« 仲良し | Main | 病は不自信の処に在り。 »

December 01, 2006

世の中のためになることを表現するということ

世の中のためになることを書こうと

テレビやラジオ、放送の世界に入った。

その中で、自分なりに必死にしがみつき

10数年経ち、

あらためて自分が書ける世の中のために

なることとは、なんだ。

放送と限らず、出版でも形はなんでもいい、

自分にとって一番大切な、

志の根幹はなんなんだ

と見つめなおしたとき、

はたと考え込んでしまった。

わからないのである。

自分が書ける世の中のためになることとは、

結局、自分がこれこそは世の中のために

なることだと“信じられる”ことだ、

世の中のためになると信じることを

書くことだ

というところまでは

たどりついたのだが、

その“信じられる”“信じる”対象がわからない。

いまだ、はっきりと答えは見出せていないのだが、

ただ、今現在思うのは、

何かを書いたり表現するとき、

世の中のためにということがあったとしても

その前に、自分がそれを描きたいとか、

こだわっているとか、○○が嫌いだとか

自分というものが、明快になければできるもの

ではない、つくれるものではないということだ。

たとえば、ある作家が、いじめについて作品を

書きたい、それによって少しでも、

いじめで苦しんでいる人の役に立ちたい

という場合、必ず、そこにはそれを選んだ

自分というものがいるはずだ。

誰かにそれを書くことをすすめられただけで、

自分はまったく関心がない、

また、社会的な大問題になっているから

選んだのだというだけでは、

作品というものは描けないはずだ。

もし書けたとしても、それは、

その作者の魂というものがない、

無味乾燥なただの文字とか映像、情報・・・

になってしまうだろう。

自分とは魂の奥深くで、

自分を超えた大いなる存在とつながっている

ものだとしても、その己というものの

魂から発したものでなければ、

その人が描いた作品の

存在意義は薄くなってしまうのだ。

『臨済録』にある「随処に主となれ」とは

表現やものを創る者にとっては、

よりいっそう絶対に欠かせない

ものであるという気がしてならない。

|

« 仲良し | Main | 病は不自信の処に在り。 »

Comments

Post a comment



(Not displayed with comment.)


Comments are moderated, and will not appear on this weblog until the author has approved them.



« 仲良し | Main | 病は不自信の処に在り。 »