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November 20, 2006

小児喘息は自分にとっての「解放」だったのか?

◆野口晴哉さんの治療で・・・

今では知る人ぞ知る、日本の代替医療の歴史に燦然と輝く、野口整体の創始者であり、

『整体入門』『風邪の効用』などの著作で知られる野口晴哉先生(故人)の治療を受けていたことがある。

小学生の頃、喘息を治すためだった。畳に敷かれた床に寝て、体をさわっていただくのだが、そのとき、母も付き添うことが多かった。

◆まずいものをまずいと言えるか

すると、その大先生は、

「好きなものを食べたいとお母さんに言っているか?君がほしいと言ったものをお母さんは作ってくれるか?」

とよく、ぼくに聞いた。もちろん、そばにいる母にも聞こえている。

「お母さんが出した食事がまずかったら、まずいと言って、作り直させているか?」・・・。

 小学生のぼくは答えられなかった。すぐそばにいる母を意識していたのかもしれない。すると、決まって母が、

「お父さんが厳しいんだよね」とぼくに向かって言うことで、大先生に答えていた。直接、先生に答えることもあった。

30年以上経って、少し解ったこと

 もちろん、そのとき、なぜ先生がそんなことを問うのか、とわからなかった。その後、長じて、治療をやめてからも、不可解なことをいわれたとしか感じられなかった。母は、優しい人だった。父の方が、どちらかというと、厳しくて身勝手なところがある人だと思っていた。

 そうしたことを言われてから、30年以上たった今、“自分”というものを見つめ考えに考えて、ぶち当たったこととようやく、一致したような気がする。

 子どものころからの喘息は、もしかしたら、自分にとって、しばしの「解放」であったのではないかということである。

◆自分の中に埋め込まれた「抑圧」

ぼくは、父からなのか母からなのか、家庭全体からなのか、やはりかなり「抑圧」を受けて育てられてきたと思う。母は優しかったが、「そんなことをしたら、お父さんから怒られるよ」という形で、ぼくを押さえつけてきた側面があった。

ありのままの欲求、ありのままの自分が認められず、まじめ、いい子でいるしかなかった。喘息であるという意識が、ますます、その状態に自分を依存させたのかもしれない。

今、記憶をたどってみると、喘息であるときだけが、母に甘えられるときだったような気がしてならない。

「こんなものを食べたい!」、また出された食事に対して「まずい!作り直して!」なんて言える環境にいなかったことは確かなことだ。

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Comments

野口先生の言葉、、、奥が深いですね。
ほんとに「まずい」と言われたら、かなりへこみますが〜)^^;(
モモタロウさんの、今の思いとピッタリとくる言葉を、
そんな少年のころに投げかけていたなんて。
なんだか不思議だ、、、

わたしも、ひとりの母として、子どもの心を小さくしぼませてるな〜と感じました。
変わっていたって、はみだしていたって、
それが悪いことかどうかなんて、誰にもわからない。
小さな芽が大きくなって豊かになって、ため息がでるような花をつけるかもしれない。
甘酸っぱい実をつけるかもしれない。
なのに、誰にでもわかりやすい良い子を、促成栽培みたいに求めてしまう。

それはきっと自分も自由じゃないから、ですね。
見栄とか体面とか、そんなものをとっぱらって、もう一度子どもを見つめてみたい、そんなふうに思いました♪

Posted by: こぞう | December 12, 2006 at 12:15 AM

こぞうさん
偶然、他のところでも読みました(講演だったかな?)

お母さんに向かって「隣の○○君ちよりも、うちの料理まずいよ」
「○○ちゃんちのお母さんよりもうちはブスだ」
ということができる家庭で育てられた子は幸せだ。
自分の正直な感情を外に出して、受け入れられる。
つまり、そのまんま、まるごとの自分を受け入れられているのだから。

でも、、
「それはきっと自分も自由じゃないから、ですね。」
と、こぞうさんが言うように、
親がありのままの自分のことを受け入れていなくては、
できないのでしょうね。
不自由とは、もしかしたら、ありのままの自分とか
現実を受け入れていないことではないでしょうか。。。

ぼくは自分のことについて最近、
そういうことにすごく気づいてしまったのです。
こぞうさんには、しっくり当てはまらないかもしれませんが
もし、心当たりがあるとしても、
お互い、あせらず、あまり無理せず、やりましょうね。

ありのままの自分を見つめるって、ときに
すごくつらいことでもあるようですから・・・。

でも、それを受け入れちゃうと、ほんとう幸せな気分に
なれるような気がします。
ぼくは、まだほんのちょっぴりですが、あたたかい光が
ほんの少しだけ、さしてきたような気持ちになれました。

Posted by: モモタロウ | December 12, 2006 at 10:48 AM

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