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June 29, 2006

歯を歯磨き粉で磨かないということ

できるだけ歯磨き粉を使わないで、歯を磨いています。

それは、歯磨き粉に含まれる成分が、体によくないこともあるし、

むしろ、虫歯の原因になることがあると考えるからです。

でも、歯磨き粉を使用しない最大の効用は、

よく磨いていないとにおいでわかるということです。

歯磨き粉を使わないで歯を磨くと、

前日の食べ残しや磨き残しが

口の中に残っていたとして、すぐにわかるのです。

ご自分で、体験してみるとよくわかるはずです。

逆に、歯磨き粉を使っていると、たいがいの歯磨き粉では

そのにおいによってカモフラージュされて、

たとえ数日経っていても歯に残っていることが、

においではわかりずらいのです。

これは歯磨き粉だけでなく、他の薬品(あえて、こういいます)

にもいえることです。

ようするに、体の感覚がフルに発揮できない、

にぶらされてしまう、

使用していないときは気づくことが気づかなくなる

それが、薬品(治療の薬剤も含めて)を使用するときの、

重要な留意点なのです。

(こうしたことに、ついては、おいおい書いていきます)

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June 28, 2006

さあ、行こう!

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さあ、行こう!

あなたをさえぎるものは

なにもない。

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さかなのしあわせ おれのしあわせ

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水の中を眺めていて

はたと考えた。

こいつら“さかな”と、

おれのどっちが“しあわせ”か?

?????????

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

おれの方に決まってら。

“さかな”たちは意識がないから

ふしあわせを思わない。

でも、やつらは、

意識がないぶん

しあわせも思わないからね。

へへーんだ!

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キビダンゴびじゅつかん “て”

モモナ作 「 て  」

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  モモタロウ・パパ談

   「昔、マジンガーZに、

    こんなような人が

    出てきたなあ・・・」

     (モモナは6才の長女)

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自然から隔離された人間に残された唯一の方法

ぼくたちは自然から

隔離されている。

たとえ自然のど真ん中にいても

隔離されている。

それはまるで現代人を

透明なバリアが

覆っているみたいだ。

自然の中に飛び込もうとしても

すぐに拒絶されてしまう。

ただ1つだけ、自然から隔離された

人間が許された方法がある。

それは「ありがとう!」だ。

鳥や花や草や木や石や空に、

「ありがとう!」という。

すると、向こうからこちらに

少しずつ寄ってくる。

だから自然に向かって、

「ありがとう!」

「ありがとう!」

「ありがとう!」

「ありがとう!」

「ありがとう!」

・・・・・

さあ、もうちょいだ。

ぼくの心の中に自然が入ってくれる。

自然の中にもうちょっとで飛び込める!

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自然の中へとけていく・・・

                                      

自然の中で幸せで

いられるのは

年を取ったればこそ?

とけていく、とけていく・・・

自然の中へととけていく

 

                                              

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(自然から隔離されている男より)

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June 26, 2006

ぴちぴち・ちゃぷちゃぷ・らんらんらん

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♪ぴちぴち・ちゃぷちゃぷ・らんらんらん♪

♪ぴちぴち・ちゃぷちゃぷ・らんらんらん♪

♪ぴちぴち・ちゃぷちゃぷ・らんらんらん♪

  ・・・・・・・・・・

保育園に行くまでのあいだ、

そこだけを、くりかえし歌ってました。

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キビダンゴびじゅつかん

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作品№23 ココザウルス

         (作 モモタロウ 

          ※作品タイトルはモモイチロウ)

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作品№2「オイモ」

        (作 モモイチロウ)

       ともに、ねんどでつくりました。 

                   以上

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June 25, 2006

意識を深めるために生きる。健康が目的じゃない

私たちはここに、確かに生きているという存在にならなければならない。

何らかの賞をもらったとか、大会社に勤めているとか、そういうことじゃない。確固とした存在を築かなければならない。

このよりどころのない“生”を生きているがゆえに、意識を深める生き方をしていく必要がある。

私たちの存在というものは、じつに希薄なものである。自分とはなんだろうといつも思ってしまう。ここに世界というものを意識している自分とはほんとうに存在している自分なのだろうか。これは自分だけがもつ感覚なのだろうか。そうではないと思う。昔から日本人がいってきた無常とはそういうことではないか…。

だからこそ、生きている限りは、できるだけ、この意識というものをしっかりと世界に根付かせる必要があると思えてしまうのだ。

そして、体をしっかりさせる必要があるのはそのためのような気がする。体の健康を保つことが何より大切なのは、この自分の意識というものを濃くするための手段としてではないのか。

ただ、不幸にもこの体というものが、健康ではなく生まれてきた人も、またたとえば医療スパイラルの中に陥った人も、意識というものを深めることはできる。確固とした存在を確立することができる。そこに生きていく価値というものがあるのだ。

私が、たとえば呼吸法などの健康法を行う1つの目的というのはそこにある。健康になることが究極の目的にしたくない。

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命の火はいつでも燃えていてくれる

ぼくは、喘息の苦しみの中で、この苦しみというものが

ほんとうに、ぼくの本質なのか、ということを考えました。

ここで、あえていいますが、喘息の苦しみといっても

大したことないと思う人があるかもしれませんが、

半端じゃないですよ…。

その中で苦しみ悶え死ぬ人もいっぱい

いるんですから。

まして、30数年発作を止めるために薬を使い続けてきて

薬を投げ捨て、ピタッと使わなくなった。

それで、2ヶ月も3ヶ月も発作が出っ放しという状況は

まさに、この世の地獄です。

ぼくは、神からの拷問としか考えられない時もありました。

(その状態の繰り返しが、およそ4年間続いたわけです)

しかし、いつものように一晩中発作が起きていて

意識が朦朧としている明け方、ふと気づかされたのですが、

発作が嵐だとして、海面は荒れに荒れていても、

海面の下、海の奥底は非常に、穏やかである。

その数千メートルの海底ではほんとうにささやかで

いつ消えるか分からない蝋燭のようなものですが

“命の火”が燃えていてくれているんだなということ

に気づかされたのです。

自分がどんなに苦しみ、死ぬかもしれないとおびえていても

そんなことには関係なく、燃えてくれている火がある。

それはささやかな火であるにしてもです。

私たちは、そういう命をいただいて生きている。

もしかしたら、そのささやかな火こそが

私たちの存在の本質なのではないでしょうか。

そして、その火は、私たちがどんなに苦しんで、死にそうだと

思おうが、消えないときは消えない。

一方で、どんなに生きたいと思っても、もっと長生きしたいと

思っても、消えるときには消えてしまう・・・

つまり、本来は、私たちの手の届かないところに

あるのが“命”というものなのかもしない・・・。

ただ、私たちがどんなに苦しい目にあっていても、

もう駄目だと思うような時でも、

生きている限りは、

ひたすらに命の火は燃え続けてくれているわけです。

そのことは決して忘れてはいけないこと…。

苦しみの中で、気づかされた私の宝です。

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June 23, 2006

私たちは何もしなくてもいい

私たちは何かをしなければいけない。

何かをしなければいけない。

と常に、追い立てられているわけです。

病になったときもそう。

それから、健康を保つという意味でもそう。

でも、ほんとうは人間はなんにもしなくても

いいのかもしれません。

それは、別の表現をすれば、意識的に

何かをしなくてもいいのかもしれません。

そこらへんが、自然農法家の福岡正信さんの

“無”の思想につながる考えかもしれません。

ほんとうは、病になっても自然に治るように

できているのです。そして、普通に生きていれば

人間は健康に生きれるようにできているのです。

そこが、どうしても、まずは現代人が意識しなければ

ならない点に思えて仕方がありません。

まずは、私たちはなんにもしなくていいのですよ、

ぶらぶらしたいなら、ぶらぶらしてたっていいし、

働きたいなら働けばいい、たとえ病になったって、

ほうっておけばいいんだ・・・

とても無責任のようですが、他人にいうのじゃなくて

自分に語りかけることから始めるのがいいのじゃないかと

思うわけです。

そうすれば、働く意欲がない人はいつか必ず働く意欲が

出てくるわけですし、自然治癒力というものも、

たとえ、それが弱くなっている人でも、より強く

発揮されるようになるものとぼくは信じています。

そこから、「何かをしなければ」が出てきたときの

「何かをしなければ」が価値の高いものであって、

追いまくられるように「何かをしなければ…」というのは

逆効果だと思うのです。

たとえば、病気だったら

もうちょっと早く治す方向を

考えてみようと意欲が沸いてくるのかもしれません。

それこそが、より自然治癒力を生かし、

より発揮させる方法になるのではないでしょうか。

人間は、いかなる場合においても

「なんにもしなくてもいいんだ」

とくに意識的に何かをしようとする必要は

ないんだという

「野原の上で一人素っ裸で大の字に寝る」

心境になることが大切です。

ぼくは、このごろは、そこから自然に出てきた、

「何かをする」ことこそが価値のある

「何か」であるような

気がしてしょうがありません。

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June 22, 2006

自然治癒力はいつでも誰にでも発揮されている

病は自然に治るもの

病は、お医者さんが治せるものではない、というのが正解だと、ぼくは信じています。そして、同時に、病は自分でも治せるものではないのかもしれません。医者が治すのでもなく、自分でも治すのでもないとしたら、誰が治すのでしょうか…。自然が治すのです。別の表現をすれば病は自然に治るように、人間の体はできているのです。そこを信じることが、大切だと思うのです。

自然治癒力は高めなくても誰にでもある

 そのことを自然治癒力が備わっているともいいます。ただ、最近の自然治癒力の言われ方は、「自然治癒力は高めるように促さなければ発揮されない」とされていることが多いように思います。自然治癒力を高めるためにサプリメントを飲んだり、呼吸法をしたり…。そのこと自体はいいのですが、自然治癒力は何かをしなければ発揮されないと誤解されてしまうのがよくないのです。そうではなくて、誰にでも、いついかなる場合にも発揮されている、だから自然治癒力なのです。自然治癒力がなくなるのは死んだときだけなのではないでしょうか。

 ただ、自然治癒力が強い、弱いというのは、人によってあります。しかし、自然治癒力が弱いからといって発揮されないということは決してないわけです。ただ、その強弱によって、治りが早い、遅いはあるでしょう。でも、必ず、何もしなくても治る方向に向かっているということだけは確かなことであるのです。治るというのは、どういうことであるのか、何が治るのか、という問題はあるわけですが。

薬には自然治癒力を止めようとする働きがある

 特に西洋医学の薬がよくないというのは、その自然治癒力を止める方向で働くからよくないわけです。薬が抑えている「症状」というものは治るために出ているものですから。でも、たとえ、薬を飲んでも自然治癒力は働くわけです。ただ、基本的に薬は止める方向で働くわけですから、まったく使わないときよりも治りが遅くなる可能性があるわけです。そこが問題なわけです。もう1つは、本来、体に入れるべきではない異物を体内に入れるのですから、すべてが排出されればいいのですが、また1つ病の原因を作っている可能性があるわけです。その2つが、薬における大きな問題点なわけです。

 薬を使わなくても治るのだけど、治るまでの時間、QOL(生活の質)を保てないがゆえに、薬を使用するわけです。私の場合が現在、そうなのです。

でも、薬を飲んでも自然治癒力は発揮される

 ただ、いえることは、薬を飲んでいても、治る方向で自然治癒力は必ず発揮されているということです。いかなる場合にも、いかなる時にでも、誰にでも自然治癒力が発揮される、それが自然の摂理なのです。病の人、そして、病になることが心配な人も、まずは、そのことを信じた上で、さまざまな治療に当たってみてはいかがでしょう。(END

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June 20, 2006

「笑い」に「お」がついただけで・・・

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うちの居間にかかっている額。

もはや、我が家の「家訓」のようなものである。

                                      

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「笑」の一文字。

                                         

ところが、我が家の「笑」は、

「笑い」というより

「お」がついている

「お笑い」の方のようだ。

                                                      

「笑」に「い」をつけた「笑い」だと

「笑いの効用」だとか「笑いは文化だ」

だとか、なんとなく高尚なイメージがあります。

ところが、同じ「笑い」でも、

そこに「お」をつけると

いきなり、ちょっと蔑んでいるような

馬鹿にしているような響きになります。

「お笑い」というと一般的に

「お笑い芸人と、彼らがつくり出す笑い」

のことをイメージするからでしょうか。

「お米」とか「お味噌」とか、

「お」がつくと、上品なイメージとなりますが、

「お笑い」になると、一歩低くなるような

ニュアンスになるから不思議です。

ところで、うちの「笑」はどうやら、

「お笑い」のようです。

「笑」の額をかけてから、子どもたちも

ずいぶん“ヒョウキン”になりましたから。

でも、「お笑い」は、結果的に

「笑い」につながっているから

それでいいんですれどね。

                                            

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June 19, 2006

天分を出し尽くす

                                                      

森信三先生いわく

                                                      

人間の偉さは才能の多少よりも、

己に授かった天分を、

生涯かけて出し尽くすか否かに

あるといってよい。(「一日一語」より)

                                                       

人よりもできるできないは問題でなく、

「神様から与えられた分け前」―「分」を

世の中のため人のために生かしきる、

生きるとはそれだけでいい、

ほんとうに偉い人とはそういう人…、

ということでしょう。

これなら、

きらめくような才能の持ち主でない

むしろ鈍才である

ぼくにも

できないことはないと

いつもこの言葉に、

励まされています。

                                                      

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分を知ってこそ、ほんものの歩み

                                                      

「分」をわきまえる、「分」を知るというと

なにか、とても消極的な、単なる処世術の

ように思われがちですが、

そうではなく、

とても積極的(そこに至ってこそ価値ある

積極性を得られるといいましょうか)、

かつ深い哲理であるということがわかります。

                                                         

森信三著「一日一語」より

分を知るとは自己の限界の自覚ともいえる。

随って人間も分を自覚してから以後の歩みこそ

ほんものになる。

だが才能のあるほど、その関心が多角的ゆえ、

『分』の自覚に入るのが困難であり、

かつ遅れがちである

           (注―傍線は私がつけました)

                                                      

                                                      

                                                      

このことからいっても、

他人より身体的におとる、

他人より能力が足りない、

病持ちでやれることに限りがある、

・・・・ということも、

分を早くさとりやすいという意味で、

あながち、悪いことでは

ないということになりましょう。

                                                                                            

                                                       

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June 18, 2006

“分け前”を知って健康を保とう!

 自分のからだの「分を知る」ということは、自分に与えられた「分け前を知る」ということでもあります。

 それに関して、皆さんよくご存知の具体例を紹介します。

     酒に強いか、弱い人かは、アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)を多くもっているかどうかによる。

     牛乳などの乳製品に強いか弱いかは、腸壁に乳糖を分解する酵素、ラクターゼが多いか少ないかによる(これを極端に少ない人を乳糖不耐症という)。

     紫外線によって日焼けがしやすいかしにくいか、皮膚がんになりやすいか否かは、メラニンを多くもっているか否かによる。

     人によって、ショートスリーパー(睡眠時間6時間以内で大丈夫な人)、ロングスリーパー(睡眠時間9時間以上必要な人)、またショートスリーパーでもロングスリーパーでもない中間派の人がいる。

・・・・・

「分」とは、「神様から与えられた“分け前”」といってもいいでしょう。

その“分け前”とは、上の例で言えば、アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)であり、ラクターゼであり、メラニン・・・です。それらは、民族・国による違いもありますし、同じ日本人の中でも個人差があります。

それが他の人と比べて少ないからといって文句をいっても、生まれながらに決められた“分け前”だから仕方がないわけです。それよりも、現実を見つめ、それに対応した対策を立てたほうが得策でしょう。

 

 アセトアルデヒド脱水素酵素(ALDH)が少ない人なりのお酒の飲み方をすればいいし、メラニンが少ない人はそれなりの紫外線対策をする、ショートスリーパーかロングスリーパーに近いかによって一日の睡眠時間を決める、…。

 

 こうしたことも、自分の「分をつきとめ、分を守る」ということではないでしょうか。

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ジャパニーズ健康サンダル!

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いよいよジャパニーズ健康サンダルの

季節がやってきた!

今年の夏も、

これを履いて、街に繰り出すぞ!

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でも、1人じゃ少しだけ

恥ずかしいので、

今日は子どもも連れてっちゃいました

                                        

解説モモタロウ流!

“草履とは

「移動式のたたみ部屋」だ!”

草履とは、なんぞや。

つまり、足にくっついて動く

畳(たたみ)のことです。

ご存知のように、草履の表面は

畳状になっています。

素足で畳の上をあるく気持ちよさは

日本人なら誰もが体験したことあるでしょう。

つまり、草履を履いていると、

その小さな畳の上に常時、

足を乗っけていることになるのです。

草履は、夏場でも足の中が蒸れないし、

不自然に刺激を足の裏に与える

健康サンダルと比べて、

ごく無理のない刺激だから長く履いていられます。

また、日本人のDNAに刻み込まれている

畳に素足で触れた感覚が、

本来の感覚を呼び覚まし、

人々に安心感すら与えるのではないでしょうか。

ご自宅が、洋間ばかりで、

絨毯やフローリングしかないという

人は、せめて週末の履物を草履に変えてみては?

あなたが歩くところ、すべてが

“いやしの畳部屋”となるでしょう?!

                                           

[ 別に、ぼくは草履屋さんの

 回し者じゃありません(笑)。]

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June 17, 2006

標語ばかりじゃ・・・

「みんなで子どもを守ろう!」

・・・・・どうやって?

「みんなで子どもを育てよう!」

・・・・他には誰がしてくれるの?

「子どもを外で遊ばせよう!」

・・・・いったいどこで?

「子どもはみんな世界の宝!」

・・・・その割には…。

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June 16, 2006

みるみるうちに・・・

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モモイチロウは

保育園を休んだ

朝は苦しそうだったが、

昼間は元気であった。

すると、

みるみるうちに、

こうなってしまった。

ちなみに、

散らかっているのは

オモチャだけではない。

転がっている白い物は

ミシンである。

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June 15, 2006

「ぶ」と病に関するおみごとな達見

                                                       

                                                      

けっきょく、ぶ(分)をまもってりゃ、

病気にもならんのですよ・・・エヘン。

             貝原エヘン

         (『養生訓』の著者、

         貝原益軒(かいばらえっけん)

         の子孫???)

                                                      

                                       

   食いすぎないこと、食わなすぎないこと、

   寝すぎないこと、寝なさすぎないこと、

   体を動かさないこと、体を動かしすぎること、

   ストレスがありすぎること、ストレスがなさすぎること、

   恋にのめりこみすぎないこと、恋をしなさすぎないこと(?)

   ・・・・・・・・・

                                                            

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   ぶ をもとめて

                                                       

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足ることを知る者は富めり」。

―満足を知ることのできるものは

 富める人である。

               (老子)

しかし、「足るを知る」には

分を知り、然(しか)る後に足るを知る

―自分の身分・天分を知って、

 望外のことは望まず満足することができる。

    (佐藤一斎・江戸時代の儒者)

つまり、「分(ぶ)」を知ってこそ

満足することができ、

心豊かにになれるということ。

そして、さらに、自分の「分」は、

突き止めなければ、知れるものではない。

分をつきとめ 分をまもる

      (森信三・哲学者、教育者)

つきとめた「分(ぶ)」は

しっかりキープする。

                                      

分際、分限、分担、身分、天分、…。そして自分。

ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、ぶ、・・・・

おれの「ぶ」は、どこだ!

                                                                                                                                  

                                                      

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June 14, 2006

人を支えるのは目に見えないものの力だ。

                                   

人を支えるのは精神とか、

心、気力、魂などと呼ばれる

目に見えないものの力だ。

         中野孝次

平成16716日、

尊敬する作家、中野孝次氏が死亡。

一度も会ったことのない、ほとんど

その文章でしか魂に触れたことのない

人でしたが、いいようのない悲しさに

襲われたのを覚えています。

享年79才。

ガンと闘い、旅立っていった

中野さんの最後の日々について、

その夫人、中野秀さんは、

今月号の『文芸春秋』に寄稿しています。

(以下、引用)

                                      

「自宅にいたときに書いた

『セネカ 現代人への手紙』のあとがきにも、

『セネカは入院中一貫して内側から

わたしを支え、助け、励まし続けたのだ。

人を支えるのは精神とか、心、気力、魂などと

呼ばれる目に見えないものの力だ

と記しています。

これは中野の本心だったのでしょう。

中野は最後まで精神、気力、魂が衰える

ことはありませんでした

                                      

見事な死にっぷり。

これを書き写していて

涙があふれそうになった。

中野孝次は最後まで読者(ぼく)を

裏切らなかった。

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June 13, 2006

本日の成果

                                                  

終了9分前にゲットしました!

                 (妻モモコ)                                                     

2006061213_042

                                                       

ジーコ・ジャパンにも

この粘りが欲しかった…

      ある大手スーパー店員の談    

                                                  

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コップ、たおしちゃった!

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モモナ「こぼしちゃった!」

パパ「うわあ、たいへんだ」

モモナ「うそ、だよー!」

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※ 小1の娘、モモナに

  まんまと、1本とられました。(モモタロウ)

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喘息の吸入~看護婦さんにはナイショよ?

                                                       

うちは基本的に、

できるだけ薬を使わない主義です。

でも、3才の息子、モモイチロウの発作は、

一昨日の晩はひどかったので、

翌日の昨日は午前と夜の2回、

病院で吸入を受けました。

(看護婦さんには内緒で撮影しました。

2番目の写真は、吸入の機械)

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病院から処方された

粉薬も飲ませましたが、

点滴(注射)は断りました。

ピタッと発作が止まるほどに、

よく効くのですが、

それだけに、子どもの心と体の

負担になると考えているからです。

モモイチロウも一度受けて以来、

すっかり怖がっています。

医師から、夜、救急車を呼ぶことに

なるかもしれないと脅されましたが、

つきそっていたぼくは、

勇気を出して断りました。

(小さい頃からの習慣で、お医者さんには

いまだ弱いのです)

                                                      

それでもモモイチロウの発作は

大丈夫でした。

昨晩は

モモイチロウも、ママもパパも

眠れました。

                                                      

よかった。。。。。

                                                       

                                                      

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子どもの喘息にもきっと意味があります。

                                           

今の時期、お子さんが喘息で

苦しんでいる人は

多いのではないでしょうか。

うちもそうです。

                                    

3才の長男、モモイチロウは

一昨日の晩は、ずっと強い発作でした。

「いやー(嫌)!」と

何度も何度も泣き叫びながら

苦しんでいました。

                                           

その声は窓の外にも漏れ、

ときどき、団地の建物にこだましていました。

そういうとき、親にしてやれることは抱きかかえて

さすってあげる…ことくらいです。

翌日の午前中に、病院で吸入を受けるなどして、

その日の午後ようやく落ち着きましたが。

                                           

でも、喘息だからといって不憫だ、

かわいそうだとばかり考えていません。

子どもが喘息になるのは、

きっと深い意味があるのです。

普通の健康な子には得られない、

何かを得ているはず。

そして、それが役立つ日が必ずきます。

                                           

それを信じて、明るくやっていきたいと思います。

喘息やその他さまざまな病気のお子さんを

お持ちの方、いっしょに乗り越えましょう。

                                                                                    

                                                                                    

                                           

※子どもの喘息やさまざまな

                                           

 病気に悩んでいる方、

                                            

 (また親自身でも)

                                           

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June 12, 2006

梅雨の青空

葉っぱの隙間に

広がる空のようだ。

あじさいは、

梅雨のまっさかりに

青空を見せてくれる。

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(写真 by momotarou)

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慈雨

雨をうっとうしいと

嫌っているのは

人間だけ。

草木はみんな喜んでいる。

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(写真/momotarou)

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子どもの空想を大切にしたい

ぼくは、小学校34年生の頃から大学生の半ばまで

整体協会(一般的に野口整体と言われているようだ)

に通っていました。

当時、何も知らずに通っていましたが、

今は、すばらしいところにご縁をいただいて

いたのだなあと感謝しています。

野口整体といえば、数ある日本の代替医療の中でも

燦然と輝き、重きをなしている存在といえます。

その独創性は現在でも光っています。

その創始者が、野口晴哉氏。

もう亡くなられていますが、

ぼくはおよそ30年前、

この大先生からも、治療を受けました。

(野口晴哉氏の跡取りである息子さんが

担当で、晴哉氏は毎回、

見回りにきてくれていました)

近年は野口氏が書いた

「整体入門」(ちくま文庫)という

本がベストセラーになっています。

また、健康面ばかりでなく、

育児や子どもの教育についても、

独特な意見をもち、

その本は今でも出版されています。

(整体協会のサイトを参考にしてください。

http://www.zensei.co.jp/

ここでは、氏の『叱言以前』という本より、

独特な子育て論の一部を紹介しましょう。

五に五を足すと十になることを知った人間は

五と五で三百にすることを空想出来ないのも

止むを得ないが、

その故に五と五で三百にする空想を

嘲ってはならない。

ラジオも電燈もこの空想によって

実現したのだ。

理屈を押しつけて過去の知識で

その空想を殺す前に、

子供達の空想を育てることを考えねばならぬ。

夢をもっているものは

七転びしても八起きする。

新しい世界はその空想によってもたらされる。

                                                                                                                                        

                                                                                                                   

                                                            

※尚、“もう1つのモモタロウ(コラムDEキビダンゴ)”では、

「空想」について、

“お話じゃないような、ちょっとしたお話”を作りました。

一応、ご参考までに・・・。              

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ファンタジーは新しい観念を形成するためにある

私にとってファンタジーとは、

新しい観念を形成する、

または、既存の観念を新しい関連形態におく

人間の能力なのです。

その意味では、私たち現代の人間にとって、

具体的なファンタジーを発達させることほど

必要なものはないのです。

この具体的ファンタジーによってこそ、

私たちは、まだ見えない、

将来起こる物事を眼前に

思い浮かべることができるのです。  

              ミヒャエル・エンデ                                                 

(日本放送出版「アインシュタインロマン6 エンデの文明砂漠」より)

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June 11, 2006

どこが、“くずもち”だ!

モモイチロウ(3才)が熱を出したので、

葛(くず)は体によかろうと、

スーパーで、“くずもち”を買ってきた。

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商品の裏側の原材料名を見たら、

 もち(でん粉(小麦・タピオカ由来)・グリシン)

 みつ(砂糖・水あめ・黒糖・ぶどう糖・ぶどう糖果糖・液糖・はちみつ・食塩)

 きな粉(大豆)

となっていて、葛(くず)は、まったく入っていない。

どこが、くずもちだ!金返せ!

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水溜りの中のもう1つの住まい

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水溜りの中に別の世界があることを

本気で信じてた頃があったけ・・・。

今日は、そっちの家に帰ろう。

        (写真 by momotarou)

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June 10, 2006

悲しい事件に想う

あらゆる犯罪の裏には、

“さびしい”という気持ちがあるといいます。

今回の事件でも、例外ではないようですね。

「誰も私のことをわかってくれない、

こんなにもつらくて悲しいのに、

だれも相手にしてくれない、

さびしい・・」

それは本人のせいか周囲のせいかは

わかりませんが、

社会から、“さびしい”がなくなれば

悲しい事件が少なくとも激減するのは

確かなようです。

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June 09, 2006

爽やかに明るく、生きたいものだ

坂本龍馬と高杉晋作は、

幕末の偉人の中でも

僕がとくにすきな人たち。

両方とも、組織に縛られない、

独立した自由人だからかなあ。

(ちなみに、僕は自由業…)

この2人に共通しているのが

「“爽やか”さと“明るさ”。」

(会田雄次、奈良本辰也、百瀬明治著

「龍馬と晋作」より)

そういやあ、政治家の園田天光光さんも

「爽やかであることほど大切なことはない」

と強調していた。それを聞いたとき、

深い言葉だなと認識をあらたにしたものだ。

僕が大学を卒業して会社に勤めていた頃、

会社のラグビー部に所属していた後輩から

「モモタロウさんほど、コカコーラのCM

似合わない人はない」と告げられ、

自分で合ってると思っていなかったが、

少しショックだった。

当時、コカコーラは、若者たちがコーラを

飲みながら、スポーツを楽しんだりする

多くの人たちがあこがれた、

爽やかで、おしゃれなコマーシャルを

流していたものだ。

当時から本質はぜんぜん変わっていない僕だから、

そうかんたんにはいかないだろうけれども、

いつでもスカーッとこう明るく、

いきたいモンだよなあ。

うちの子どもも、とくに男の子は

そんな人間に育てたいモンだよなあ。

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熱が出ると喘息が出ない不思議

3歳のモモイチロウが保育園を休みました。

熱が38.5分くらいあったからです。

毎晩、毎晩、発作を1~2時間、起こしている

彼が、昨晩はぜんぜんなかった。

熱を出したからでしょう。

だからといって、かぜを引いているときは

喘息が出やすくもなります。

面白いなぁ!

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June 08, 2006

春色の汽車にのって…

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電車の窓から娘、モモナ(6歳)が撮ったものです。

(3月末ですから、少し前のなのですが・・・)

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June 07, 2006

食べないストレスはすごい!

喘息などを治すため、

2ヶ月間、厳しい“玄米菜食”をしました。

朝昼晩と、玄米と5分の1のオカズ、

(にんじん、レンコン、大根を梅で煮たもの。

および、ひじきを梅で煮たもの―塩は全然使わない)

ほぼ」同じものを食べました。

2ヶ月間で5.5キログラムやせ、食欲がなくなり、

体力がなくなり・・・

好転反応とのことですが我慢できなくなり、

3ヶ月は続けるつもりが2ヶ月で挫折・・・

食べたいものを食べられないストレスがこんなに強いもの

なのですね。

自分はもっと忍耐力があると思っていました。

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June 06, 2006

子の眼・親の眼

同じ川でも、

子どもが見る川と・・・

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親が見る川は違う。

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