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June 30, 2005

さえぎるものがあるからこそ・・・

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だからこそ、

この世は無限である。。。


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    by モモタロウ(写真/文)

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わ、デンチャ(電車)だ!!!

トーマスの影響か、
モモイチロウ(もうすぐ3才)は電車が好きだ。

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線路をみると、いてもたってもいられなくなる。

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将来は電車の運転士?

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時節柄、親としてはそれだけには
ならせたくない気がする。

ま、今から心配してもしょうがないか。

            by モモタロウ(写真/文)

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瞬間芸

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息子「あ、吸い込まれちゃった!」

私「(息子に)おまえが、突っ込んでるんだろうが!」


母「(私に)あなたが突っ込ませてるんでしょ!!」


 
             失礼しました・・・

                  by モモタロウ(写真/文)

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ウンチをしながら君は大人に・・・


モモイチロウ(もうすぐ3才)は
この春から、トイレでおしっこができるようになった。
つづけて、ウンチもできるようになった。

彼がウンチをしてるとき、
そっとのぞいてみると、
とても、大人の顔をしている。
それ以外では、決して見せない表情だ。

「こうしてウンチをしながら、大人になっていくんだね。

と、そっと扉の隙間から眺めながら
つぶやいてしまつた。

人が見てると、
なかなか見せてくれないのだけれど・・・
その大人の顔を今日こそはのぞいて見ようか!

そっと、そっと、そっと・・・

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ああ、見つかっちゃった・・・

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だめだ、今回も失敗だ。

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いつか、決定的瞬間を撮ってやるぞ!

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でも、子どもの大人の表情なんて、彼が大人になりゃ
いくらでも見られるんだよね。
やめとくか。

               by モモタロウ(写真/文)

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June 27, 2005

天命と病―日本人としての使命


やはり、健康というものが
病気でないということならば、
人生の目的にはなりえない。
五木寛之氏は「人生には目的はない」と書かれているが、
僕は、どんな人にもその人、
固有の使命があると信じている。

尊敬する哲学者であり教育者の森信三先生は
その著書『修身教授録』でこう述べられている。

「国民の一人びとりが、深く自分の属する
国家民族の使命を自覚して、
自分の個人的な使命を、常に国家民族の大使命に対して、
独自の角度からこれを分担することができたならば、
その時個人も
また真に生きる大道が開かれるわけであります。
 したがって問題は、結局、
個人としては国家民族の使命に対して、
自分は『いかなる角度』から分担するかを、
自覚することに外ならぬと
言えましょう。
 といことは、すなわち自分が
生涯をかけて果たすべきものが、
国家民族の大使命に対して、
一体いかなる位置を占め、
いかなる方向から
これを分担するかという点に関して、
常に明確な自覚を持つことが必要でありましょう。
 したがってこのような自覚が
明確であればあるほど、その人の生涯は、
歴史という民族生命の大流に
合流するわけであって、それはまた、
大いなる織物における一つの緯のように、
織り込まれることともなるわけです」

そして、森先生は『一日一語』において
こう書かれている。

「日本民族の使命は将来の東西文化の融合に対して、
いわばその縮図的原型を提供する処にあるであろう」

前掲の文章と組み合わせれば、
つまり、将来の東西文化の融合に対して、
「いかなる角度から分担するか」
それが、日本人として生まれた
その人固有の使命ということになろう。

「病」というものは、
その「いかなる角度から」を定める上において、
定規的な役割を果たしてくれる。

最後に森信三先生の2つの言葉を掲げておきたい。

「われわれ人間というものは、
すべて自分に対して
必然的に与えられた事柄については、
そこに好悪の感情を交えないで、
素直にこれを受け入れるところに、
心の根本的態度が確立すると思うのであります。
否、われわれは、かく自己に対して
必然的に与えられた事柄については、
ひとり好悪の感情をもって対しないのみか、
さらに一歩をすすめて、
これを『天命』として謹んでお受けするということが
大切だと思うのです。
同時に、かくして初めてわれわれは、
真に絶対的態度に立つことができると思うのです」
                 (『修身教授録』より)


「絶対不可避なる事は即絶対必然にして
これ『天意』と心得べし」
                 (『一日一語』)


絶対不可避なるものを受け入れるという「諦念」、
それは決して消極的な生き方ではなく、
むしろ使命に生きるという意味で
非常に肯定的・積極的な生き方なのだ。

                                                                                                                                                                                                          

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June 26, 2005

決断(再び薬を断つ)

2001年11月よりおよそ三年半、薬を使用せずにきた。
そして、最近は少しずつであるものの確実によくなってきた。
にもかかわらず、先月より、気管支拡張剤や吸入ステロイドなどの
薬を使用し始めたのは、他でもない。
経済的理由のためだった。
特に、春と秋、まだまだ強めの発作が続けざまに起きる。
自然治癒力をベースに治療を行っている限り、
完全治癒までには時間がかかる。
夏と冬のみ、都合よく、働ける仕事なんてそうあるものではない。

しかし、妻と相談の上、今月より再び、薬をやめることにした。
なぜなら、僕の病は喘息だけではない。
多発性嚢胞腎という難病を腎臓と肝臓に抱えている。
そして、医師からはあと十年後、すくなくともいつかは必ず
人工透析になると言われている。
つまり現代の医学では治すことができず、
透析になるのもやむをえないというスタンスである。

僕自身はあきらめていない。
あくまでもそれは西洋医学の見解であるに過ぎないからだ。
ゆえに、たとえ、医師から気管支に直接吸い込む吸入ステロイドなら
腎臓と肝臓に与える影響は少ないのではないかと
言われても、多発性嚢胞腎の進行が進む原因となるような可能性が
少しでもあるなら避けたい。
医師が吸入であるから、一回に使用するステロイドの量は
ごく微量だから大丈夫といわれても
まずは自分の心に忠実でありたい。
毎日、二回も三回も使用していたなら、
たとえ一回の量が微量であろうとも蓄積されていくだろう。
その不安を抱えて生きるのはいやだ。

そして
もう一つの理由、今ではそちらの方が重みを増しているのだが、
喘息と薬を介在せずに向き合う、
苦痛を真正面から受けとめることは、
自分を深め、気づきを与えられるにはとてもいいことである、
むしろ。
私が追求したい仕事にとっては、
実に有り難いと感謝すべきことなのである。
そこに気づいた。

ここで残ったのは
経済的問題である。
春と秋に働けないなら、
夏と冬だけでも一年間分の生活費を稼げる
そういう仕事をつくる。
もっと、徹底して
その方向でやれることを探す、創造する、
そうするしかない。

とにかく、
食事など自分を取り巻く環境を整えながら、
可能なところまで精一杯やってみる。
その方向で行くことに腹を据えた。

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北山公園 花菖蒲

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尾形光琳の『燕子花図屏風』のイメージで
撮りました。(お恥ずかしい限りですが…)

『燕子花(かきつばた)』を辞書で調べると、
「葉は広剣状、ハナショウブに似るが中肋脈がない」
と説かれていました。
“カキツバタ”と“ハナショウブ”は違うんですね。
そんなことも知らなかった。。。

“ハナショウブ”を“カキツバタ”のつもりになって、
人ごみの中を一所懸命、
尾形光琳の絵を再現して撮影しようと
(それはちょっと大げさではあるのですが)
立ったり腰を下ろしたり、移動したりしていた
自分が今になって、恥ずかしくなりました。

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June 23, 2005

病を殺したのは誰だ!

ニーチェに

「神を殺したのは誰だ!」

という言葉があるそうだが、
これはこう言い換えることができるのではないか


「自然を殺したのは誰だ!」


さらに、病は自然現象であるという意味において


「病を殺したのは誰だ!」


ということになる。

現在、世界を支配している

西洋文明、近代科学文明というものは、

自然に打ち勝ち、自然を支配することを志向する。


東洋文明というものは人間は自然の一部であり、

自然との共生という考え方に基づく。


これからは東洋の、自然との共生、そして病との共生、

自然と仲良くする、病と仲良くする・・・

という考え方を世界中に広めなければ、

地球(自然)も人間も、どちらもつぶしあって、

消えてなくなってしまうかもしれない。

                                                                                                                                                                                                                                                                             

神を、自然を、病を生かすのは誰だ!                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                   

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June 22, 2005

地に足がついた理由

ぼくが“土”(健康、子育て、自然‐土)に

こだわりたい理由、

与えられたものから逃げないため、

そして、

地に足がついた生き方をしたい、それだけ。

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June 20, 2005

現代医療―遠藤周作さん順子さんの願い③

遠藤順子『夫・遠藤周作を語る』より、
聞き手の鈴木秀子(聖心女子大学文学部教授)さんの言葉

遠藤(周作―筆者注)先生が「心あたたかな医療」を提唱されたのは、身体の部分を治すというよりは、心も身体も両方ひっくるめて人間全体を診てもらいたいという願いがあったわけですね。その過程では、医者も人間、患者も人間、両方が対等になれるし、一方的じゃなくて双方向の関係になれるはずだ、というお考えでした。

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現代医療―遠藤周作さん順子さんの願い②

遠藤順子著『夫の宿題』より

一人の患者の病と立ち向かうということは、その魂にまで手をつっこむことでもあります。その意味で医者の仕事は、小説家の仕事や信者の告解をきく神父の仕事とも、共通する部分があると主人(※筆者注 遠藤周作氏)も常々申しておりました。
 そのような観点に立てば患者は医師にとって、自分たちの医療技術を向上させる様々な知識を与えてくれる師であるばかりか、同時に「人間とは」ということを教えてくれる師でもあるわけです。

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現代医療―遠藤周作さん順子さんの願い①


現代医療について、故遠藤周作さん、と

その妻、順子さんを通じて語る文章を

ほぼ書き終えた(後は校正か?)。

その中で、引用したかったけど、

引用できなかった文を、

遠藤順子さんの著作より、

今回より3回にわたって抜粋したい。


遠藤順子著『再会』より

帯津良一先生が生死観の確立していない医者は不要だと書いておられます。何も特定の宗教を信じなくてもかまいませんが、人の命にかかわる仕事をしている人間として、人間1人1人に命を与え、自然を育んでいる大いなる生命というか、超自然的な存在に対する畏敬の念は、少なくとも医学にたずさわる人たちにはもっていてほしいと思います。そのようなことを希うことははたして本当に非科学的なことでしょうか。

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June 17, 2005

土から離れてダメになった日本人③


ただ田舎における農業などの体験というものは
そう簡単にできるものではない。
(※前の記事より続きます)
時間と金が必要になる。
たまにしかできない
(現状では、我が家は厳しい)。


すると、“土”ってなんだろうという
問いかけに戻ってしまう。
我々はどうやって“土”に戻ればいいのか・・・。


ぼくは思う。人間の体は“土”で育った
植物やその食物を食べて成長した“動物”を
食べて成育し生命を保たれる。
そして、死んで本来は“土”に戻っていく。

こう考えて見ると、人間の身体は
“土”ととらえていいのではないだろうか。


だから、病気などで自分や身近な人の“体”と
向き合うことは“土”に触れるということである。
医者まかせにするのではなく、自ら“体”に
向かっていくということは、
“土”から学ぶのと同じくらい意味があることで
あるに違いない。


また、子育ても、人間の体‐子供と正面から
向き合うという意味で、“土”に触れるということである。
子供は大人と比べて純粋である。
だから大自然を体現している。
(自分は父親だが、自分の立場で)
子育てに参加することは大いなる学びがあると考える。


そして、自然・環境。東京の郊外にしては、
我が家の周囲には自然が豊かである。
遠くへ行けなくても、その身近な自然にできるだけ触れる、
また関係を深くしていくことは、
当然、“土”に触れるということにつながる
(また写真などでその美しさ、良さをほんの
ちょっぴりでも皆さんと分かち合いたいという思いもある)。

またできるだけ、たとえ初めは身近なところより始めても
園芸や農業など直接、土に触れる機会を作っていきたいと
考えている。

こういう意味合いもあって、
「キビダンゴをあげる!」で取り上げるテーマを、

     健康(病)
     子育て(教育)
     自然・環境(農業)

として、あらためて整理したいのである。

 そして、“土”と向き合う中で学んだことを表現したい、
またそこから出た疑問を皆さんとともに考えたいと思うのである。

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June 16, 2005

土から離れてダメになった日本人②


もちろん、農業に“土”はつきものである。
しかし、農薬で汚染された“土”は、
ダグラス・ファー氏の言う“土”とはいえない。

ぼくは地元の市民農園を申し込んでいて
順番が回ってきたのだが、
農薬に汚染されていることを知り、
やめてしまったことがある。


庭やベランダなどで行うガーデニング・園芸は、
その規模にもよるのだろうが、
ほんとうに土に触れているといえるだろうか
(ただベランダでも、やらないよりはいいだろう。
自分もそこから始めてみたいとは思っている)。


“土”の上を歩くという方法もあるのだろうが、
特に都会では“土”の道があまりない。
あっても、靴底が化学物質で“土”と遮断されてしまう
(ただ、それでもできるだけ歩いた方がいいだろう)。
裸足で歩くのは、ガラスの破片などが怖くてできない。


だから、かの養老猛司氏も言っているように、
時折、田舎に行き自然農法などを体験したり、
森林の中で遊ぶのはとてもいいことなのだろう

(うちの近所でも、有機農法をされている農家があって、
年に1,2回子供とともに芋ほりをさせて
いただくことがあるが素晴らしい体験である)。

                   (次回の記事に続く)

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土から離れてダメになった日本人①


以前、某局の衛星放送の企画で、
ダグラス・ファーという環境エンジニア
(国際的レベルの科学者・エンジニア)の方の
取材をしたとき、こう言っていた。

「日本人は土から離れたからだめになった」

正確な言葉使いは覚えていないがそうした内容だった
(その節はありがとうございました)。


彼が住む駒ヶ根の山村で畑を耕し野菜を育て、
常に“土”に触れているおばあさんたちは人間的に素晴らしい。
しかし、多くの現代日本人は、そのような
日本人ならではの良さを失ってしまったということだった。

ぼくは、その言葉をいまだに大きな指針としている。
そしてずっと考えてきた。
氏の言う“土”とはいったいなんであろう。
どうやって自分は“土”に戻ればいいのだろう。
                     (次回の記事に続く)

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健康!子育て!自然・環境!

わがブログで取り上げるジャンルを主に
   健康(病)
   子育て(教育)
   自然・環境(農業など)
にしたいと考えている(また、自然にそうなってきた)。

そして、それらについて、読んでくださる方と
一緒に考えたいと思っている。
(かたいことばかりでなく、楽しみたいです)

その理由として、どれもが、ぼくのおそらく
死ぬまでのテーマである
「“生き方”の追求(わが思想・哲学の確立、
その意味での作品の制作)」
の大切な要素である。

それに、今現在、自分に与えられている課題である。
そこから逃げるのではなく立ち向かいたいという意識がある

(その意味では経済問題は我が家にとって
大きな課題であるが、
「健康、子育て、自然・環境」における、
ある意味で経済社会とは相反する理想を追求しながら、
どう食べていくか、どう生き抜くか、ということも、
これからの時代だからこそ意味があると思う)。

また、他の角度から見たとき、
健康、子育て、自然・環境を追及するということは、
そのどれもが、「“土”に学ぶ」ということなのである。

その「“土”に学ぶ」「“土”に触れる」という面において、
次回の記事から少し考えて見たい。

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June 14, 2005

闘病記から健康日記へ


このブログのサブタイトル、

「モモタロウ・パパの闘病記」

としていたのですが、

「モモタロウ・パパの健康日記」

に変えました。

やっぱり「病と闘っちゃ」、いけませんよね。

できれば「病と仲良く」しなくちゃ。

いや、「かわいがらなくちゃ」。。。

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我が家のミニ華展

楽天の方のブログでお知り合いとなった
raku-saさんという書家の方の記事に

(もう1人のモモタロウのところの
「コラムDEキビダンゴ!」をクリックして
入ってくだされば、リンクしています。
raku-saさん、その節はご自分のブログで
私のことまで紹介してくださり有難うございます)

ドクダミの花は匂いがするけど好きなこと、
そして、その可憐な花を生けてられている
という随筆を読んだ。
お人柄を感じさせるエッセーである。

ぼくは花や植物音痴なので、
「清瀬の自然(夏編)」
という本でドクダミはどういう花かを調べた。

そして、デスクの上に開きっぱなしに
しておいたのだが、その写真を見たらしく
娘モモナ(5才)が、散歩の時、
ドクダミの花をつんできてくれた。
そしてミニ花として生けてくれた。


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(ぼけててごめんなさい)

そして、こちらもモモナの作品。

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そして、続いてこちらも・・・、いや、違いました。
妻モモコの生けた花でした。

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★★情報キビダンゴ★★


さきほど、ご紹介したraku-saさん/鎌田紗和さんは、

ご自分の書や詩を描いた本を出されています。

「アルカディアシリーズ フローラブックス 地球の子供」
(発行所 株式会社 美研インターナショナル   
 発売元 株式会社 星雲社)

です。

美しく、すばらしい本です。

おそらく、こういう本を見ると、健康にもいいでしょう。

しかも、すばらしいことに、この本の印税などは

すべて、世界の恵まれない子どもたちへの

寄付になるそうです。
(詳しいことは、前述のraku-saさんのブログにアクセスしてください)


美しい詩や書を楽しみ、かつ世界の苦しんでいる

子どもたちを救う手助けにもなるのですから、

こんないいことはないですよね。
(本については、raku-saさんのページ、
もしくは、「ほんのキビダンゴ」へ)

鎌田紗和さんの受賞歴

日本書展内閣総理大臣賞
日本美術協会賞
毎日展毎日賞    他

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ニッポン、ちゃちゃちゃ!

ジーコ・ジャパンの北朝鮮戦を前に
5才の娘が、応援の旗を手作りでこさえた。

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旗にはこう書かれている。

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「にっぽん ちゃ ちゃ ちゃ あお がんれ」

もちろん、  「ぼ」   は  「」  として  「ば」  に直してある。


この旗のいいところは、

にっぽんへのサッカー以外の応援にも流用できることである。

ただし、にっぽん側が青いユニフォームを着るという条件つきであるが。

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June 12, 2005

人単体で自然治癒力は高まる?

昨年、日本ホリスティック医学協会で

ボランティアでワークショップのお手伝いをした。

そのとき、「地球の自然治癒力は人を癒す」という

テーマで行ったのだが、

そのコンセプトは、

(あくまでもぼくが提案したコンセプトではなのだが)

ぶっちゃけて言えば、


「自然治癒力、自然治癒力といって、

人間一人一人の自然治癒力を高めようと

運動をしたり、食事をしたり、治療をしたり、

いろいろするけど、ほんとうに高まるの?

地球やさまざまなものから切り離して、

人間は存在できないでしょう。

だとしたら、自然治癒力も

人間を地球から切り離して、考えていたんじゃ、

ほんとうには高められないのではないか?

地球に自然治癒力があるとして、

もし地球そのものの自然治癒力が弱まっているとしたら

その一部である人間のみを高めようとしたって

そうはうまくいかないのではないか?」


というものだった。

昔の人間と比べて、世界全体で人間が小粒になってきた

弱くなってきたというのは、

都市化近代化ということだけではなく

地球環境が次第に破壊されていることにも

関係しているのではないか。


やはり、地球やすべてのつながりから切り離して、

人間個人の自然治癒力を高めよう、

健康になろうといったって、そうはいかないと思う。


だから、皆さん、自分や周囲の人たちの健康に

留意するだけではなくて、

地球の健康も取り戻すことにも留意して、

真の健康になりましょう!!!

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June 10, 2005

わあ!ダンゴムシがいっぱい

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モモナたちはびっくり。


“きれいなもの”ばかりじゃないんだよ。

それが“自然”なのさ。


でも大量のダンゴムシを見て“気持ち悪い”

と決めつけてるのは、きっと人間だけだけどね。


         (写真/文 momotaro)


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国へ~西洋医学に関する提案~


薬や手術など西洋医学は、

救急の時のみ使える、


という法律を定めてはいかがでしょう。


あとは、患者を、

自然治癒力をベースにした医療に譲る

おうちの人に返してあげるという

というように決めては?


そうすれば

国民の医療費、激減しますよ。間違いなく。


だって、多くの国民が

健康になるでしょうから。


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病は本に優る!?

喘息の発作が強く起きている時期には

本は読めない。

読めても軽いものになる。


しかし発作が起きているときの方が、

どんなに内容のある本を読んでいるときよりも

自分が深められているような気がする。


   太上は天を師とし、
   其の次は人を師とし、
   其の次は経を師とす。

   (訳)最上の人は宇宙の真理(※大自然)を師とし、
      第二等の人は立派な人を師とし、
      第三等の人は経典
       (※人間の原理原則などの本)を師とする

          以上、『言志四録』佐藤一斎著 
                     川上正光全訳注より
                    (※は小生による)

大自然は何にも優る教師である。

言うに及ばず、病も大自然の現象の一部である。

だから、例外なく、病も本より優れた教師なのである。

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June 08, 2005

ああ大文字(だいもんじ)

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箱根・強羅からは、明星ケ岳の山肌に描かれた“大文字”が見えます。
(大の字は写真をクリックして見て下さい。先だって箱根で撮影しました)
この箱根大文字焼きは、
毎年8月16日午後7時30分点火されます。

そして、こちらは我が家の“大文字”。

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毎週日曜日午前7時30分点火されます。
『マジレンジャー』が始まるからです。

                 (写真/文 momotaro)

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薬の減らし方を教えてくれたら…


薬剤師の妻によく言います。
「これからは、薬を処方するより
薬の安全な減らし方、やめ方を指導する方が
ビジネスになるんじゃないかな」
(ぼくは素人なのに偉そうな事を言っているわけです・・・)

でも、薬剤師の方が、医師の指示なく
かってに薬を減らしたりすることは
できないそうですね。
だから、今のシステムでは、どうしても医師のご協力が
必要なのでしょう。

やはり基本的に、西洋医学の薬剤は
対症療法ではないかと思います。
ぼくは、それなのに使い続けるのは、“自然ではない”
と思うのです。
自然でないから、副作用のみならず、
予期できない弊害がいろいろ起こりうる可能性が
あるのです。

亡くなった父と母も、ぼくもかつてはずっと
使用していましたから、病のある方にとっては
薬はとても大切なものであることは
充分承知しているつもりです。

でも、とくに母はそうでしたが、次第に
飲む薬の種類が増えていきました。
朝昼晩の薬を専用のポケットに仕分けしていましたが
それだけで大変な作業です。

ときどき、検査をしてもわけの分からない、
下血をしていましたが、それもその大量の
薬が影響をしていたのではないかと
思うのです。

中にはこちらの病院で出された薬が他の病院では
必要のない薬、むしろ飲まない方がいい薬といわれたり
そういうこともありました。

しかし、現状の医療システムでは、
薬をたくさん出した方が経済的に
利益があるのですから、
どうしても、患者1人1人の薬が
増えてしまう傾向にあります。

そして、その結果、予期せぬ体調の悪化、
病が生まれている。
ぼくは、それを強く思うのですが、
どうでしょうか?

だからこそ、
「薬の安全な減らし方、やめ方を指導してくれる
医師、薬剤師」などの必要性を思うのです。

薬を少なくするといっても
ただ減らすだけでなく、
その代わりになる武器も
必要でしょうから、
さまざまな代替医療、健康法、生活改善法を
駆使して、
“自然治癒力による治療”を
ベースに指導してくれる、
そんな専門家の方がいれば、患者として
こんなありがたいことはないと思います。

西洋医学と代替医療の統合を目指した
“統合医療”がありますが、
真に健康な日常生活を送る、不安を減らすために
“薬を減らす、なくす”という視点で行う
医療機関がたくさん増えてくれるといいのですが。

“人間”である前に“ヒト”という動物であり、
生物であるのですから、できるだけ“不自然なこと”
は減らしていくのが、“健康への王道”だと思うのです。

(END)

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June 06, 2005

喘息発作は出てはいけないの?

喘息患者の皆さんにお伝えしたい!

自分の体験から述べます。

医師は、よく
「喘息発作が起これば起こるほど、悪くなる」
と言いますが、
それは違います。

医師は「だから発作が出ないようにして、さらに発作が出たならば
すぐに止めなければならない」
といいます。


しかし、ぼくの、命懸けでつかんだ見解からすれば
違います。

それは
「長い目で見れば喘息発作は出れば出るほど、
だんだんよくなる」
少なくとも
「『喘息発作が出れば出るほど悪くなる』ということはない」
です。


今まで薬剤で止めてきた人が発作を止めないと
ある期間、それまでよりもひどい発作が起こるかもしれません

(実際ぼくがそうでした。かなり激しい発作が連日のように
起こりました。まさに命懸けです)

しかし、それが過ぎると、だんだんと軽くなっていくのです。
その軽くなり方は、とてもゆっくりだとしても、
わずかずつでも確実に軽くなるわけです。

“自然治癒力”という観点からすれば、
まさに“自然治癒力”が働いているということでしょう。。。


でも、だからといって、
ぼくのように30数年間使ってきた薬剤
(途中、時々しか使用しない時期もありましたが)を
突然、やめるというような
無謀なことはしない方がいいでしょう。

(真似をしないでくださいね。
ぼくの場合は本当に命懸けでした。
もしもの覚悟がなければできません)


たとえば、喘息が自然に止まるまでに、
体力が落ちてしまって死ぬ、とか、
(ぼくは薬をやめてから一時20キロは減りました)

この間、記事に書きましたように
薬を使用してきたがために心臓が弱っていて
そちらの影響が出る、など、
薬剤を使用してこなければあり得ないのだけれど、
使用してきたがためにあるリスクというのが
厳然として存在します。

何より、そのリスクが怖いのです。

だから、
ぼくが、この記事で言いたかったことは、

もしも
「喘息発作を止めないと
どんどん悪くなる」

というお医者さんがいたら、
その言葉は、長期的にみれば、真実じゃないよ。
ということを、自分の身で体験してますのでお伝えしたかった。

(ここまでの体験をされている方は
そんなにいないと思いますので)

また、その認識があるだけで、
たとえ薬の使用をやめなくても、
また違った対応ができるのではないかと思ったわけです。

                     (END)

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June 05, 2005

モモイチロウも歩けば棒に当たる

0603tamachi_002

(電柱に立てかけられた看板にぶつかっているところ)
                       

                         写真/文 momotaro

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喘息薬による体への衝撃と死

ぼくが3年半、薬剤(西洋医学)を
まったく使用せずにきて、
気づいたことは体の感覚が鋭敏になったことです。
家を塗装したときも敏感に反応しましたし、
タンスの中の防虫剤もだめになりました。
ときに発作も起こりました。

薬をずっと使用していた頃は
こんなことありませんでした。

これを自分では鈍っていた感覚が少し取り戻された。
お蔭で自分自身の体をより大切にできるようになった、
と考えています。

だからこそ、久しぶりに、
化学物質の1つでもある薬剤を飲んだとき、
以前より、そのダメージが大きく
感じられたのかもしれません。


このたび、3年半ぶりに、
喘息の発作を止めるために使用した薬は、
(さしさわりがあるかもしれないので、
具体的な名称は避けておきます)

気管支拡張剤(飲み薬2種類)
アレルギーを抑える薬(飲み薬1種類)
噴霧式吸入剤(吸入薬)

です(前回の記事から続きます)。

 そして、その後、予防のための吸入ステロイドを使用しました。

特に、3種類の飲み薬を飲んだ翌日の朝、
体がしんどかったです。全身がだるく、重く、
手など少ししびれる感じがありました。
(3種類のうち、どれが影響をしているのか
わかりませんが、そのどれかが、何らかのダメージを体に
与えているのは確かだと思いました)

朝、起き上がるのがつらく、このような状態は
薬をやめてからは、ありませんでした。
(使用していたころはよくありました)。
血圧を下げるため降圧剤を使っていたときの
感覚とも似ていました。

こられらの喘息の薬を飲んでから、
血圧の数値も下が10以上上がっていました。

また、気管支を拡張するための吸入薬も使用しましたが、
ほんとうに久しぶりに使用したときは、
確かに、発作がすぐに止まりましたが、
心臓の動悸が強くありました。
これも、やはり薬をやめていた3年半はまったく
なかった感覚です。

おそらく、こうした体の感覚は、薬を飲み続けたり
使い続けているとなくなってくるのだと思います。
以前、自分がそうであったように。
だからといって、体が平気になったわけではないと
思うのです。
ただ慣れただけであり、ある意味、
体の感覚が鈍くなるからこそ、
最初に感じた反応がなくなると
捉えた方がいいのではないでしょうか。

この間の小児科医、真弓定夫先生の講演会で
以前、大きな病院の医師をしていたとき、
喘息で亡くなった人がいたが、
喘息そのものというより、喘息の薬を使用している
結果、心臓が弱くなって心不全で亡くなる人ばかりであった。
と語られていました。

気管支拡張剤(飲み薬&吸入薬)は、気管支を拡張するけど、
血管は収縮させるそうです。
だから、心臓に大変な負担がかかり、痛めつけられるのです。

ぼくは喘息死の原因は、
自分の経験からそれだけではないと思います。
薬剤((飲み薬&吸入薬)を使用しなければ死なないのは、
同じくそうだと思います。

ただ、薬によって心臓が弱ったためだけではなく、
日ごろ、気管支拡張剤を使用している人が、
だんだん薬の効果も薄まってきて
大発作が起きた時、どの薬を使用しても
発作が止まらなくなってしまって、
窒息死するのだと思います。

どの薬も何度も使用しているうちに、
初めに使用したときほどの強い効果は
なくなってくるのです。

だからこそ、今は吸入ステロイドの使用が
勧められているのでしょう。

腎臓と肝臓に嚢胞があり、
ただでさえ、いずれは、
人工透析になると言われている
身にとっちゃ、怖くて飲んでいられません。
ますます、透析に近づけさせられるようで…。


その、今喘息の治療(予防)の主流となっている
吸入ステロイド(予防薬)は、
気管支拡張剤とは、
体に与えるダメージなど、また違うと思いますので、
又の機会に書きたいと思います。

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June 04, 2005

お料理上手???

0603tamachi_001
5才のモモナ。将来、有望かもしれない。。。

でも、「猫の手、猫の手」といって、
包丁使ってるけど、ちょっと心配。
(一応、子供用)

よく、ママはやらせることができるよなあ。
こういうのって女性の方が度胸があるんだよなあ。

パパ1人だったら、とても、見てられないかもしれない。

         写真/文 momotaro

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外食はレジャーorギャンブル?

外食だと、食べられるものを探すのが大変です。
思うのですが、体にいい食事は外食では
ほとんど不可能ではないでしょうか。

(あくまでも、ぼくの基準ですが)
街を歩くと、色んな看板がありますが、
日々にとるべき食事として、適当なものは
ほとんどない。

うちでも、ファミリーレストランなどで
たまに食事をすることがありますが、
それは“食事”というより、“レジャー”と
考えています。
(日々、粗食。和食。なんですが、
たまには、いいということにしているのです。
その方が長続きするでしょうから)

でも、ふと思ったのですが、外食は“レジャー”というより
“キャンブル”と思った方がいいのではないかと。
ご存知のようにパチンコなどの“ギャンブル”は
お金を奪われる危険がありますが、
“外食”は健康を、生命力を奪われる危険がある。

だから、レジャーやギャンブルとしてではなく
日々の食事の一部として(弁当もなくて)
どうしても外食にしなければならないとき、
ほんとうに適当なところを見つけるのは大変です。
とくに、財布が淋しいともう皆無に近い。
で、ついつい、立ち食いそば屋に入ってしまいます。
(そばやうどんは、ぼくの基準から外れてないですから)

昨日、1人で田町に行ったとき、時間がない上に
 ・500円前後
 ・和食
 ・食べたいもの(できれば立ちそばは避けたい)
という、非常に厳しい基準をもうけた(?)ので
見つけるのがたいへんだったのです。

しかし、(これも妥協ではあるのですが)
あまりない中ではベターなものを発見しました
それが、下の写真です。
0603tamachi_019
ある居酒屋がランチメニューを行っていて、
メニューはたった5種類なのですが、
(確か)すべて500円。
和風の居酒屋だけに、和食です。

ぼくが頼んだのが、ざるそばと鳥のから揚げ丼のセット
ですが、味も、特にそばとつけ汁がよかったです。

そのお店の中はまさに居酒屋なのですが、きれいでした。
だから、女性(OLのような人)の1人客も何人かいました
メニューもたった5種類ですから、店内は多少混んでいましたが
すぐに、食べることができました。
お蔭で、時間にも間に合いました。

まあ、鳥のから揚げなどは自分にとっては、妥協なのですが
まあ、そこそこナットクしました。

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元気な野菜!

0603tamachi_013

地元の畑で見つけました。
何の野菜だかわからなかったのですが、
威勢がよかったので
撮ってしまいました。

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June 03, 2005

喘息の薬でダメージをうけた。。。

ここのところ、更新が減っていてごめんなさい。
先月、しばし体と心にダメージを受けてまして。
そして、健康を取り戻す方法や治療法など、根本的に変えようかと迷いが生じていたものですから~


ぼくは3年半、薬を使わずにジョウレイ(昭和の初期に活躍した代替医療家であり宗教家の岡田茂吉氏が開発。微細エネルギーによる手かざし療法)や食事療法など生活環境をかえることにより治療をしてきました。

そして、喘息については、吸入薬などの薬を手放せない状態だったのですが、手放せるようになりました。当初より、確実に発作が軽くなっています。

PKDという腎臓・肝臓の難病についても、そのものはよくならなくとも、それに悪い影響を与えるという高血圧、高脂血症、尿酸値、中性脂肪などぜんぶ正常値となりました。体重は一時は20キロ以上、現在は当初より15キロくらい減りました。腎臓の機能もあまり衰えていません。

ただ、問題は、喘息が、とくに季節の変わり目に起きて、春と秋はいまだ、しばらくまともに生活できない状態となることです。すると、なかなか仕事の方も普通にできません。(着実に発作が軽くはなっているのですけどねえ)

それ以外は、これだけ体の状態がよくなっているのですから、今までやってきたことは間違っていないのでしょう。しかし、時間がかかっていること、そしてまともに働けないことが大問題なのです。

自然流子育ての小児科医、真弓定夫先生は、それまで1年間悪い生活をしていたら生活を改善してから治るまで1年間かかる。3年だったら3年。10年だったら10年。・・・とおっしゃっています。

ということは、ぼくの場合、37年間ですから74歳までかかるということになります。。。もしかして、この世にもういないかもしれない。

何より、これからの生活をそうするのか・・・


そんなことで、先月、発作が長引いたとき、もう3年半もたっていますし、しびれを切らして、薬を飲みました。主なものは気管支拡張剤です。(このブログのサブタイトルが『薬をできるだけ使わずに~』なのにねえ)。

かなり、“挫折感”がありました。今まで、死に物狂いで薬を使わずに耐えてきたわけですから。

ところが、心のショックもさることながら、体のショック大きかったのです。
久しぶりの薬のせいでしょうか、体がダメージを受けまして。。。
長いことまったく使っていなかったので体が敏感になっていたのでしょう、かなり、きつかったです。

その状態というのは~、(また、今度、ご紹介します)。


それでは、今回はこの辺で。。。

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