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October 17, 2006

これでいいのか?

結婚し家族をもち、いつしか、

“空虚感”というものが

なくなった。

かつて親と同居していても、どこにいっても、何をしても

空虚感は埋めることはできなかった。

その胸のあたりの穴が、いまは消えてしまった。

あれはただの孤独だったのだろうか。

しかし、それとときを同じくして、

“叫び”も失われてきたような気がする。

あのころ、いつも心の中で“叫び声”を

あげていた・・・

「おれはなんなんだ?」

「どこにいけばいいのだ?」

「これでいいのか?」

「このまま死ねない」

・・・

言葉にはしなくても、“叫び”があった。

その“叫び”とともに、酒の入ったグラスを握り締めたまま

テーブルに打ちつけ、

手がすっぱり切れて血まみれになったことがあった。

あの鮮烈な血こそが、自分の“叫び”だったのかもしれない。

よかれあしかれ、そういう“叫び”が、“空虚感”が消え去るのと

比例して、フェイドアウトしてしまったような気がする。

いいのか、悪いのか、分からない。

ただ、そうしたものが心になくなった自分を、

鏡を見ないでイメージすると、

目がトロンとした、肩を落とした、中途半端に

年だけくった中年男になってしまう。

その男は決して、豊かで満ち足りた

生活をしているわけではないのに・・・

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四耐

曽国藩の「四耐」。

 冷に耐える。

 苦に耐える。

 煩に耐える。

 閑に耐える。

人間は結局は他人のことには冷たいもの、

当然、苦しみはしんどいし、煩わしいこともいやだが、

このごろ、「閑」というものが身にしみる。

「閑」はへたをすると、じわりじわりと自分が根っこ

から腐っていく。

「四耐」の他のものはそういうことはないだろう。

忙しすぎて「心を亡くす」ということもあろうが、

腐りはしないような気がする。

「閑(ひま)」なとき、

ふと、「このまま朽ち果てていくのか・・・」

とけだるさにつつまれることがある。

突然、絶望に陥るのではなく、

じわりじわりと進捗して、

いつの間にか自分のどっかが

「腐って」いくようで実に恐ろしい。

かといって、どうしようもないときは

どうしようもないので、

「耐える」しかないのだ。

そういうときは・・・。

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ぎりぎりのところで・・・

ぎりぎりのところで、耐えてがんばっていなければ

どうやら、いい言葉なんて出てこないようだ。

ということは、自分の場合、喘息とまた正面から

向き合うこと?

ああ、やっかいなこっちゃ!

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自分に正直に生きるために「耐える」

「自分に正直に生きる」ために、

「耐える」ということも大切だ。

自分に正直に忠実に生きる、というと

前へ前へというイメージがあるが、

停滞の中で、ただじっと耐えながらも

自分に正直に生きることはできるのだ。

「耐える」というと今まで、どこか暗くて、消極的で、

古臭い精神主義的な臭いを感じて、

まともに見つめてこなかったけれど、

近頃、その言葉の意味をかみ締めてみればみるほど、

今まで自覚していたのとは別の味わいが

ある言葉だということに気づく。

だからこそ、多くの人々が、この「耐える」、

「忍耐する」

という思念によって、

人生の寒風にさらされ、

凍える体をぶるぶるふるわせながらも、

歯をかみ締め、涙をながしながらも、

生き続けてこられたのだろう。

「耐える」という言葉は、今、この瞬間、

誰をささえているだろうか・・・

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October 14, 2006

俺がやらなくて誰がやる

1人1人にはこの世でやるべき使命があると信じている。

それが“天命”というものだろう。

その“天命”とは、「俺(自分)がやらなくて誰がやる」

ということではないか。

それは、決して、「俺がやってやろうじゃないか」という

傲慢な心ではなくて、

「自分にはそれほどの力はないかもしれないけれど、

それを自分がやらなければ、他の人はやらない。

できるかどうかわからないけれど、とにかく

やってみよう」

といった謙虚で控えめな心から出てくるのではないだろうか。

この「自分がやらなくて誰がやる」がある人というのは、

その人がこの世でやるべき使命―天命を

つかめた人であり、実に幸せな人なんだと思う。

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October 05, 2006

パソコンがまた壊れました!

パソコンがまた壊れました。
文字がまともに打てません。
(実は、前の「魂~」の記事も途中で
かけなくなってしまい、そのまま
のせてしまいました)
また修理に出します。しばらく更新できません(2~3週間?)。
(代用のノート型パソコンが98のせいか、ブログがうまく
起動しません)
そんなわけで、ご訪問、コメントも、基本的に
その後にさせていただきます。
完全に治ってから、またよろしくお願いします。

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October 02, 2006

魂で考える

10代後半のころ、よく師匠から

「おまえは頭で考えている、心で考えろ!」

といわれた。最初は、意味がわからなかったが、その

努力を続けているうちに少しはできるように

なった気がする。

すると、自分でも、大脳皮質だけで書いているなと

いうこと、

また人の話も、口先だけで話している人は

だいぶ判別できるようになった。

今は、「心で考える」でも足りないと思っている。

「コロコロ変わるからココロ(心)だ」

という人がいる。ぼくも、同感である。

“心”をどこからどこまでととらえるかにも

よるが、“人の心”ほどあてにならないものはない

のではないか。

よほどの修行をして、立派になった人は別だが・・・。

だから「心考えるべきでなく、魂で考えるべきなのだ」と

思う。「魂」とは「心」のさらに奥にある永久な存在である。

苦しいことがあると、こっちへふらふら、

何か誘惑があると、あっちへとふらふらする

「心」という海面の深くで、静かに真珠を抱いているのが

「魂」なのだ。

肝心なのは、その「魂で考える」こと。

いや、「魂で考え」ようとした途端に、「頭で考えて」しまう

のではないか。

だから、「魂で考える」のではない。「魂でつかむ」のである。

いや、もっといえば「魂で生きる」のである。

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