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November 17, 2006

まじめ・いい子じゃ、ものは創れない? (金)(土)

ものを表現する、創るといったとき、ぼくの場合、

ずっとやってきたのは、放送の企画や台本だけど、

その根幹ともいえる大切ことは、

自己主張できるかどうかだと思う。

これはどんなものを創造し、表現する場合でも

同じであろう。

他人はこうかもしれないけど、自分はこう思う

まずは、それがあるか、ないか。

そして、それを言える(表現できる)か言えないか。

言い続けることができるか、できないか。

ということだと思う。

だから、ただ、まじめで優等生、

いい子で育ってきてしまった

人には、創造的な仕事はほんとうに

つらいことであるはずである。

彼らの多くは、親や周囲の人から

見捨てられないために、よく思われよう、

いい子でいよう、成績を上げようとして

やってきているがゆえ、

自分がなくなってしまっている

別の言葉でいうならば、そのままの自分を出すと

嫌われてしまうのではないかと本能的に

思ってしまうのである。

そして、それをなんとか、自分の中の葛藤を

乗り越えて外に出しても、他人からあまり

評価されなかったり、反対意見を述べられたとき、

そのダメージは、普通の人以上に大きいのである。

だから、次には受け入れられないのが怖くて、

主張できなくなってしまう。

たとえば、放送作家の場合、

与えられたテーマや番組の枠の中に自分のアイデアや企画を

吹き込むのが大きな仕事である。

そこにその人間の個性を出せなければ、

その作家の存在意義はない

いてもいなくても同じになってしまう。

だから、自分を主張でできないというのは

職業を従事していく上で致命的である。

なぜならば、アイデアや企画というのは、

それを面白いと選んだ、その人間の主張そのものであるから。

たとえ拒否されようとも、

面白いと自信をもっていえないようなら、

それはその人間の企画でもアイデアでもないのである。

武者小路実篤は、

自分の意見をいうために小説家になった」という

NHKアーカイブより)。

理想主義的な生き方をした人であるが、

決して、自分のあるがままを無視した人では

なかったのであろう

成績は優秀だったとしても、ただのいい子、まじめで

来たのではなかったであろう。

実は、ぼくが物を創る、表現するということにおいて、

ぶち当たっているものが「壁」であるとするならば、

他ならぬその部分が「大きな壁」として、自分の中に

立ちはだかっているのである。

いや、立ちはだかられ続けてきて、

立ちはだかられて続けていくことの限界をすごく

感じている…ということなのかもしれない。

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