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November 30, 2006

他から促されるままでいいのか

私のこれまでの生活で、自分は気がすすまぬながらも、他からつよく促されて行ったことは、ほとんどつねによい結果をみたが、自分の発意で着手し、自分ではよいと思ったことは、一向によかったためしがない。    ヒルティ(哲学者、国際法の大家)

ニートになる人の多くが、自分で自分の人生を選択してこなかったという。たとえば、親から与えられたレールの上にだけのってきて、自分で自分の人生に責任を取ろうとはしなかった。

私もお恥ずかしい限りだが、人生の決断を大人になってまで人にまかせてきたという経歴があり、人から頼まれたこと、指示されたことを断るのが苦手という性格をいまだに持ち合わせている

「自分は気がすすまぬながらも、他からつよく促されて行ったこと」とは、この場合、ヒルティはキリスト教の信者だから「神から与えられた」ことであるが、私のような浅学の信仰浅き者からしてみれば、「与えられてやる」という意味では、ニートの場合もどちらも変わりなく思えてしまう。

私も、断れる断れないは抜きにしても、できるだけ与えられたことはやろうとしている。特に、偶然に偶然が二重三重と重なったときなどは、それを偶然ととらえず、「神から与えられた必然」としてやらねばならないという思いに駆られ、実行する。それはそれでいいのだ。

ただヒルティは「ほとんどつねによい結果をみたが、」と書いているが、私はなんともいえない。というよりか、それによって、いやな思いをしたりしたことも多かった。

その経験を分析してみると、「他からつよく促されて行った」ときはいいのだけど、それによって始まった事柄をやめるべきときがきても、だらだらとやめないでいたときに、いやな思いになったようにも思う。

他から与えられるがままに身をまかせていくこは、とくに何かに着手するときはそれでいい、むしろその方がいいのかもしれないが、それをやめるときは、自らの発意によって、決断してやめなくてはならないのではないか。

それを一言で表しているのが、河井継之助の

進むときは人任せ、退くときは自ら決せよ

という言葉である。

そんなことをふと思いつき、ここに書いてみた。

ただ、もしかしたら、退くタイミングというものも、神は教えてくれているのに本人が気がつかないだけということもあるかもしれない。

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Comments

とても良くわかります。自分のこれまでの経験の中でも想いが重なるところがありました。

Posted by: りゅうのママ | December 01, 2006 at 02:54 PM

りゅうのママさん
ありがとうございます。
想いを重ねていただけるところがあったとのこと、うれしい限りです。

余談ですが・・・
今、たまたまジョンレノンの「ハッピークリスマス」がラジオから流れていますが、
そういえば、この曲が入ったアルバムも、高校時代、貸しレコード店で偶然友人からすすめられたものでした。ジョンレノンのファンというわけではありませんが、このとき知らなかったから、洋楽をあまり聴かないものですから、ついぞジョンレノンの名を知っても“歌”を知らずに来てしまったかもしれません。

Posted by: モモタロウ | December 01, 2006 at 09:42 PM

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