健康を学ぶのも自得が大事
此の学は己れの為にす。固より宜しく。自得を尚(たっと)ぶべし駁雑(ざっぱく)を以って粧飾(しょうしょく)と做(な)すこと勿れ。近時の学、殆ど謂わゆる他人の為に嫁衣装(かいしょう)を做すのみ。 佐藤一斎『言志耋録』
―この聖人となろうとする学問は、自己の徳をなすためにするのだから、もとより自ら道を体得するを尊ぶのが宜しい。雑多な学問をして、外面を飾り立てるようなことをしてはいけない。近頃学問をする者は、殆ど学問をする真の精神を忘れて、他人のために、嫁入衣裳を作るようなことをしている。
健康について学ぶのでもそうではないか。
自分は病があって体が弱いから、それを裏返して、健康のことを専門にしようと思っていた。そうすると、経済的にもつながるのではないかと。
しかし、どうも進まない。それは心に反していたからなのではないかと気づいた。
健康法とか医療とか学ぶのは、自分が健康になりたいから、自分の病気を治したいから、周囲の誰かのためになりたいから、または興味があるから・・・やるのであって、それを専門にして人に示す、商売にするのが目的であるべきでない。それは、結果そうなることなのだ。こうして結果的に専門になるのならいいだろう。専門をつくるのが第一の目的ではない。少なくとも、私は自分に対してそうした方がいいとおもう。
その健康法が自分や誰かに効果があるかないか、つまり『自得』しないならば、その知識はただのうすっぺらな知識になってしまう。そうやって試さないまでも、自分で学んで納得していかなければ、単なる大脳皮質の薄っぺらな知識になる。それは「人に見せる」しか意味がなくなる。
そうなると、自分の場合、何も健康だけに絞り込む必要はない。たとえば、哲学にだって文学にだって、直接、体のことは書かれていなくても、健康になるためのヒントはちりばめられている。東洋哲学などはまさに養生と切り離せない。自分の関心・興味、そして体や心の状態からせまっていけばいいのだ(便宜上、ブログでは、今、分けていますが)
今の段階において、もっとも得たいものは、「この世を自分の使命で生きる」ということであって、その状態は、たとえ病があったとしても、心も体も健康であるということである。別の表現をすれば、自分なりの生き方、考え方、健康法、死生観を持ち、生きている状態になりたいということである。
それは、完全なる人格、健康-高みに向かって着実に進んでいる状態といえよう。死ぬまでに達成できないかもしれない。ただ早く、それに向かっての軌道に乗りたいものだと思う。
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