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December 31, 2006

2006年おおみそかに…

27日頼まれていた原稿が終わり、

29日家族4人で大掃除、

その晩、深夜に追い込みをし、

年賀状をすべて書き終え、昨日30日に投函。

本日は、おせち料理の

材料を皆で買いに行く予定・・・

今年最後の方は、過去に自分の築いてきた

価値観を崩壊させるような営みをしてきたように思う。

崩壊させてしまって何もなくなってしまうなら

それはそれでいい。

そこから生まれてきたものこそ、

ほんとうのものではないか。

それでも残っているものこそほんものではないか。

そう思ってやってきた。

                      

いうなれば、自分の弱さ、醜さ、汚さを見つめ、

自分の面前にさらけ出す営みだったような気もする。

                 

こうして、おそらく少しでも

世界を愛そうとしてきたのだ。

なぜならば、自分とは世界の一部に他ならないから。

体調はぐずぐずしていても、

少しだけ家族に対するやさしい気持ちが

増えたような気がする。

                      

来年も、前へ、一歩でもほんのわずかでも進みたい。

                       

(※金、土の“表現”のつもりで書いた1つ前の記事

Homeless girl』は事情によりカットしました。)

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December 27, 2006

カナシミ

悲しい人たちの悲しみをもっとわかりたいと思う。

そして、悲しい人たちにある神をわかりたいと思う。

それこそが自分の悲しみをわかる道だとも思う。

自分の悲しみをもっとわかりたいと思う。

そして、自分の悲しみにある神をわかりたいと思う

それこそが、悲しい人たちの悲しみをわかる道だとも思う。

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mou・・・

神というのは自分のこころにもある。

そして、そう創ったものこそ神ではないか。

無理矢理、信仰をするのではない。もう信仰しているのだ。

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自分の“天”を守るためにウソをつく

自分を守るためにウソを徹底的につく。そんなこともあっていいのではないかとふと思ってみた。

その自分とは欲望を拡大させて生きる自分ではなくて、天が与えた自分である。

天が与えたままに生きることが尊いのか、それとも、それを裏切ってでも、社会の中で生きるのが尊いのか・・・。

天が与えたままを大切にして、社会の中で生きて行くには、時にはウソをつかなくてはならないこともある。それは社会がまだ、天に従って作られていないから。だから、そのウソは決して利己的なウソではない。時には、他の人の中の“天”を守るためにウソをつくこともあるだろう。

それには、まず、自分の中の“天”とは何であるのか知る必要がある。人間の中の“天”とは何であるかをもっと学びたい。

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天に作られたままに生きる

凡そ事を作(な)すには、須(すべか)らく天に事(つか)うるの心有るを要すべし。人に示すの念有るを要せず。

                佐藤一斎『言志録』

西郷南洲遺訓の『人を相手にせず、天を相手にせよ、天を相手にして己れを尽くして人を咎めず、我が誠の足らざるを尋ぬべし』のヒントになったのではないかとも思われる言葉。

訳文「すべて事業をするには、天(神または仏)に仕える心をもつことが必要である。人に示す気持ちがあってはならない」(川上正光訳)。

 この言葉はぼくにメッセージを発し続けてきた。今の時点でこの言葉を受けとめ思うのは「天に事うるの心」とはどこからくるのかということ。天に事えようとする心は、天に事えるのがいいことと誰かがいうから、そうしようとするのではなくて、そもそも人間の心に備わっている心ではないか・・・

 その人の心のままに生きれば、自然と「天に事える」ことができるのではないかということだ

 たとえば、何かを表現するという場合、意識的に他人に何かを伝えよう、何かを描こうとすることは「天に事える」ということにならないとも、この上記の言葉からは受け取る事もできるかもしれない。

 しかし、人間というもの、自分というものは「天が作ったもの」だ。その欲求に従ってあるがままに生きること、そして描くことは「天が作ったままに生きる」ことであって、そのまま「天に事えている」ことにならないか

 今、窓から朝の太陽の光がさしているが、その光がこんなことを書かしているのではないかと思いながら、思いつくままを書いてみた。

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December 26, 2006

健康でなくても立派な仕事はできる

ヒルティ著『眠られぬ夜のために 第一部』から一節をご紹介します。これは例によって自分への言い聞かせでもあります。(小見出し、傍線等-もちろん解説も、小生が加えました)

健康でなければ立派な仕事ができないというわけではない

われわれは完全に健康でなければ、立派な仕事はできない、だからなによりもまず、健康でなければならぬ、という見解を信じ込んではいけない。これは今日、多くの良い人々の迷信となっている。ひと昔前には、ある種の病弱を天才のしるしと見なし、頑丈な健康をかえって「凡庸」のせいだと考えたが、現代では、逆に肉体のことをあまりに気にしすぎる

 これからすると、健康が完全に回復してから仕事をするという考え方にとらわれるべきではないということでもある。むしろ、昔のヨーロッパ人は、自分が病弱であるということを“天才の印”とでも思って、誇りに思っていた人もいるということだろうか。

 これを書いていて、今、ドイツの詩人であり、劇作家のシラーを思い出した。彼は、親友ゲーテのように頑丈な体を持ち合わせておらず病弱であったが、健全な、そして偉大なると呼んでもいいだろう“精神”を内に蔵していた。それは、彼の作であるベートーヴェン作曲「交響曲第9番《合唱》」の詞を思い出せばわかるだろう。

確かに、病は健康なときに得られない“何か”を得させてくれる。凡庸な人間が自分の凡庸に何らかのプラスアルファを加えてもらえるかもしれない絶好のチャンスでもあるのだ。

 だからといって、病弱でなにかをすれば健康に近づける人間がなにもしないで放っておいていいということにはならない。また、健康な人間が健康管理を怠っていいということではもちろんない。神から与えられた肉体をメンテナンスするのは人間の義務である。

 それに、現段階で病を治さなければ仕事も何もできないという人が世の中に大勢いることは確か。また、とにかく今は治すことに専念してその後に仕事をがんばるという人もいるであろう。それはしごく自然なことである。

 つまり、この一節では「病を気にしすぎない」ということがポイントなのではないだろうか。

健康を守るために生きるのは空しい

 病弱はすこしも善い事を行う妨げとはならない。これまで最も偉大な仕事をなしとげたのは、むしろ病弱者であった。それに、完全な健康をもっていると、必ずとはいわないが、精神的感受性の繊細を欠くようになることが実際少なくない。あなたが健康にめぐまれているなら、神に感謝しなさい。しかし健康でなくても、そのことにできるだけ心を労せず、また妨げられないようにしなさい。たんに「健康を守るためにのみ生きる」という考え方は、教養ある人にふさわしくないものだと思うがよい

 この「健康を守るためにのみ生きる」という考え方は、昨今の“健康ブーム”の中で、特に、不定愁訴がある人や過度に病になることを心配している人は、陥りやすいものであろう。主だった病気はないのに、さまざまなサプリメントや健康食品をたくさん常用していたり、さまざまな健康法を次から次へと漂流して行ったり、そういう人も現在の日本においてかなりいるようだ。私自身も省みると、病があることも手伝って、こうした傾向がある。戒めていきたい。

 健康や病について自分の体で研究し、いずれは誰かのために役立ちたいというならばいいだろう。また、健康を必死に守ることで自分の職業を立派に遂行するということであれば素晴らしいことである。サンプラザ中野さんがそれに近いようだが、それを趣味と割り切って、趣味と実益をかねてやる人はそれでいいだろう。

 健康を意識しすぎた結果、健康ブームや健康ビジネスにのせられて、その渦の中に巻き込まれてしまっている人が、どうもいただけない。

つまり人は「健康を守る」ために生きるのではなく「その人に与えられた使命を行う」ためにこの世で生きているということなのだ。

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むくわれぬ愛に失ったおまえ

ウォー お前はこの街を呪い

    かたくなに夢を買いしめさまよってる

  だろう

ウォー こんな夜は 

        むくわれぬ愛に失ったおまえを

  抱きしめたい

                    尾崎豊『米軍キャンプ』より

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December 25, 2006

精神の解体作業

大げさにいえば、今、精神的に解体しようとしている。

今までの価値観とかアイデンティティーとか、すべてを疑っている。

いや、疑おうとして疑っているのではなく、

先月、肺炎になった頃から、そういうことに

気づいてしまったのだ。そのせいか、体調も悪い。

予防薬を使っているにもかかわらず、今も、ぜんそく発作ぎみ。

今までだったら生活を整えて回復しようとしたかもしれないが

そういうことも、あまりしていない。

ストイックに生活を律するということを自分がやるということも

信じられないのだ。正直いうと、信仰も・・・。

でも、ここからやらないと、何も新しく始まらないような

気がしている。中途半端なところで終わらせず、

行き着くところ、気がつくところまで、突き当たりたい

とも思う。ただ、そう思うということ自体、

今までの自分と変わりがないようでもあるので

決めつけるのはやめておこう。

ポイントは現実を直視し、自分が今まで目をつぶっていた

見たくない自分を見て、認めようとしてこなかったことを

認めることだと考える。

今まで、すっきりしないのは、まだ、認めるべきところを

認められていないのかもしれない。

ふと、今、思いついただけでも、許せない人、許せない過去が

いまだにあり、頑なに従うのを拒否している。

そうやって、精神を解体すると、ほんとうに自分は空っぽ

だったんだなとつくづく思う。

しかし、空っぽじゃ、やはり生きられない。

急に空っぽだったことに気づき、途方に暮れているのが

いつわらざる心境といえるかもしれない

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December 24, 2006

へたでもいいじゃないか!

子どものおもちゃに、デフォルメされていてかわいいい、プラスティックの動物、ブタ、クマ、ライオン、・・・があり、それをそれぞれのブロックがあって、その上にのせると、歌いだす(音楽が流れる)というのがあった。

日本の山奥で、座禅を組んでいるとっても変わっている白人の神父さんがいる。その方と、ある人の病床であったのだが、自分のお国のアイルランドでは、道の途中で知り合いの人と出会うといつまでもいつまでも長話をする。ようやく、話が終わって、また歩き出し、誰かと出会うと長話。実は、そんな生活が日本の昔にもあったのだ。ぼくの子どもの頃、60年代、70年代にはまだ残っていたような気がする。

 

その神父さんは、病床でそこにあった茶碗と茶たくをもって、「座禅とはこの茶碗を茶たくに置くためにやる」といった。つまり、自分が座るべきところに座るということだろう。その人は、座禅と瞑想を区別していなかった。瞑想とは、宗教に関係なく、昔から人間が行ってきたものと言っていた。

その後で、前述のおもちゃを見たとき、その神父さんの話を思い出した。きっと、茶たくに茶碗を置けば、いつまでもいつまでも歌い続ける、そう思った。そのときは、もううまく歌おうなんて関係ない、とにかく、歌いたくなって歌いだす・・・。絵を描きたいから描き出す・・・。歌おうとして歌うのではないのだ。描こうとして描くのではないのだ。小説家の安岡章太郎氏が以前どこかに書いていた。「小説を書こうと思って書き出す人間はにせもの。書こうと思わなくても自然に書いている」。確か学生時代に読んだのだが、ずっと頭にこびりついていて離れない。書かずにいられないから書いているだけで、できたものが下手であろうが下手でなかろうがとにかく書き続ける。だから、最初は下手でも長い歳月をかけるうちになんとかなっていく・・・。

ところが、無理矢理、書こうと思わなければ何も書けない人もいる。小説だけではない、人生のすべてがいうなれば自己表現だと思う。会社で事務をする人も、商店で物を売る人も、力仕事をする人も、自分を生かして生きることが自己表現である。ところが、あらゆることに、無理をして生きている人がいる。いやいや生きている。それは自分の茶たくに茶碗をおいていないのだ。夏目漱石も講演でこう言っている。「1つ自分の鶴嘴で掘り当てる所まで進んで行かなくては行けないでしょう行けないというのは、もし掘り当てる事が出来なかったら、その人は生涯不愉快で、始終中腰になって世の中にまごまごしていなければならないからです」(『私の個人主義』より)。

ほんとうは、茶たくなんて自分のすぐそば、足もとにあるものではないか、自分探しだなどといって、海外を放浪するまでもない。次から次へと、職を転々とし、次から次へと習い事をする必要もない。自分のものなのだから、自分の中にあるはずだ。自然にやりたいことを臆せずやればいいのだ。中にはいくら探しても見つからない人がいる。それは自分の“茶たく”を隠してしまっているなにかがあるのだ。それが見栄や体裁かもしれない、幼児体験かもしれない・・・。つまり、自分が好きなこと、嫌いなことがわからなくなってしまっている人もいるのだ。そして、そういう人は、自分が好き嫌いがないということもわかならくなっている。ぼくもその1人だった。そして、今少しずつ、回復してきていると思っているのだが、油断をすると、すぐ他人の目を気にしすぎてがんじがらめになってしまう・・・。だから、まだまだ・・・。

とにかく、“描けない”人は、子どもの頃、人生において一番最初に作った作品をけなされたり、無視されたり、認められなかった人が多いのではないか。どんなに下手なものでもその作品なりの、その子どもなりの良さがあるはずなのだ。絵がだめでも文章が、絵も文章もだめでも算数は、絵も文章も算数もだめでも運動は・・・というものがあるはずなのだ。

それを認められてこなかったのではないか。

 もう大人になったら、なかなかほめてくれる人、下手な中にもいいところを発見してくれる人もなかなかいないだろうから、自分で自分を信じてやるしかない。

 

二科の研究所の書生さんに「どうしたらいい絵がかけるか」と聞かれたときなど、私は「自分を生かす自然な絵をかけばいい」と答えていました。下品な人は下品な絵をかきなさい、ばかな人はばかな絵をかきなさい、下手な人は下手な絵をかきなさい、と、そういってきました。

 結局、絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。自分にないものを、無理になんとかしようとしても、ロクなことになりません。だから、私はよく二科の仲間に、下手な絵も認めよといっていました。

          熊谷守一『へたも絵のうち』

 

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心が病んだゾウのクリスマス

クリスマスの日、心が病んだゾウにはもうどこにも行くあてがない。

賛美歌を歌い、アベマリアに涙し、神に祈りをささげる・・。

いつぞやの夢も彼女は耐え過ぎた。

クリスマスの日、心が病んだゾウにはもうどこにも行くあてがない。

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ある娼婦と彼女の五臓六腑と数百億の細胞

ある娼婦「アタシがカラダ売ってんのは、アタシのカラダで奴への怨みをはらしてんのさ」

五臓六腑と数百億の細胞「やめてくれぇ」「助けて」「お願い」「私を使わないで」「苦しいよ」「痛いよ」「逃げたいよ」「どこに行けばいいの」「逃げられない」「なんで僕が」「なんで私がこんなめに」「涙・・・」「お願いやめて」「僕を愛して」「何をしてんの」「私を抱いて」「お願いだから」「許して」「愛してるから」「どうか、どうか」「お願い」「逃げないで」「闘って」「あなたはあなたなのよ」「地獄へ行かないで」「どうしてどうしてなの」「お願いだよ」「頼むよ」「自分を大切にして」「泣かないで」「泣かせないで」「もうぼろぼろだよ」「おまえってやつは」「あなたを愛して」「ぼくたちは右に倣えしかできない左に倣えしかできない」「どうぢでだあ」「この下衆野郎!」「こん畜生!」「この淫売!」「この売女が!・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!

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December 21, 2006

紫色のボール

紫色(むらさき)のボールを拾った

オレンジ色の夕焼けの日

天国からのプレゼント

僕はそう受けとめました

あなたが好んだ紫色

母の日の蝶々のサイフは

うれしそうな微笑とともに

タンスの奥にしまっています

あなたの孫は元気です

あなたの名前をつけました

あなたが投げたボールに

あなたの文字をつけました

紫色のボールを投げ上げた

雲ひとつない冬晴れの日

空ととけあう贈りものを

娘は両手で受けとめました

妹家族と撮った写真

祭壇の顔は輝いていました

初孫を抱き上げたあなただけど

僕の子もなでて欲しかった

あなたの孫は元気です

あなたの名前をつけました

あなたが投げたボールに

あなたの文字をつけました

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生きることについて考えまちゅよ

今日はまじめに人生について書きたいと思います。

・・・・・・・・・

投げ出したいほどの痛み苦しみ、そして哀しみ

・・・・・・・・・

人生とは、山あり、ちゃにあり・・・(?)

・・・・・・・・・

どんな、険いみちゅのりでも・・・(??)

・・・・・・・・・

わたは、ちゅん剣に、このちゅん生を・・・(???)

・・・・・・・・・

ままぁ~、おっぱい(?????????????????)

わ、わたちゅと、ちゅたことが、ど、どうちゅて・・・・

-どうやら、わたくしの中の

“アダルト・チルドレン(幼児性)”が・・・・

ダッコ」・・・

 出てきて・・・「ジューチュ!!」・・・

 まチョもに書けなくなっ・・・

オカチ!!!」・・・まっようでチュ

 それでは、残念でチュが・・・、さよう・・・バイバイ!

 ・・・・・・・

 ママ~~~~~、たちゅけて!!!!

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まっか

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まるで花のような葉っぱだ!

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木はうつくしい

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でもぼくは木の名前をあまり知らないのです。

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December 20, 2006

すきとほったゆうひ

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(クリックしてください)

   はっ!

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ゆれるゆうひ

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(クリックしてください)

   うほっ!

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青空だけです。

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    ごめんなさい…

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青空と木

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空へと続く川

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あるゼウスよりエデンの園を求めるものたちへ

安住の地を求めさ迷うものたちよ

安住の地に今、いると思っているものたちよ

安住の地はないと知りなさい。

それがおまえたちの安住の地なのだ。

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時間と空間という海苔とごはんはお好きですか?にぎっているのはどなたですか?

ぼくたちは時間と空間に

オニギリのように押し込められている

存在だ。

だから、具になりきるしか道は無い。

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生徒へ~頭突きのすすめ~

校舎の壁に頭突きをしよう

血が吹き出るまで頭突きをしよう

家の柱に頭突きをしよう

頭に木が突き刺さるまで頭突きをしよう

車のフロントガラスに頭突きをしよう

ガラスの破片が飛び散ってキラキラするまで

頭突きをしよう

                                                      

                                                        

         

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幼い子らへ

君はずっと君のままでいておくれ。

祈るように願う。

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時計を亡くした

先月、ぼくは腕時計を海に投棄した。

しかし、時間は放棄できなかった。

存在を廃棄できなかった・・・。

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時計を無くした

先月、ぼくは時計を無くした。

しかし、時は無くせなかった

なぜだなぜだなぜだなぜだな・ぜ・だ、、、、、、、

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時計をなくした

先月、ぼくは時計を無くした。

しかし、時は無くせなかった。

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時計の音がぎざりぎざりと

時計の音がぎざりぎざりと

時を刻んで行く。(ぎざりぎざり、ぎざりぎざり)

ぎざりぎざりと

我が胸を切り刻んで行く。(ぎざりぎざり、ぎざりぎざり)

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宗教は言葉だ。

宗教は言葉だ。

宗教の内と外でガキガキしているのは、

言葉だけをくっつけたり、切り離したり、

ばらばらにしてまとめたりしようとしているからだ。

だからといって言葉を取っ払っちまえば、

宗教の区別がつかなくなっちまう。

それじゃ、困るよね。おまんま食い上げだものね。

でもねえ、言葉が命の宗教から言葉をのぞけば、

案外、命が見えてくるかもしれないよ。

もちろん、その命にゃ、区別はないさ。

※宗教に関係ないとひと安心のあなた。企業、・・・あらゆる組織・団体という宗教にご用心!

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あなたのルール

あなたは誰かのつくったルールを

あなたのルールにしていませんか。

誰かが作ったルールに誰かを照らし合わせて、

あいつは駄目だとかいいとかいっていませんか。

あなたはあなたのルールで生きるのです。

誰かが作ったルールが気に入ったとしても、

そのルールのすべて隅々まで気に入っていますか。

信じていますか。

そうじゃないのは、あなたのルールではないからです。

誰かの作ったルールの一部を抜き出したり、

誰かのルールをヒントにしながら

あなたのルールを作りましょう。

もし誰かの作ったルールで生きねばならぬのなら

これはあなたのルールではないということをちゃんと

認めたうえで誰かのルールに従いましょう。

決してそのまま信じようとしちゃいけません。

いや、決してあなたは信じちゃいません。

なぜなら、それは、あなたのルールじゃないから。

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December 19, 2006

おやすみ・・・   ( vol.2)

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December 18, 2006

ほんとの空がない

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智恵子は東京に空が無いといふ。

ほんとの空が見たいといふ。

20061212_015  

阿多多羅山(あたたらやま)の山の上に

毎日出てゐる青い空が

智恵子のほんとの空だといふ。

    高村光太郎『智恵子抄』“あどけない話”より

     (写真は1212日東京・池袋にて撮影)

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なにものにも帰属せず、寒風に身をさらせよ

 朝日新聞1218日夕刊「思想の言葉で読む21世紀論」にパレスチナ生まれの英文学者エドワード・サイードの事が出ている。ぼくはこの人のことをよく知らないが感銘を受けた。

『知識人とは何か』(平凡社)など多くの翻訳を手がけた英文学者の大橋洋一氏は、サイードが好んだ「冬の精神」という言葉に注目する。

 春が近づく気配を感じながら、希望の季節をただ待ち続けるだけでなく、あえて寒風に身をさらす。「いまが困難な時代だからこそ、厳しい冬の精神を持たなければならないとサイードは考えた。晩年になると伝統やナショナリズムに回帰する知識人が多いが、彼は最後まで何かに帰属して温かく包まれる生き方と無縁だった」と大橋氏は言う。

 自分が属する共同体の慣れ親しんだ空気に包まれて暮らしたい。人はそう思う。国や民族だけではない。何かの組織や集団に強い帰属意識を抱き、その一員として生きることは安逸につながる。

 だが、いつも仲間に合わせて気を配り、集団で思考する生き方からは新しいものは見えない。心地よいものの境界を越えて冬の精神を持て、とサイードは説き続けた。

 なにものにも帰属しないで生きることがいかに厳しいことか。しかし、そうすることでしか生まれてこない価値もそこから生み出すことができる。

今日は雲ひとつない青空だったが、北風が身にしみる一日だった・・・。

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コンナボクニモ

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ヒカリガサシテイル

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首をたれたまま…

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「あいつは首をたれ続け、

首をたれたまま死んじまった・・・」

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自分の“とんがっているところ”をさらに鋭利にするために病を受け入れるということ

「得手に帆を上げる」とは

自分の一番、“とんがっているところ”を

さらに鋭利にし鋭敏にしていくことだ。

その部分を常識や道徳、宗教、合理性・・・に

適っていないからといって、安易に

へし折ったり、鈍磨させるべきではない。

「角を矯めて牛を殺す」ようなことは

してはならない。

その“とんがったところ”は時に

その人の心や身体の病、障害、

変わった性癖や病とはいわれなくても

病的な部分等と、

裏腹な関係にあることが多い。

だから、無闇にその病なら病を

抑え付けてしまうと、「牛を殺す」

ようなことになりかねない。

だから、自分が「殺されない」ためにも

病や一般社会では一見異常と

思われるところでも、

全面的に受け入れてくれるような人、

つまりまるごとの自分を愛してくれる人と

できるだけ共に歩んでいくべきなのだ。

そして忘れてならないのは、

その共に歩んでいく人の

人が自分であるということだ。

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December 17, 2006

子どもと自分の最も汚くて醜いところを愛する

他の子どもと自分の子どもをついつい比べてしまう。

そして、過激な受験競争、習い事、過剰なしつけ・・・、

それら優越欲、自己顕示欲、…の炎の中に、母親自らが、

我を忘れ、没入していく。

そういう母親は、自分の子どものありのままに

劣等感をもっているのだ。

比較するから劣等感を持つのではなく、

劣等感があるから比較する 加藤諦三(心理学者)

だから、そういう母親は自分の子どもの

一番だめで、見ていられない、

そして醜くて、汚くて、憎い、

目をそむけたい、

自分がそう思っている部分を

愛してあげるのだ。

マザー・テレサが、人々から見捨てられ

ゴミのようにただ生きている人の中に、

イエスを見出し、愛し、尽くしたように、

子どもの最も醜く、汚い部分に神を見て、

愛をかける・・・。

ただ、それには、まず、自分の中の、

最も醜くて、汚い部分、今までの人生で

目をそむけ、自分の中のどこかに

ゴミのように捨て去っていたところを、

抱き上げて、見つめ、

とことん愛してあげるのだ。

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悲しみに身をまかせて

今日だけは

悲しみに身をまかせて

ゆらゆらしていよう

涙が流れたら流れるに

まかせよう

血が吹き出たら出るに

まかせよう

苦しんだら苦しみに

悶えるにまかせよう

今日だけは

ゆらゆらしていよう

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鏡に映る景色

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鏡に映る景色も

ぼくたちの景色を

形成しているのだという

ことを、日ごろ、

ぼくたちは忘れて

暮らしている。

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空を見て

この青空を見ながら、

ぼくたちは地獄を見ていたんだよ。

この抜けるような空を見ながら、

いたたまれなくなっていたんだ。

空を見てしあわせになれる者はしあわせさ。

空を見て空を飛べる人は幸せな人さ。

ぼくたちは、空を見て

空に閉じこめられていたんだ。

空の中で生きてゆける人もいれば、

生きられない人も世の中には

いるんだってことを忘れないでほしい。

きっとだよ。忘れないでほしい。

空を見ているのが、

死ぬほどつらい人が

いるんだってことを・・・

                                                                                                                                                                                                                   

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苦節15年

ある演歌歌手の街頭コンサート

「苦節15年ようやくこの歌のヒットで

大輪の花を咲かせた演歌歌手、○×△◇さんが

歌います!~~~」

それを見ていた酔っ払いの老人ホームレス。

「べらんめえ。苦節15年だと。

たったそんくれえで、つべこべ

ぬかすんじゃねえ。

俺を誰だと思ってんだ

一生、苦節だ。覚えとけ!」

                         (作・百太郎)

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December 16, 2006

犠牲者

こうなっちまったのは仕方ない。

しょせん世の中、食うか食われるかなのさ。

おい、外を覗いてみろ!

常識、博愛、平等、理性、平和、・・・

やつらがまたやってきたよ。

見ているだけでも、震えがきやがる。

お、おい!おれは先に帰るぞ。

もう食われたくないんだよ。

奴らには、初めっからいないって

言ってくれ。頼んだぞ。

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同じ ~ある難病患者の語り

俺は病を抱えて、

お袋の腹ん中から出てきた。

ええ?今までさぞ大変だったろうって。

おまえらと同じことだよ。

苦しみを抱えて生きているということじゃ。

ただ、形に見えるか、見えないかの

違いだけだよ。                                                              

                                                      

                                   

                  (作・百太郎)

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 氷 ~ とある風俗の女性の嘆き

ここにくるとき、身も心も氷にするって決めたの。

でも・・・、もう・・・、とけてしまいそうなの。

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心理学者へ

なに自己不在?

自分がないだと?

俺はここにいる。

おめえの目の前に

座ってんじゃねえか。

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ある自殺者の弁

生きがいがあるように、

死にがいってものもあるんだぜ。

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死を見つめる vol.2

死を見つめる?

死を見つめるなんて

お笑い草さ。

もう死んでんじゃないか?

おまえも俺も。

今、生きてるって誰が言える。

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苦しみ

ハハハハハ(笑)、

地獄のような苦しみか!

どうせ俺たちゃ、死ぬんだぜ。

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だまされない

たとえ、安アパートで

一人のたれ死んでも、

愛なんてことばにゃ、だまされねえ

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ぼくたちは、いつからきみとぼくとを区別したんだろう

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ぼくの中に見える景色は

ぼくの中に存在している。

たとえば、きみが見た景色は

きみの瞳に存在している。

だから、その景色は、

もうすでにぼくであり。

もうすでにきみなんだ。

追伸

(自分と他者とを区別しているのは

つまり、きみであり、ぼくなんだ・・・)

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一人

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死を見つめる

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ぼくはいつも死を見つめていた・・・

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日本の心

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桜だけじゃないと

つくづく思う。

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おやすみ・・・

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December 15, 2006

現実を忘れさせる笑いと現実を見せる笑い

今、お笑いブームらしい。

らしいというのも、

自分が、今、お笑い番組を

あまり見ていないからだ。

このブームの前のブーム(ボキャブラ天国の前後?)は、

仕事と直結していたので、よく見ていた。

若手芸人のライブにも行ったりした。

今は、ちっとも見ていないから、

事情はよくわからない。

どうやら、

優秀な奴らも出てきているようだ。

私の見解だが、

笑いには、2種類ある。

現実を忘れさせてくれる笑いと、

現実を見せてくれる笑い

ここのところの笑いに多いのは、

現実を忘れさせてくれる笑いなのではないか。

ただ、この残酷で理不尽で悲惨な世の中では、

現実を忘れさせてくれるこの笑いというものも

欠かせないものだろう。

でも、そういう世の中のみんなが見て見ぬふりを

しているものを、さらけ出すという笑いもある。

ぼくは、どっちかというとそっちが好き。

たとえば、

ツービート(つまり、ビートたけし)の

赤信号、みんなで渡れば怖くない」という

ギャグなんて、日本人の“付和雷同”さを

あぶり出した、まさに名作だと思う。

そんなことを考えていたら、朝日新聞のコラム記事

「浅草の灯よ その1 ビートたけし」に、

こんなことが出ていた。

フランス座を離れ、近くの松竹演芸場に移った後、

たけしはツービートとしてブレークした。世間の

常識にある、まやかしを過激な言葉で暴いた。

「インチキくさい、『暴力追放の町、

町をきれいにしましょう』なんていうのを

ちゃかしたんですよ」(ビートたけし談)

そういった部分が、映画監督となり

その作品が、ヨーロッパなどで「クール」と

評価されるようになったことにも

つながっているのではないかと、

ついつい結び付けたくなってしまう。

(私は、映画作品はまだちゃんと見たことはないが)

今、いじめによる自殺があちこちの学校で

起こっているが、つい最近までの文部科学省への

各学校(教育委員会?)からの報告では、

いじめ0、0、0、・・・ゼロの数字ばかりが

並んでいたというではないか。

まあ、そんな“まやかし”は世間じゃ当たり前で、

だいたい、また学校のことになってしまうが、

どこの学校も、今年の目標などの標語をたいていは、

「思いやりのある子」「うそをつかない」・・・

などとしているが、そういうのを見ていると、

無性に腹が立ってくる。

ほんとうは守る気がないに、体裁だけ整えるというのは

つまり、うそをついているということであり、

それを子どもに教えているのと同じことではないか。

だいたい、もっといじめが多いのは大人の世界

である。それが子どもに反映しているだけ。

それを棚上げにしておいて、子どものいじめだけを

問題にしているというのも、

意図的に見て見ぬふりをしているように

思えて仕方がない。

子どもがどんどん自殺し、

マスコミで騒がれるようになったからこそ、

子どものいじめを放っておけなくなったのだ。

それまでは、0という数字が示しているように、

見てみぬふりをしていた。

笑いから、だいぶ脱線してしまったが、

ようするに、みんなが見て見ぬふりをして、

いい気になっているものを、あぶりだす

しかも、ストレートに訴えると、

暗く聞くに堪えないことになるので、

笑い飛ばすことによって、

現実がいっそう見えやすくなる。

そんな大切な役目も“笑い”は担っている

ということを自覚してほしい。

ただ、観客や視聴者は

笑っていやな現実を忘れようというだけではなく、

そういう役目も

笑いを作り出す人たちに要求してもらいたいものだ。

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人類の意識を転換するために苦しみに身をゆだねる

多くの識者が語るように、地球や人類は大転換期を迎えている

ということをぼくは信じている。

ぼくが信じようが信じまいが、

少なくとも、地球という生命体は瀕死の重傷を負っている。

どうやら、このまま行けば人類は滅亡してしまうのではないかという

くらい、危い状態にあるというのは事実のようだ。

それなのに、われわれはまっ逆さまに転落の一途をたどってきた、

そして、もうすでに、デッドラインは目睫にせまっている、いや

超えてしまったのかもしれない。

(ジェームズ・ラブロック著『ガイアの復讐』参照)

人類はそこから抜け出せないのだろうか。

もう駄目なのだろうか。

やはり、識者の間で、言われているのが、

その人によって表現方法は異なるかもしれないが、

もうほとんど回復は難しいのではあるけれども、

残された道があるとすれば、

“意識の転換”ということである。

人類の、人間個々の意識を高めるということである。

残された唯一の道は、それしかないというのである。

(アーヴィン・ラズロ著『カオス・ポイント』参照)

別の表現をすれば、

もし生き残りたいなら、意識の転換の波に乗れ、ともいう。

その波に乗るとは、「愛」の意識をもつということであろうか、

「つながり」の意識を持つことであろうか。

「地球大」、「宇宙大」へと意識を広げることだろうか・・・。

どれも、意識的に行う場合、自分には難しいような気がする。

「1人1人の意識を高めなければ人類は滅びるのだ、

自分も滅びるのだ」ということを信じて、

そういった努力を持続するという自信はない。

明らかにそれをやった方が得であるという

他のことでも、長続きしないのだもの。

それに生き残るために、

あえて自分の意識を変えようとするなんて、

利己的な感じもする。

ただ、これだけはいえる。

われわれは、さまざまな苦しみを背負っている。

体の病、心の病、経済問題、家庭問題・・・、

その他、あらゆる、現代人が嘗めている苦しみ・・・。

それらがすべて、意識を転換している

―個人の、そして人類の意識を高めるために

役立っている、いやむしろ、そのために、それらの苦しみは

存在しているのではないかということだ。

そして、それらの現象が世界で起き、日本において特に

顕著に現れているというのは、日本人が鋭敏であるということの

現れではないだろうか。

鋭敏であるからこそ、そういった意識下からのメッセージを

キャッチしてしまう。

ニートしかり、引きこもりしかり、心の病しかり、

自殺しかり、ホームレスしかり・・・

それらの“苦しみ”こそが、すでに“意識の転換”をしているのであり、

“意識”を高めているのではないだろうか。

もしかしたら、人類が滅びずに新しい世界がきたとき、

今、何も感じないで生きている人よりも

今、そういったことで苦しんでいる人たちの感覚の

方が正しかったという時代がくるかもしれない。

だから、われわれができるのは、何も「意識を変えよう変えよう」と

もがくのではなく、その“苦しみに身をゆだねる”だけでいいのかもしれない。

そうすれば、自然に意識が転換され、高められ、

来るべき、新文明の住人になれるのではないだろうか。

当然、病なら病の治療に当たったり、

ニートならそこから脱出しようという

現実的な努力も大切。

ただ、その行動の一方で、

地球や人類に引き起こされている大潮流に、破壊の方じゃなくて、

次元を高める方向に、“意識をゆだねる”ということが

大切なのではないかと思うのだ。

もし、このわれわれの今現在の“苦しみ”に

ほんとうに、そういった意味があるのならば、

それに身をゆだねることは、

今、直面している“苦しみ”からの

解放につながる“王道”であるかもしれないのだ。

(※金、土のテーマ、

「ものを創る」、「表現する」とちょっとずれますが、

何を創る、表現するにも、

意識というものは大切であるということはいえます。

そして、来るべき世界への潮流にのって“表現する”、

一方で、旧時代のものを吐き出す、

その両方の表現、つまり“創造”と“破壊”、

いずれかの表現というものがきっとあるのです)

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December 14, 2006

武士道とは死ぬこととみつけたり

武士道とは死ぬこととみつけたり 『葉隠』

現代の日本人が武士道を語るとき、

戦争中、利用されたとして

一番、語りたくない言葉。

しかし、個人も国家も、一番認めたくない

痛いところを見つめ、認めてこそ、真の成長ができる

ぼくは、新渡戸稲造の『武士道』も素晴らしいが

『葉隠』のこの言葉を抜かしては、武士道は語れない。

と思っている。

宮本武蔵も『五輪書』にこう書いている。

武士は只死ぬるという道を嗜む事と覚ゆるほどの儀也

死ぬるという道を嗜む」、すなわち、

日頃から、いかに死をいさぎよくするかということを心掛ける

ということが、武士どころか、僧はもちろん、

女性、百姓、・・・あらゆる人にとって

大切なことであると『五輪書』に書いているのである。

みんな誤解しているが、

一見、「死を恐れてはいけない」といって

「死を強いる」ことと、

自らの内側で「死を恐れない」のとは

まるっきり違うということだ。

人間にとって一番恐ろしい死を恐れなくなってこそ、

現世において何者にも束縛されない

真の“自由”を得られる。

その自由を得るために、武士たちは、

剣術や禅、儒教などで自らを修養した。

現代の日本人にとって、もっとも必要なのは

この“心の自由”だと思う。

現代において、自殺するほとんどの人は、

これと全く反対の心理状態だろう。

死が怖く、死に目をつぶりながらも、

それしかなくて死んでいく。

追い詰められて自殺する人の視野は極度に

狭くなってしまっている。

(仕方なくそうなってしまったのだろう・・・)

しかし、

“死への執着”から解き放たれた人の視野-心は

世界に向かって全面的に開放されている

われわれ、戦後の日本人は、

武士道とは死ぬこととみつけたり

から目をそらし、

わざと見ないようにしてきたからこそ、

おかしくなってしまったのではないか。

つまり、われわれは“死”を隠し過ぎてしまったのだ。

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流し目

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他人から評価されなくてもタマはタマだ

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おんどりゃ~!このくそったれが・・・

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ひとから評価されずに生きてどこが悪いんじゃ!

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ひとから評価されなくても俺は俺なんじゃ!

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放っとけ!

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光浴びて

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December 13, 2006

他人の目を気にし過ぎる性格が喘息を悪化させた?

今、心の問題に一番、興味をもっています。

だから、ブログの記事もどうもそっちに行ってしまいます・・・

※私の関心というものは、次から次へと変わっていき、

周してまた元に戻ってくるというような傾向があるのですが。

※今回も、その方向で、「自分を知る」についての記事です。

心に関心がいっているというのも、

ガンの取材や本を通して、

生活習慣なども大きな原因となるのですが、

それ以上に、心の問題が大きいということを

知って、自分の病も、同じなのではないかと

思ったからです。

そうして、自分や周囲の人と照らし合わせて、

それなりに研究(勉強・分析)をしていくと、

いかに、自分が心にも問題を抱えているかが

わかってきました。

それを肉体の病と短絡的に結びつけてしまうのは

まだ捷径ですが、自分の中や過去に問題があると

いうのは確かなことです。

たとえば、病の根本的な原因というわけではない

のですが、私が34年間、薬を使わずに

喘息などの自宅療養をしていて、一番、つらかったのは、

世間の対応でした。

なぜ休むんだ、なぜ約束ができないのだ、

薬を使って症状を抑えればいいじゃないかとなる。

そんな理由で、仕事をしないなんてけしからんと。

当然、経済的にも苦しくなっていく。

だから、再び薬を使い始めた・・・ということは

確かにあります。

しかし、ほんの少しばかりですが、

自分を見つめながら勉強をしてみると、

世間の対応というものを気にしすぎる自分というものが

いることに気づいたのです。

年中、浪人のようにうちにいることを

近所はどう思うだろう。

他の難病もあるのだけれど、

世間の人は、喘息くらいでと思っていないか。

働き盛りがろくに働きもせず、何をやっているんだ

とみんな非難しているだろう・・・。

確かに親戚からも直接に非難されたこともあるし、

事実、そう思われても仕方がないとは思いますし、

私の事情を知っている人で、しょうがない奴だと

思っている人もいるでしょう。

それはそれで、その人は世間的な見方からすれば

間違ってはいないとも思います。

つまり、そこで、一番問題なのは、

そういう周囲の目というもの対して

自分が過剰に反応しすぎることなのです。

そして、非難されたことはあっても数少ないのに、

勝手に、「あの人もそうじゃないのか」

「この人もそう思っているのではないか」

とどんどん膨らませていって、

ますます自分を圧迫してしまっているのではないか

ということなのです。

そして何よりいけないのは、

そういう心の問題がストレスとなって

病の治るのを遅らせてしまったということなのです。

私が、薬を使わない治療を始めたのも、

「すべての病は浄化作用である」という信念が

あったからです。

つまり、病はどんなものでも、

体内の毒素(それは体だけでなく、心や魂も含まれる)

を出す作用であるということが真理であることを

確かめたかったのです。

それなのに、病によって悪いものをどんどん外に出していても、

つぎからつぎへと、心の問題に起因するストレスによって

病の原因となる毒素をためるような

悪循環に陥ってしまいました

そうなると、治るものも治らず、どんどん長引かせてしまいます。

しかし、そういった他人や世間を気にしすぎてしまう心というのは、

なくそうと思ってすぐになくせるものではありません

なぜならば、もっと心の深いところや自分の生い立ちに

原因があるからです。

そういうことも知りました。

少しずつですが、人間の心理について、

つまり自分について、

かじればかじるほど、さらに探りたくなる。

それが、今、心の問題に関心がいっている理由です。

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December 12, 2006

ほんとうにやさしい人

 

 やさしくしよう、しようと思ってやさしくしている人は、

にせもの。

 ふっと息を抜いたとき、その人がどんな人であるか・・・。

 やさしい人なのか。冷たい人なのか。

 その人の本性が現れる。

 

いったい自分はどうなんだろう。

気を抜いているときは、自分の姿はわからないものだ。

 

おそらく、少なくともすごく冷たい時があるだろう。

 なぜなら、やさしくしようしようとしなければ、

ほとんどやさしくすることのない日常を自分が送っている

ような気がするから。

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燃える燃える

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燃える燃える

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燃える燃える

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燃える燃える。

言っておくけど、

“燃える燃える”は

“萌え萌え”じゃない。

“もえるもえる”は

燃える燃えるのこと。

燃える燃える

燃える燃える

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「私はできる」に単純にのるな!

 

 「私はできる」という言葉は、力がある言葉であるだけに、

 時に間違って使われる。

 

私がやればできるんだけど、私がやらないでいいことにまで手を出す。

私がやるべきでないことにまで、

私はやればできるんだと自分に言い聞かせてやる人がなんて多いことか。

「私はできる」というのは自分を励ます言葉だけど、

間違った方向へと後押しするのはいただけない。

励ますなら、正しい方向へと励ますべきだ。

ずるい人が、「おまえはそれをできる」と

自分の都合のいい方向へと相手を誘導するのと同じである。

 

 「私はできる」といって自分自身をだましてはならない。

 自分自身を間違った方向へと誘導してはならない。

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自分の本性とは自然の一部です。

 

 

 自分の本性に従って生きることは、“自然”です。

 背伸びせず、無理をせず・・

こうして、一番、身近な“自然”を大切にしましょう。

実は、それはただの“へりくつ”じゃなくて、

環境問題とも密接に関わりあっているのです。

なぜなら、みんながみんな、

自分というものに“足る”を知らないからこそ、

無限の欲求に身を任せ、地球を破壊しているのですから。

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December 11, 2006

イチョウの落葉のじゅうたん

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黄色くあざやかに敷き詰められた

イチョウの落葉のじゅうたんを歩いた。

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きれいだね、と大人が声をかけるそばから

くさい、くさいと逃げる子どもたち・・・。

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かくして、落葉の中のぎんなんは

踏み潰されずに、

その身を保った・・・。

でも、いずれはぎんなん拾いの

おばちゃんの手にかかって、

どこかのお宅の茶碗蒸しに、

顔を出すだろう・・・。

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自意識過剰は自己不在?

(今回は心の健康ということで・・・)

本日、ニッポン放送のラジオ人生相談で

パーソナリティーの心理学者、加藤諦三氏は、

「自意識過剰な人は自己不在の人です」としめの

言葉を述べられていた。

実はぼくも自分自身が自意識過剰ではないかと

思えてしまう場面がたびたびある。

たとえば、飲み会の席で近くの人が誰かに

ビールをついでいるとき、自分にはついでくれるか

どうかというのが気になってしかたがない。

馬鹿馬鹿しいことだ、気にすまいと思えば

思うほど、気になってしまう。

それで、自分のコップについでくれれば、一安心。

ついでくれなければ、どうしてだ、自分のことを

嫌っているのではないか、自分を軽く見ているの

ではないかなどと、あれこれ考えてしまう。

ビールをもうこれ以上いらなくて、断るときでも、

一応、相手がつぐかどうかを聞いてくれないと

気がおさまらない。心の中で過剰に反応してしまう。

そんな風だから、人のコップが空いているのも

気になってしまい、すぐに気がつく。

気がつくだけならいいのだが、

つぐべきか、つがぬべきか迷ってしまう。

なぜならば、自分が相手にビールをついであげて、

相手がそのお返しでビールをついでくれなかったら

どうしようと考えてしまうからだ。

つぐべきか、つがぬべきかで神経をすり減らしてしまう。

だから、楽しいはずの酒を飲む場が、楽しいはずはない。

このように、ちょっと、強調し過ぎたかもしれないけど、

自分は「自意識過剰」なところがある。

他人と共にいて、気が休まらないことが多い。

こうした酒の席での「自意識過剰ぶり」を振り返って見ると、

確かに、「自分がない」行動と態度である。

「自意識過剰な人は自己不在の人」という言葉には

とても、うなづける。

加藤氏は今日のラジオ人生相談の中で

相談者に対して、こんな感じでアドバイスをしていた。

あなたは自分がないから自意識過剰である。

自分がないから欲望が肥大化した。

常に相手がいなくて、自分だけが大切である。。

あなたが大切なのは奥さんでも、娘さんでもなくて、

昔からずっと、あなた自身だけが大切だったのだ。

もう、自分にうそをつくのはやめることだ。

『私の大切なのは私だけです』ということを認める。

それを認めてこそ、他の人を大切にする気持ちも出てくる・・・

今、ぼく自身ももつれにもつれた心の糸を

少しずつほぐし始めている。

ぼくは、けっこう複雑な、

ちょっと珍しい家庭環境で育った。

その直接の影響は30代半ばまであった。

あらためて、学んでいくと、その環境下で

心に影響を与えられないはずはないだろう

ということもわかってきた。

まだまだ、もつれた心の糸は大きい。

ほんのちょっぴり、ほどけただけ。

死ぬまでにどこまでほぐすことができるだろうか。

それを、完全とまではいわないが、

ほぐすことができなければ、

恐らく真の健康も、ほんとうの自分の仕事も

ないだろうとは、最近とみに考えている。

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December 09, 2006

誰もが初めから“オンリー1”

オンリー1(ワン)という言葉があります

この言葉の世間への登場は、

それまでは、みんながみんなベスト1を目指していたのが

そういう道もあるのだという

ことを知ったという意味でも、

素晴らしいことであったと思います。

ただ、最近、懸念されるのは、

この言葉の中に

「オンリー1になることによって勝とう」

という意味が含まれていることが多いの

ではないかということです。

ビジネス至上社会の中で都合のいい

解釈をされていることが多々あると思うのです。

そもそも、人間は生れ落ちたときから

すべての人がオンリー1の存在なのです。

顔も違えば、肌の色も違う、手足の長さ、

身体能力、・・・すべてが違う。

外形がそうですから、内面にいたっては

性格、好み、経験によって蓄積されたこと・・・

ぜんぜん違うのです。

だから「オンリー1になる」という言葉自体、

おかしい。

オンリー1になろうとしなくても、

あなたは今のままで「オンリー1」なのです。

ただ、そのオンリー1を輝かせているかどうか

ということはあるわけです。

オンリー1である自分という存在を

生かしているかどうかとも言い換えることができるでしょう。

それには、誠実に生きるということが一番いいのではないでしょうか。

自他に誠実に生きる・・・。

自分というものは、内面的にも外面的にも

かけがえのない個性をもったオンリー1の存在である。

その自分に、自分の心や魂のあるがままを素直に受け入れて

誠実に生きる。

そこには、自分というオンリー1によって誰かに勝ち、

他の人よりも儲けようなんて心はないわけです。

そして、他に対して誠実に生きる・・・

つまり、他人である“オンリー1”を生かしてあげる

輝かせてあげることが、自分のオンリー1を輝かせる

一番いい方法なのです。

なぜならば、自分と他人とは必ず違うわけですから、

他人がオンリー1としてひときわ

輝くということは、

自分との差異がますます生じてくる

ということなのですから。

そうすると、自分という別の個性もそれだけ引き立つわけです。

あくまでもオンリー1というのは、

他人の中で、

他の人と比較した結果の違い‐オンリー1なわけです。

誰もいないところでオンリー1なんてありえない、

意味がないわけですから。

しかし相対として、比較の中でこそ価値のあるものでも、

その人間からすると、ただ自分に誠実に生きれば、

結果として、もともとのオンリー1の存在が

輝いていくわけで、比較なんてまったく必要なく、

むしろ比較することはその人のもともとの良さを

傷つけることにもつながるから

してはならないことであるわけです。

だから、ごくあたりまえな結論になるのですが

自分がオンリー1の存在としてよりいっそう

輝きたいならば、

自分を愛し、他人を愛する、

自分に誠実に生き、他人にも誠実に生きる

ということになるのだと思います。

とりあえず、まずは、

「自分は今のままで、もうすでに

オンリー1の存在なんだ」ということを

受け入れることから始めたいものです。

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もう他人のふんどしで相撲を取りたくねえ!

※以下、12月3日「燃え尽きた・・・」における

朗読者であり役者の弥々さん(「とはず語り」)への

返信コメントの続きをこちらに記入させて頂きました。

(金)(土)のテーマに合った内容であり、いずれ

書きたいと思っていたことでもあるので・・・。

                                                                                    

アイドルのラジオの台本を書いていたときなど
「もう他人のふんどしで相撲をとりたくねえ!」
と憤慨してたのですが、やっぱりそれは
心の奥底からの切実なる叫びだったようです。

ラジオから本(出版)に土俵を変えて、
性懲りもなく今度は「医者のふんどしを借りて」
ここのところ休む間もなく、
相撲をとり続けてたのですが、
持病の喘息に加えて、
あろうことか肺炎になっちまいました。
もちろん原因はそればかりではないでしょうが・・・。


(独白)そりゃあ、「かわいいアイドルのふんどし」がいやだったら「医者のふんどし」がいやになるに決まっているわな・・・

かといって、自分のふんどしで相撲を取ろうとしたら
「自分のふんどし」がどこにもないではありませんか。

つまりスッポンポン・・・、

幼児の頃から壮年にいたる、
いつかどこかでふんどしを置き忘れてしまった・・・
そのことに気づいたのです。


敬愛なる、自分のふんどしで正々堂々と相撲を取っている朗読者の弥々さんへ。

スッポンポンだからネット上をサーフィンすることもままならずにいる物書きのモモタロウ(百太郎)より



(追伸ちょっと下品な話になってしまってごめんなさい。
ただ、「もう他人のふんどしで相撲を取りたくない」という言葉が
標語のように、胸に刻み込まれているのです。なかなか守れないのですが)

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December 07, 2006

大勢でいても淋しくない人間になれ

頭山満がいう

「一人でいても淋しくない人間」になる

ということは、

「大勢でいても淋しくない人間」になる

ということなんだろうな・・・。

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誰もが“一人でいても淋しくない人間”になれる

                                                               

頭山満(1855-1944)の

「一人でいても淋しくない人間になれ」

という言葉が、解釈はどうあれ、

それを読む多くの人の心を励ますのは、

「誰もが“一人でいても淋しくない人間”

になろうとすればなれる」

ということを教えてくれるからである。

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“愛”という言葉はおもすぎる

20061205_021_1 

「愛をかける」という言葉は僕にはおもすぎる・・・

だから、ちょっとだけ微笑むことから始めよう。

                                                momotarou & momoichirou

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December 04, 2006

子どもの喘息、薬を飲む前にやること

今の季節、子どもの喘息で悩んでいる

親御さんは大勢いるでしょう。

特に、夜に発作が起きる、ひどくなるという人が

多いと思います。

それは、夜は自律神経が副交感神経優位の状態

となるからですよね。

                                                                                                    

発作が起きても、ほんとうにお医者さんから出された

薬をこんなに頻繁に飲ませちゃっていいの?

という疑問をもつ、お母さんもいるでしょう。

また、救急車を呼ばなければならない状態まで

発作がひどくなる子もいるでしょう。

そういう人に、おすすめなのは、

                                                      

              

まず、部屋の窓を開けてみることです。

ほんの1分や2分だけでなく、

部屋全体の空気が入れ替わるまで、

しばらく空けてみてください。

ちゃんと、特に子どもやご自分の体、

特に、下半身を冷やさないような状態に

して、換気をしてください。

                                                                                      

うちの子、モモイチロウ(現在4歳)で

実証しているのですが、かなり効果があります。

もしかしたら、飲ませたくない薬を飲ませないですむかもしれませんし、

発作は止まらなくても救急車で運ぶほどの、発作には

ならないですむかもしれない。

これがなぜ効果があるのか、可能性があるのかというと

窓を開け放つことによって、室内の気温が下降し、

冷たい外気を呼吸することによって、

自律神経の針が副交感神経に傾いていたのを

交感神経の方にふらせるからなのです。

これは安保徹教授(新潟大学大学院教授)の本などを

参考に実践してみて、その効果に気づいたものです。

                                                                                        

もし、それをやってみて

だめだったら、薬を飲ませたりすればいいじゃないですか。

ただ、完全に発作が止まってしまうということは

期待しない方がいいです。

ほんの少しでも、発作が楽になればいいという感覚でやってね。

その「ほんの少し」が、できるだけ飲ませたくない強い薬を使わずに

すんだり、量を減らすことができたり、ときには、

救急車で病院で運ばれずに済むきっかけに

なったりしたら、発作が止まっていなくても

実に「大きい効果があった」ということにもなるのです。

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風の子。

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風になびく袋とモモナ、モモイチロウ・・・。

(小さすぎて、ちょっとわかりずらい?)

実は、お尻にビニール袋をしいて、

斜面をソリのように、滑ろうとしているところです。

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December 03, 2006

水にうつる景色

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燃え尽きた・・・

11月初旬に肺炎になってから、現在まだ咳が残っているけれど肺炎自体はだいぶ回復したようだ。でも、どうも体の具合がかんばしくない。精神的にも落ち込みぎみである・・・

今からちょうど5年前の2001121日から、病を根本から治そうと、喘息の薬も、多発性のう胞腎を悪化させないための降圧剤、コレステロールを下げる薬などをすべて自分の判断で使うのをやめて、自宅療養生活に入った。

特に喘息の薬の使用をやめれば、発作のため仕事ができなくなるのはわかっていたから、仕事はすべて休業してしまった。

その頃、実際、疲れきっていた。2年前の1999年に、父と母をほぼ同時に失い、親戚ともめて、所属していた事務所もやめた。それから、慣れないこともしながら、フリーでやってきた。そのために精神的肉体的に疲れきってしまったと思っていた。

でも、今思えば、その数年間だけの問題ではなく、社会に出た、十数年前から、いや20年も30年も前からためてきたものがあるために、“燃え尽きて”しまったのではないか。企業に勤めている人がよくなる「燃え尽き症候群」に限りなく近い状態にあったと思うのである。

つまり、他の人から見れば、クリエイティブな仕事であるから「自己実現」してそうに見えるのかもしれないが、実はそうではなかったのではないかということなのだ。

プロフィールにのせたようにぼくのやってきた仕事というのは幅が広い。その中にはもちろん自分で面白いというものもあったのだが、かなり無理をしてやってきた。自分の適応不適応を考えずに、すべてのことにエネルギーをそそいできた。

つまり、自分がないのだ。自分というものをわかっていないのだ。そのために、何でも同じようにエネルギーをかけてやる。そして、足元をちゃんと見ていないから現実から乖離した遠大で、むこうみずな理想をかかげ、それに向かって無理を重ねる。でも現実的でないから中途で挫折をする。その繰り返し。

もともと持病があるし、負担をかけたのは「肉体」と思っていたのだが、それ以上に「精神‐心」に無理を重ねてきていたのだ。

そんなことに気づいたのは、実は、先月、肺炎になって一番苦しんでいたときである。さらに、自宅療養後から現在に至るまでも、結局は、以前と同じ轡(くつわ)を踏んでいるのではないかという懸念が頭に浮かんできて離れなかった。そして、怒りや憎しみ、・・・そういったマイナスの感情がドロドロとマグマのように噴出してきた。

おそらく、それは現在でも、ちゃんとした自分というものがないからであろう。己というものを把握していない。心の中に認めたくない部分をしっかり見つめておらず、自己の現実というものを受け止めていない部分があるのだ。

病のことであれほど苦しんだ後でも、同じ轡を踏んでいるのではないかと気づいたときは、ショックだった。自分はそんなに阿呆なのか・・・。やはり阿呆なんだろう。

その根本をクリアしなければ、きっと同じことの繰り返しになる。病も治せないかもしれない。そして、自分の子どもにも影響する。たとえ時間がかかってでも一歩一歩改善していかねばならない、避けて通れない道であるという気がしてならない。

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December 02, 2006

病は不自信の処に在り。

「随処に主となれ」を『臨済録』から探そうと開いたら、たまたま栞が入っていたページが、今、私の問題を解決するとまでは行かなくても、大きなヒントとなるようなことが出ていた。

山僧が人に指示する処の如きは、祇(た)だ你(なんじ)が人惑(にんわく)を受けざらんことを要す。用いんと要せば便ち用いよ。更に遅疑(ちぎ)すること莫れ。如今(いま)の学者の得ざるは、病甚(やまいなん)の処にか在る。病は不自信の処に在り。你若し自信不及(じしんふぎゅう)ならば、即便(すなわ)ち忙忙地(ぼうぼうじ)に一切の境に徇(したが)って転じ、他(か)の万境に回換(えかん)せられて、自由を得ず。你(なんじ)若し能く念念馳求(ちぐ)の心を歇得(けっとく)せば、便ち祖仏と別ならず。

―【訳文】今わしが君たちに言い含めたいことは、ただ他人の言葉に惑わされるなということだけだ。自力でやろうと思ったら、すぐやることだ。決してためらうな。このごろの修行者たちが駄目なのは、その病因はどこにあるか。病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。

病因は自らを信じきれぬ点にあるのだ。もし自らを信じきれぬと、あたふたとあらゆる現象についてまわり、すべての外的条件に翻弄されて自由になれない。

これは前の記事、『それじゃ、おまえはなんなんだ?』、『世の中のためになることを表現するということ』、その他の底流にある、現在の私が気づいた、自分が小さい頃から抱えている問題に他ならないのではないか。つまり、簡潔にいえば「自信がない」のである。「自らを信じきっていない」のである。だから、根底において、人を信じられない。

錯(あやま)ること莫れ、諸禅徳。此の時遇(あ)わずんば、万劫千生、三界(さんがい)に輪廻(りんね)し、好境に徇(したが)って掇(てっ)し去って、驢牛(ろご)の肚裏(ずり)に生ぜん。道流、山僧が見処に約せば、釈迦と別ならず。今日多般の用処(ゆうしょ)、什麼(なに)をか欠少(かんしょう)す。六道の神光(じんこう)、未だ嘗つて間歇(かんけつ)せず。若し能く是(かく)の如く見得せば、祇(た)だ是れ一生無事の人なり。

―【訳文】取り違えてはならぬぞ、皆の衆。今ここで仕留めなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻し、好ましい条件の引き廻すままになって、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。君たち、わしの見地からすれば、この自己は釈迦と別ではない。現在のこのさまざまなはたらきに何の欠けているものがあろう。この六根から働き出る輝きは、かつてとぎれたことはないのだ。もし、このように見て取ることができれば、これこそ一生大安楽の人である。

 私は、こうしたことに、大学時代に気づきかけた。それなのに、ちゃんと解決しなかったがゆえ、それから20年以上も経ってそのままでいるといっても過言ではない。

今ここで仕留めなかったら、永遠に迷いの世界に輪廻し、好ましい条件の引き廻すままになって、驢馬や牛の腹に宿ることになるだろう。

 私が大学時代に仕留めなかったから20年間以上ずるずると来てしまったように、「今ここで仕留めなかったら」、今から20年後、60代という高齢者の年代へとずるずると持ち越し、それどころか墓場までもっていき、まさに「永遠に迷いの世界に輪廻」することになるかもしれない。

驢馬や牛の腹に宿る」とは自己流の解釈をすれば、「ロバや牛のように人に使われる身になる」ということではないか。それは誰かの下で働くとかそういう形だけの問題ではなく、いつでも自分が心の中で自分の主人公でなく、何者かの使役人のような状態ということではなかろうか。組織の下部で働いていても、主体的に生きている人はいくらでもいるだろう。少し飛躍しているかもしれないが映画『釣りバカ日誌』のハマちゃんなんか、会社ではちっとも出世しないけれども、主体的に生きている典型といえるのではないか。彼にはなみなみならぬ“自信”がある。がゆえに、後進からどんどん追い越されても嫉妬しない。

もし君たちが外に向かって求めまわる心を断ち切ることができたなら、そのまま祖仏と同じである。」(注-祖仏とは「われわれの父祖である仏」の意)

この自己は釈迦と別ではない。

つまり、これは、われわれというのは、ただ今の段階でも、その存在は、釈迦であり、仏であり、神であるということではないのか。そこまで自己を肯定しきってこそ、「祇(た)だ是れ一生無事の人」となれるのだろう。

※参考文献 入矢義高訳注『臨済録』(岩波文庫)

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December 01, 2006

世の中のためになることを表現するということ

世の中のためになることを書こうと

テレビやラジオ、放送の世界に入った。

その中で、自分なりに必死にしがみつき

10数年経ち、

あらためて自分が書ける世の中のために

なることとは、なんだ。

放送と限らず、出版でも形はなんでもいい、

自分にとって一番大切な、

志の根幹はなんなんだ

と見つめなおしたとき、

はたと考え込んでしまった。

わからないのである。

自分が書ける世の中のためになることとは、

結局、自分がこれこそは世の中のために

なることだと“信じられる”ことだ、

世の中のためになると信じることを

書くことだ

というところまでは

たどりついたのだが、

その“信じられる”“信じる”対象がわからない。

いまだ、はっきりと答えは見出せていないのだが、

ただ、今現在思うのは、

何かを書いたり表現するとき、

世の中のためにということがあったとしても

その前に、自分がそれを描きたいとか、

こだわっているとか、○○が嫌いだとか

自分というものが、明快になければできるもの

ではない、つくれるものではないということだ。

たとえば、ある作家が、いじめについて作品を

書きたい、それによって少しでも、

いじめで苦しんでいる人の役に立ちたい

という場合、必ず、そこにはそれを選んだ

自分というものがいるはずだ。

誰かにそれを書くことをすすめられただけで、

自分はまったく関心がない、

また、社会的な大問題になっているから

選んだのだというだけでは、

作品というものは描けないはずだ。

もし書けたとしても、それは、

その作者の魂というものがない、

無味乾燥なただの文字とか映像、情報・・・

になってしまうだろう。

自分とは魂の奥深くで、

自分を超えた大いなる存在とつながっている

ものだとしても、その己というものの

魂から発したものでなければ、

その人が描いた作品の

存在意義は薄くなってしまうのだ。

『臨済録』にある「随処に主となれ」とは

表現やものを創る者にとっては、

よりいっそう絶対に欠かせない

ものであるという気がしてならない。

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仲良し

テレビをみているときも・・・

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寝ているときも・・・

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仲良しです。

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