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July 24, 2006

病と仕事の兼ね合いが難しい

久しぶりに、仕事がたて込む日々・・・

体への負担という意味では、

ただ、今のところは以前と比べると

ずっと、まだいい。

病で休業する以前は、夜10時、11時から打ち合わせ、

終わるのが、深夜の2時、3時。

そこから、飲みに行って・・・なんて

こともある、典型的な「不規則な生活」。

徹夜で、原稿書きをすることは、

仕事を依頼する方からも要求されて、

それが当たり前だった。

(一方で、仕事がないときは、ないのだが・・・)

「不規則な生活」は、体によくないのは周知のこと。

PKDという難病を抱えていることが

わかった今、無理するのはしたくない。

母の壮絶な死を間近で見たので、恐怖感が焼き付いている。

(母もそうだが、実は祖父もPKDが原因で透析となり、

透析をしてのち、PKDで亡くなった。

まさに遺伝性の病であるが、曽祖父、曾祖母のことは情報がない)

ただ、そうして「不規則」を避けると、

今までのやり方・職種だと、仕事の幅が

狭まるに決まっている。それどころか、

やっていけない可能性が高い。

ただ、もうこの年齢だし、まるっきり違う仕事に

就くのは難しいし、自分でもあまり望んでいない。

そう簡単にはいかないだろうが、

仕事の方法を変えるとか、職種をずらすとか、

画期的にもっと仕事の能率を上げるとか、

請け負いではない仕事の道にチャレンジするとか、

よく考えて前向きに、やっていくしかないだろうな。

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July 19, 2006

猛暑のときより涼しい方が・・・

ここのところ、暑さもひと段落しているが、

昨日は、朝から、背中がはるし、

首や肩はひどくコリを感じるし、

で調子悪かったです。

ないときはないのですが、今、仕事がたて込んでいて、

ストレスになっているのでしょうかね。

仕事の合間合間に、区切り区切りに

スワイショウ(気功の1種)したり、

野口整体の活元運動をしたり、

背骨ゆらしをしたり、

自己浄霊(自分でするヒーリング)をしたり

いろいろやったけど、よくなりません。

夕方になって、畳の上に仰向けになって

1時間くらい寝たら、ようやく少し楽になりました。

いったいなんだったのでしょう。

そしたら、夜は夜で、もうすぐ4才になるモモイチロウ

が、ぜんそく発作で、一晩中、ひんぱんに咳をしていた。

一番たいへんだったのは、妻、モモコだったけど、

自分もたびたび起きていたので、眠かったです。

そんなわけで、猛暑のときより、

むしろ、うちは、こういう涼しいときの方が

コンディションはよくないようです。

とくに、ぼく自信やモモイチロウは・・・。

体質のせいなんですかね。

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July 09, 2006

医療費を減らすために風邪ひこう!

数日前より風邪をひいていたのだが、

ほぼ治った。

38度ちょっとあり、体がだるく、頭も痛かった。

喘息もちだから、そっちが悪くなったらと、

つい気にしてしまうこともあるが、

ほんとうは、風邪というのは、実にいい

「体のお掃除」のツールである。

野口整体の創始者、野口晴哉さんも

「風邪の効用」という本を出されている。

(以下は、その本の内容ではありません)

たとえば、1つのパターンをいえば、

頭痛は頭のその悪い部分が

溶け出している証拠であり、

熱が出ることによって、

ますます根本原因をとかしてくれる。

その溶かされた毒素は、鼻汁、くしゃみ、咳などによって

外に出される。

とくに、頭とおなかはつながっているから、

頭がよくなるときは、下痢になって出ることが多い。

そんな具合に風邪というものは、

もし風邪にならなかったら

大病の原因になっていたかもしれないものを

お掃除してくれる、実に素晴らしいものなのだ。

だから、社会も「風邪ぐらいで休むな」とか

「薬飲んだか?」「医者行ったか?」などと詰問をせず、

ゆっくり治す機会を与えてくれたらといつも考えている。

人によって、また症状の重さによって、

風邪が治るまでの期間はさまざまだろうから、

1日でも2日でも、1週間でも風邪が自然に治るまで

たっぷり休ませることができるような社会になってほしい。

そうなれば、国民の医療費も減ることは間違いないだろう。

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July 07, 2006

タオのライフにつながって生きる

加島祥造著「タオ―老子」の中の

『たかの知れた社会なんだ』という詩に

こういう一節があります。

たかの知れた自分だけれど、

社会だって、

たかの知れた社会なんだ、

もっと大きなタオのライフに

つながっている自分こそ大切なんだ

ぼくが前々回の記事で書いた、

「永遠の命」と「大自然の一部」であることを

意識して、子育てや自分の健康に向かうべき、

というのは、このことだ!

と、「タオ―老子」を読み返して、

思いました。

つまり

「社会じゃなくて、

タオのライフにつながって生きる」

ということ。

たとえば、

かなりきつくても、

「風邪ひいたぐらいじゃ

会社を休んじゃいけない」とか

「なんとか子どもに学力をつけて

将来的にできるだけ安定させよう」とか、

“社会とのつながり”はよく考えるわけです。

これも必要なことでしょうが、

みんな、もう1つのつながり、

“タオ(道)とのつながり”の方は考えない

ないわけです。

もっと、こっちの方が、人間の存在としては

根源的なものであるはずです。

11人の人間は永遠の命がある」

11人の人間は大自然の一部である」

これを、タオという言葉に

置き換えていいかはわかりませんが、

こうした根源的なものから、

特に、人間の生命に直接かかわることは

考え、対処していってこそ、

子どもは、より良く育ち、

健康を保ち、病を癒すことができるのでは

ないでしょうか。

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July 06, 2006

健康も子育ても生命を育ててくれる

       “子育て”も、自分の“健康”を保つことも、

生命と向き合うことであり、

だからこそ、

自分の精神を成長させるためには、

すごくいいことだと思うのですよね。

たとえば、子どもと肌と肌で接するだけで

自分の精神を成長させてくれるような気がする。

病の苦痛と向き合うだけで、

自分の精神が少しでも進化するような気がします。

                                  

つまり両方とも自分の生命を育ててくれるということでも

あるのでしょうか。

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生命とは「永遠の命」と「大自然」

「健康」と「子育て」、両方とも

1、永遠の命がある。

-代々の先祖があって自分が存在する。

 輪廻転生。

肉体は滅びても、消えないもの。

2、大自然の一部である。

 -人間は動物であり、生物であり、

自然の一部であるということ。

一番根本に、この2つの概念を

忘れてはならないと思います。

なぜならば、健康と子育ては、ともに“生命”に

関することだからです。

1、と2、は、生命の本質、いいかえれば、

人間の本質をあらわしているからです。

これは、ぼくの考えですが(こんなこと考えて

いる人はいっぱいいるでしょうが)、

この2つがともになければ、“生命”として

存在できないのです。

1、が時間的、2、が空間的といいましょうか、

この両方で、生命は成り立っているわけです。

【健康の場合】                                      

1、たとえば、年老いて、病院で人間らしく

生きられていないのに、ただ生きるために

生きるのはいいことなのでしょうか。

「死生命あり」これは、論語の言葉ですが、

人間には決められた寿命があるとして、

それを無理矢理に延命して生きさせるというのは

間違ったことなのかもしれません。

これも、「永遠の命」のことがわかっていれば

そういう行動はとらないはずです。

2、あくまで基本ですが、

人間は大自然の一部であり、

生物であり、動物であり、その部分で健康が

保たれていなければ、健康になりえないことを

認識すべき、そう思います。

【子育ての場合】

1、生まれたばかりの赤ちゃんも、幼児も

 よく見れば、泣きわめき、怒ったり、笑ったり

 する以上の存在であることがわかります。

 その子にはその子ならではのものを

 すでに、もっている・・・。

 これは、根本に“永遠の命”がある

ということに他ならないのではないでしょうか。

2、自然流育児という言葉は

だいぶ広がっていますが、やはり、

小さければ小さいほど、動物として

生物としてできるだけ完全であるように

育てるべきではないでしょうか。

それでこそ、人間としての土台が

できると考えます。

 

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July 03, 2006

病の利点

実は、1つ前の記事「喘息と金メダル」のようなことは

以前より「喘息もちの嗅覚」で察知していましたが、

昨日の朝日新聞朝刊「仕事力」に、脳科学者の茂木健一郎が

こんなことを書いていました。

「(オリンピック金メダリスト清水宏保は)小児喘息のために、

いつも自分の体の状況を気にしていて、頭の中で身体の隅々に

神経を張り巡らせてきたそうです。たとえばある部屋に入ると、

調子がおかしくなりそうだな、と分かる。そのような時に、

身体の隅々にまで神経を行き届かせ、コントロールする術を

身につけたからこそ、金メダルも取れた、と。」

つまりぼくの仮説ははずれていなかった。

特にそうしたことを感じてきたのは、

使ってきた薬をやめたときです。

薬を使わず、自らの力によって、発作をできるだけ出ないように

しなくてはならないために、神経が過敏になったわけです。

ぼくは、クローゼットをあけただけで、発作になりました。

防虫剤のムシューダにやられたのです。ムシューダだから

無臭なのですが、成分は揮発しているのです。だから、虫を

防ぐことができるわけです。

臭いのある防虫剤より、臭いはないけどムシューダの方が

ぼくにはきつく感じられ、発作を誘発した。

そんなこと、気づいたのも、薬をやめたからなんですね。

(そのときは、やめてから、何日もたっていましたが)

ここで言いたいのは、薬が感覚をにぶらせるということよりも、

喘息などの病というものが、思わぬ利点を生み出す

ということです。

物事には必ず表もあれば裏もあります。

欠点と長所は裏腹です。

せっかく、その病気を得たのですから、その苦しみなどの

マイナス面ばかりを見るのではなく、その裏側も

のぞいてみると、思わぬ自己を発見できるかもしれません。

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喘息と金メダル

スピードスケートで金メダル保持者の

清水選手。今年の冬季五輪では残念な結果に

終わったのですが、

かつて無敵を誇ったとき、

その強さの秘訣はなんだったと思いますか。

私は、1つには、繊細さだと思うのです。

零コンマ何秒を競う競技では、微妙な体の動き、

筋肉の状態、フォーム、心の変化・・・というものが

タイムに影響するそうです。

それが、零コンマのまさにタッチの差となる。

だから、まずは、そうしたことをキャッチできる

感覚の鋭さ、鋭敏さというものが必要になります。

スピードスケートの選手は、その感覚を極限まで

体を鍛え、練習をすることによって得るといいますが、

きっと、それだけではいくらやっても

得ることができないものがあるのです。

それが素質というものであり、

一流のタイムを出せるか否かはそこにかかっています。

清水選手はその“繊細さ”をどこで身につけたのか。

天性のものだったのでしょうか。

私は、それは、幼い頃からの喘息にあると思うのです。

自分が喘息もちなので、よくわかるのですが、

喘息と正面から向き合えば向き合うほど、

鋭敏にならざるを得ません。

ダニやほこりはもちろん、食べ物、飲み物、歯磨き粉、におい、

天気、…、など、何が発作を誘発するかわからないからです。

つまり、清水選手がスピードスケートで“金メダル”を

とったのは、彼の“鋭敏さ”にあった、そしてその

“鋭敏さ”は“喘息”によって作られた。

だから、“喘息”でなければ、“金メダル”をとるのは

難しかったかもしれない…、と思うのです。

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自然治癒力はパーソナルなもの

おそらく、その人が病を超えて、

それは病へのこだわりも含めてですが、

乗り越えて、自分の人生を生き出したとき、

“大いなるものの力”が、働きかけてくるの

ではないでしょうか。

それは、別の言葉で“自然治癒力”といってもいい。

なぜならば、その人の人生は、病を治すために

与えられているのではなく、その人にしかできない

人生を送らせるためにあるからです。

その、目的と合致したとき、内なる自然治癒力が

大いに発動する。

自然治癒力というのは、決して、すべての人共通という

ことではなく、一人一人違ってものではないでしょうか。

その一人一人違ったあり方というのは、

その人がもっている、生まれながらにして

もたらされている“使命”というものと、

直接結びついているものなのです。

だからこそ、自然治癒力というのは、

非常にパーソナルなものであると思うのです。

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人生の目的は健康じゃない

「人生の目的は健康じゃない」ということを

まずは、肝に銘ずるべきだ、そこからが始まりで

あるような気がします。

安易な健康ブームが、どれだけ多くの人たちの

人生を、遠回りさせているか。

たとえばの話、病が治っていなくとも、

自分の人生を実現できるなら、それで

いいと思うのです。

今、病に苦しんでいる人たちは

そうは思えないかもしれませんが、

病を治した先に、または、病の先に、

かけがえのない人生が待っているの

だということは信じた方がいいと思います。

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July 02, 2006

ありきたりで、奇妙な自分だけの宇宙?!

   代替療法も、また代替療法じゃなくていいのですが、さまざまな宇宙を学び、ときにその中に没入し、その根本にある哲学や宗教を学ぶのは、結局、それを信じるというより、自分の宇宙観や哲学、宗教を創ることが目的であり、そこに帰結すると思います。 自分だけの、たった一人の、一人称の宇宙観であり哲学であり、宗教を創る・・・。

  私はたとえばこのキビダンゴで、個々の代替療法や、治療法、思想、宗教を語る資格はないかもしれません。それほど、それについて精通しているわけではありません…。 結局は、自分の宇宙を創っていくことと、その“できかけ”をお見せすることしかできません。

 結局は、ブログってそういうことでしょう?自分の世界を描いていくわけですから。他の芸術作品もそうなのでしょうが。 ようするに、ぼくを取り巻く奇妙な世界、宇宙を描くことで、どれだけ人の役に立つかはわからない。まあ、まともじゃなかったり、当たり前すぎちゃったりするかもしれませんから、それが参考になるかどうかは、ぜんぜんわかりません。 でも、参考になるかどうかはそれを見る人が決めるという、覚めた意見もあるわけで・・・。もしかしたら、ぜんぜん、誰の参考にならないかもしれない。役に立たないかもしれない。 むしろ、気に障るような、反論したくなるような、逆に、ほとんど無視されるようなことになるかもしれない。 でも、そこから始めなくては、始まらないと思うんですね。 奇妙で非常識ってことも、本人は正しいと信じているから書くのでしょうが、別にそれが正しいってことをいいたいんじゃなくて、自分の世界を描いている、もしくは創ろうとしているだけなんでしょうね。

  まあ、これを読んだ人が、自分の、一人称の宇宙観、世界観、哲学、宗教を創るのにほんのちょっぴりでも、お役に立てたらうれしいに違いないですけど。まあ、それも期待してません。

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代替医療は宇宙を見るために体験する

代替療法はなんのためにやるといいと思いますか?

もちろん、体を治すためでしょうが、

もう1つ、目的は、自分の宇宙とは違った宇宙に

入るためなんです。

アーユルヴェーダも、鍼灸・漢方などの中国医学も、

ヨーガも、ホメオパシーも・・・・

古い新しい、浅い深いの違いはあるものの、

それぞれがそれぞれの“宇宙観・世界観”をもっている

わけです。

代替療法の治療を受けるということは、

その“宇宙”の中に、入るということでもあるわけです。

たとえば、インド行ったり、中国行ったり、

ドイツに行ったりしなくても、日本で入れるわけなのです。

もちろん、それぞれの宇宙の全体像を見るのは、

至難の技ですが、たとえば、ヨーガならヨーガ、

鍼なら鍼を通して、ほんのちょっとだけでも、

その宇宙の空気に触れることができるわけです。

われわれ多くの日本人がかかっている現代西洋医学にも

独特の宇宙はあるんです。

それは、NASAが火星に探査機を送ったり、

木星を調べたり・・・、あの宇宙です。

我々が宇宙の真実の姿だと見ているこの宇宙だって、

実は、現代科学という人間の目を通した

いくつもある宇宙観の1つに過ぎないのです。

そして、現代西洋医学も、発端は、

NASAの宇宙と同じ、現代科学というものなのです。

だから、その証拠に、21世紀にまた、大天才が

現れて、今までの科学の定説を覆すような

定理を見つけたら、またまた根本から

宇宙の見方が変わってしまうかもしれないわけです。

まあ、ともかく、現代の日本は、いろいろな代替医療が

来ていて、つまり「いろんな宇宙をかじることができる」

わけですから、金と時間にある程度余裕のある方は

ぜひ体験することをおすすめします。

きっと、視野もかなり広がります。もう1つの宇宙を

見ていくわけですから。

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信じるということ。

結局、病を治す、健康を保持するという

場合に大事なのは、何を信じるかということだ。

西洋医学を信じるのか、民間医療を信じるのか、

町の鍼灸師を信じるのか、自分の体は病にかかっても

すぐに治るということを信じるのか・・・。

ぼくの場合は、昭和の初めから戦後10年間まで

活躍した宗教家であり、日本における自然農法の

創始者、岡田茂吉が発見した「浄化の理」である。

その「浄化の理」とは、一言でいえば、

「すべての病は浄化作用」ということである。

いっさいの病は、人間の魂や心、肉体の浄化作用であり、

原因となっている“汚れ”がとれれば、病も治る。

だから、熱、吐き気、咳、くしゃみ、かゆみ、痛み

・・・・ありとあらゆる病の症状は、

身体や心、魂の汚れや曇りをとるために出るのであって、

それを薬などでとめてしまうのは、せっかくの治るための

症状-浄化であるのに、治る過程を止めてしまう

だから治らなくなるということに、つながってしまうのだ。

この原理を元に、ぼくは約4年間、病を治してきて、

結局治っていない。薬も数年ぶりに使い始めた。

しかし、この4年間のおかげで、

確かに「浄化の理」は真理であるという

ことに、さらなる確信を得た。

ただ、その理に反して、最低限の薬を使っているのは

薬を使わず、曇りや汚れをすべて外に出しきれば

治るのだろうが、時間がかなりかかりそうだという

ことを悟ったからだ。経済的な問題もある。

精神的な問題もある。肉体的な苦痛もある・・・。

とにかく、私が自分の病を治す上で、

信じている基本の思想・信条は、

「ありとあらゆるすべての病は浄化作用である」という

「浄化の理」なのである。

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