健康でなくても立派な仕事はできる
ヒルティ著『眠られぬ夜のために 第一部』から一節をご紹介します。これは例によって自分への言い聞かせでもあります。(小見出し、傍線等-もちろん解説も、小生が加えました)
健康でなければ立派な仕事ができないというわけではない
われわれは完全に健康でなければ、立派な仕事はできない、だからなによりもまず、健康でなければならぬ、という見解を信じ込んではいけない。これは今日、多くの良い人々の迷信となっている。ひと昔前には、ある種の病弱を天才のしるしと見なし、頑丈な健康をかえって「凡庸」のせいだと考えたが、現代では、逆に肉体のことをあまりに気にしすぎる。
これからすると、健康が完全に回復してから仕事をするという考え方にとらわれるべきではないということでもある。むしろ、昔のヨーロッパ人は、自分が病弱であるということを“天才の印”とでも思って、誇りに思っていた人もいるということだろうか。
これを書いていて、今、ドイツの詩人であり、劇作家のシラーを思い出した。彼は、親友ゲーテのように頑丈な体を持ち合わせておらず病弱であったが、健全な、そして偉大なると呼んでもいいだろう“精神”を内に蔵していた。それは、彼の作であるベートーヴェン作曲「交響曲第9番《合唱》」の詞を思い出せばわかるだろう。
確かに、病は健康なときに得られない“何か”を得させてくれる。凡庸な人間が自分の凡庸に何らかのプラスアルファを加えてもらえるかもしれない絶好のチャンスでもあるのだ。
だからといって、病弱でなにかをすれば健康に近づける人間がなにもしないで放っておいていいということにはならない。また、健康な人間が健康管理を怠っていいということではもちろんない。神から与えられた肉体をメンテナンスするのは人間の義務である。
それに、現段階で病を治さなければ仕事も何もできないという人が世の中に大勢いることは確か。また、とにかく今は治すことに専念してその後に仕事をがんばるという人もいるであろう。それはしごく自然なことである。
つまり、この一節では「病を気にしすぎない」ということがポイントなのではないだろうか。
健康を守るために生きるのは空しい
病弱はすこしも善い事を行う妨げとはならない。これまで最も偉大な仕事をなしとげたのは、むしろ病弱者であった。それに、完全な健康をもっていると、必ずとはいわないが、精神的感受性の繊細を欠くようになることが実際少なくない。あなたが健康にめぐまれているなら、神に感謝しなさい。しかし健康でなくても、そのことにできるだけ心を労せず、また妨げられないようにしなさい。たんに「健康を守るためにのみ生きる」という考え方は、教養ある人にふさわしくないものだと思うがよい。
この「健康を守るためにのみ生きる」という考え方は、昨今の“健康ブーム”の中で、特に、不定愁訴がある人や過度に病になることを心配している人は、陥りやすいものであろう。主だった病気はないのに、さまざまなサプリメントや健康食品をたくさん常用していたり、さまざまな健康法を次から次へと漂流して行ったり、そういう人も現在の日本においてかなりいるようだ。私自身も省みると、病があることも手伝って、こうした傾向がある。戒めていきたい。
健康や病について自分の体で研究し、いずれは誰かのために役立ちたいというならばいいだろう。また、健康を必死に守ることで自分の職業を立派に遂行するということであれば素晴らしいことである。サンプラザ中野さんがそれに近いようだが、それを趣味と割り切って、趣味と実益をかねてやる人はそれでいいだろう。
健康を意識しすぎた結果、健康ブームや健康ビジネスにのせられて、その渦の中に巻き込まれてしまっている人が、どうもいただけない。
つまり人は「健康を守る」ために生きるのではなく「その人に与えられた使命を行う」ためにこの世で生きているということなのだ。
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Comments
思うがままに行きたいだけ・・・
そう出来たら、たとえ短命であってもと・・・
だから、病はおそれない
恐れるのは、病である為に、思いのままに生きられなくなること・・・
最後は精神、気力!魂を失わないように、しっかり生きたいと思いまする
Posted by: 弥々 | January 04, 2007 05:53 PM