


これは非常に面白いことだと思うのですが、

副交感神経が働いているリラックスした状態で、
人間の自然治癒力はより高まるといいます。

そして、アレルギー症状が強く出るのは、
自然治癒力が高まった状態でのことである。

もしかしたら、アレルギー症状というのも
自然治癒の過程ではないか、
そういう仮説が成り立つと思うのです。

―実は、仮説どころか、ぼくはそれを信じて
 自分の病の治癒にあたって、
 それなりの成果を上げているのですが。


話を元に戻すと、
だから、戦争にかり出された喘息もちのある兵士は、
戦場では発作が出ず、
帰国して平和な暮らしを再開してから、また発作が
起き始めたと聞きました。

とすると、副交感神経に傾いた自律神経を
交感神経の方に傾かせ、バランスをとることによって、
アレルギーの症状も緩和させることができるはずです。

これは、アレルギーに対する根本的治療法ではないと
思うのですが、ほんの少しでも症状を緩和させたいという
人は、試してみるのもいいかもしれません。

そこで、ぼくがやってみた方法で、
それなりの効果があったのをご紹介しますと、
“横ゆれ”の“背骨ゆらし”です。
“縦ゆれ”はだめでした。“横ゆれ”です。

“背骨ゆらし”とは、「日本健身気功協会」の事務局長であり、
健康ヘルパーネットワークの代表である津村喬さんが
提唱している初心者でも簡単にできる気功です。
(方法については著作「気功への道」(創元社)等を参照してください)。

また西式健康法の“背腹運動(左右揺振運動)”
(http://www.nishikai.net/japan/6dai/index.html)
も参考にしました。
それによると、(横揺れの)脊柱運動は交感神経が
刺激されて酸性に傾くそうです。

症状がひどく出てしまったときは、とてもできませんが、
なんとなく症状がでそうだなというときに、横ゆれの
“背骨ゆらし”をしていると、ぼくの場合は、
少し呼吸が楽になりました。
皆さんも、著作などを参考に、おためしください。
                  (END)

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May 03, 2005

“命の火”

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みんな忘れている。
“命の火”は吹けば簡単に消えてしまうことを。


★★怒りのキビダンゴ★★

「人の命は軽い!!!」

人の命が重いなんて、よく言えたものだ。

結局は、JR福知山線の事故は、

鉄道会社の利益第一主義を

根底からささえていた、

ぼくたち日本人自身が

“命”より“便利さ”や“効率”を

選択した結果でしょう。


一人一人の人間の命は軽い。

そしてその命を軽くしているのは、

われわれ自身なのです。


最後に中村天風氏(哲学者)のひとこと。

金だ、家だ、仕事だ、名誉だ、愛だ、って、

たしかにみんな大切なものではありますが、

命あってのものでしょう。

それ以外は、しょせんは、

人生の一部でしかないんですぜ

         『心が強くなる言葉』(イースト・プレス)より

                  〈END〉


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May 02, 2005

ぎょう虫検査

(※写真は事情によりカットしました。)

やり方は、昔も今も、変わらないんですね。
 
              モモタロウ

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May 01, 2005

“影”を置き忘れてきた大人たち

子どもの頃はよく影踏みをして遊んだり、
とても意識していたけれど、
大人になってからは、ずっと“影”の存在を忘れていた。

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あらためて、じっくり見つめてみると、
“影”というものはとても美しい。

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もし、花というものが、
人間の目を楽しませ、
心をなぐさめるために、
神によって与えられたものならば
“影”だってそうなのかもしれない。

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それにしても、どうして、
“影”の存在を忘れていたのだろう。
忙しすぎたのか。
それとも、忙しさを理由に
あえて“影”から目をそむけていたのか。

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それとも、子どもの時に
“影”を置き忘れてしまったのかな                    

            by モモタロウ(写真/文)

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