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June 25, 2006

命の火はいつでも燃えていてくれる

ぼくは、喘息の苦しみの中で、この苦しみというものが

ほんとうに、ぼくの本質なのか、ということを考えました。

ここで、あえていいますが、喘息の苦しみといっても

大したことないと思う人があるかもしれませんが、

半端じゃないですよ…。

その中で苦しみ悶え死ぬ人もいっぱい

いるんですから。

まして、30数年発作を止めるために薬を使い続けてきて

薬を投げ捨て、ピタッと使わなくなった。

それで、2ヶ月も3ヶ月も発作が出っ放しという状況は

まさに、この世の地獄です。

ぼくは、神からの拷問としか考えられない時もありました。

(その状態の繰り返しが、およそ4年間続いたわけです)

しかし、いつものように一晩中発作が起きていて

意識が朦朧としている明け方、ふと気づかされたのですが、

発作が嵐だとして、海面は荒れに荒れていても、

海面の下、海の奥底は非常に、穏やかである。

その数千メートルの海底ではほんとうにささやかで

いつ消えるか分からない蝋燭のようなものですが

“命の火”が燃えていてくれているんだなということ

に気づかされたのです。

自分がどんなに苦しみ、死ぬかもしれないとおびえていても

そんなことには関係なく、燃えてくれている火がある。

それはささやかな火であるにしてもです。

私たちは、そういう命をいただいて生きている。

もしかしたら、そのささやかな火こそが

私たちの存在の本質なのではないでしょうか。

そして、その火は、私たちがどんなに苦しんで、死にそうだと

思おうが、消えないときは消えない。

一方で、どんなに生きたいと思っても、もっと長生きしたいと

思っても、消えるときには消えてしまう・・・

つまり、本来は、私たちの手の届かないところに

あるのが“命”というものなのかもしない・・・。

ただ、私たちがどんなに苦しい目にあっていても、

もう駄目だと思うような時でも、

生きている限りは、

ひたすらに命の火は燃え続けてくれているわけです。

そのことは決して忘れてはいけないこと…。

苦しみの中で、気づかされた私の宝です。

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Comments

命が閉じるときって静かなんだとわたしも体験した瞬間がありました。想像ではもっと七転八倒して劇的で怖い怖いものと思っていたのですが、いざ自分がその場に経つと一瞬気を抜いただけでスーと奪われるような脆いものだった。
だからいま生きていることってすごく重いし、何かあるたびに意味をみつけようとしています。それがたぶんモモタロウさんの言葉の中の『手に届かないのが命』という感覚なのだと思います。
自分でどうこうできるものじゃない、生かされているんだとわたしも思います。
だから生かされているうちは何をしてでも生きなきゃいけないんですよね。

Posted by: ぢゅん | June 28, 2006 at 04:52 PM

ぢゅんさん
「いざ自分がその場に経つと一瞬気を抜いただけでスーと奪われるような脆いものだった。」
すごい経験をされたんですね。あっちに行くとき、スーッといって「あ、もう来てたの?」って感じなんですかね。その意味でも、どうもがいても、いくときは行ってしまう、命は手に届かないものなのかもしれません。でも・・・
「だから生かされているうちは何をしてでも生きなきゃいけないんですよね。」
これも、ぼくの持論でもあります。ぼくは人間にはその人によって寿命が違うと思うのですが、最近、寿命来る前に命を失う人、多いですからね。生きれるうちは生き抜かなくちゃ・・・。


Posted by: モモタロウ | June 30, 2006 at 06:36 PM

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