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March 25, 2007

何をしないか?

今後の自分の人生においては、

「何をするか」より「何をしないか」に重点を

おくべきであるかもしれない。

主張する、いいことをする、新しいことを始める・・・。

「何かをする」ことは、

意外にたやすいことではないだろうか。

ただ、それをし続けることが難しい。

そして「何かをし続ける」には、

その裏に、必ず「何かをしない」がある。

なぜならば、1日は24時間しかなく、

人生は有限であり、あれもこれもできない。

つまり「何かをする」ことは

「何かを捨てる」ことなのだ。

経済学者ケインズは、「我が若き日の信念」の中で、

我々にとってhow to do good(いかに善を為すか)よりも

how to be good(いかに善であるか)の

方が大切だといっている(安岡正篤『百朝集』より)。

また『アミエルの日記』にも、

「人間の真価を直接に表すものは、

その人の所持するものではなく、

その人の為すことでもなく、

唯その人が有る所のものである」(同じく『百朝集』より)

とある。

ぼくは「何かをする」よりも「何かをしない」方が、

よりhow to be good―その人が有る所のものに

近いポジションにあるような気がするのだ。

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苦言2

ぼくは一般大衆を信じない。

なぜならば、このような政治や企業、

テレビにしても新聞にしてもこのような文化、

・・・等を作ったのは一般大衆に他ならないから。

国や国民の行く末に対して、

何の責任も持たない者たちが、

めいめい勝手なことを主張して、

漂流したあげく、たどり着いたところが、

今の日本なのだ。

なぜ、自分が、そんな

“とんでもない”一般大衆を

喜ばせなくてはいけないんだ。

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苦言1

多くの人が、他人を批判するのは、

自己を正当化するためである。

また、多くの人が、他人を褒めるのは、

自己を正当化するために他ならない。

自己を正当化するために、他人を批判する。

自己を正当化するために、他人を褒める。

これが、小市民(昔の言葉で小人―しょうじんと

いった方がいいかもしれない)の特徴であり、

現代日本における大マスメディアと政党の

現実の姿である。

そしてこうしたことが、臆面もなく、

ぬけとぬけと行われていることに対して

何の怒りも疑問ももたれていないところに、

いかに日本がだめになったかがわかる。

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March 21, 2007

自分の言葉

ぼくたちは今日死ぬかもしれないし、

明日死ぬかもしれない。

だからこそ、拙くて浅はかで、後で見たら

恥ずかしいと思うようなことしか書けなくても

自分の言葉で表すのが大切です。

誰か偉い人がこう言っていたとか、

どこかに書かれていたというだけではなく、

自分の心を通して言葉を表すべきです。

ただ既存の言葉を、たとえそれがいかに

偉大なものであっても、右から左へと

仲介するだけでは、ぼくたちが生きている

意味がありません。

その人が生きるとは、生まれるまえは

この世界になかった何かを附加して

死んで行くことです。

だからこそ、ぼくは自分の言葉で語りたい。

自分の言葉を深めたい。

                                                                                           

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March 17, 2007

ひとりごと~人生の三本柱

ぼくは大学を出て、社会人になるとき、

     人格の向上

     技術・知識の向上

◆この2つによって、世の中のためになる。

という大方針を立て、それを自分なりに追い続けてきた。

それからおよそ20年経過し、

不惑の40を数年超えた今、

あらためて自分の生き方について整理していたら、

上の大方針が具体化され、収斂された形で

以下の3本柱に行き着いた。

     人格・思想の向上・創造(※人間が高まれば、思想も磨かれる)

     健康・医療

     dorama(脚本・戯曲・小説等)を中心にした物を書くこと

これらの修練を積み、磨いていくことによって、

世の中のため人のため、理想世界を創るために

死ぬまでには、なんとしてもほんのわずかでも

お役に立たせていただきたいというのが

私の強い“祈り”です。

考えてみたら、練りに練って作った

(今は休んでいますが)

このブログの方針(↑)とまったく同じことである。

     人間を高めるキビダンゴ!

     健康のキビダンゴ!

     創造し、表現するキビダンゴ!

(いうなれば、日曜日の、子育ては人間を高めるにも健康にも入る。

経済は、何をするにもベースとして必要だ。)

この3本柱は無理やり編み出したり、

どこかから持ってきたというわけでなく、

生まれながらにして与えられている

“課題”であり、“宿命”なのである。

だから、以前まとめたことをすっかり忘れ、

改めて考え直しても

同じところに落ち着いてしまうのだろう。

     幼いころから、どうしようもない自分という人間にコンプレックス。中学生・高校生で剣道部のキャプテンをやって、自分を大きくし、向上させなければならないことをますます実感した。それがトラウマのようになっている。

―人格・思想の向上・創造。  

     父や母、またその祖父や曾祖父が亡くなった喘息と、多発性のう胞腎という難病、その両方に自分がかかっている。放っておけば、確実に、少なくとも長生きはできない。ちなみに、父と母は私が中学生の時から、交代で入退院を繰り返し、ついには病院で相次いで壮烈な最期を遂げた。我が子にも喘息はすでに遺伝し発症してしまっている。のう胞腎が遺伝している可能性も高い。

   ―医療と健康。

     体が弱かったせいか、2、3歳のころから怪獣などの人形をつかってストーリーをつくって中学まで遊んでいたこと。また、身近に、それを職業とする人がいたこと。社会に出て10数年、構成台本・脚本をやってきて病休業したが、さらに上のレベルを目指したい、自己の作品を完成させたいという“やみがたい衝動”があること。

   ―dorama(戯曲・脚本・小説等)を中心として物を書くこと。

ようするに、この自分に生まれながらに与えられた課題、宿命から逃げずに、むしろ積極的に掘り下げて行くというのが、この“3本柱”の意味なのである。どれがかけても自分ではないのである。

この3本柱を修練し、磨き上げ、高めて行くことによって、自分の人生の最大のテーマたる―世の中のためになる=人類の進化と創造に寄与する=理想世界の建設に役だつを、神様から与えられた使命を果たすことで実現して、一隅を照らして、この世を去りたいのである。

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再び人間の細分化について・・・

ギリシア悲劇、ソポクレスの『オイディプス王』(藤沢令夫訳)を再読していて、

そのまえがきに、感銘を受け、共感をした一節がありました。

(前略)しかしながら他方、このような「哲学」とか「文学」とかいった区別は、われわれの限界狭小(スミークロギアー)がこしらえあげたものであり、こんにちのわれわれにおける、経験そのものの分裂を意味しているとも言えよう。ソポクレスにせよ、プラトンにせよ、ヨーロッパの古典的世界における第一級の精神家にとって、このような経験の分裂ほど無縁なものはなかった。(後略)

                                  

   (注)ソポクレスは劇作家、プラトンは哲学者

時を同じくして読んでいた17世紀フランスのモリエールの戯曲に、やはりギリシアの名医、ヒポクラテスの以下の言葉が引用されていました。ぼくにとっては、重要なシンクロニシティー(偶然の一致)でした。

人生は短く、一芸に達するには長い時間がかかり、経験は信頼するに足らず、評価することは困難である

                                   

すべてのものを教えるのは経験である

医師でありながら、まるで、文学者、哲学者のような言葉です。

古代ギリシアでは、哲学も文学も、医学でさえも、その領域には、現代のように明快な境界線が引かれていなかったのでしょう。

古代ギリシアについて、いずれは、ぜひもっと勉強をしたいと考えていますが、

ギリシアに限らず、

“哲学”と“文学”と“医学”。

これは、自然の成り行きの中で、

ぼくの人生に課せられたテーマでもあります。

                                       

たとえば、このブログの主要テーマとして今のところ、掲げている3つの柱の1つ、「健康」はようするに「医学」であり、

「人間性を高める」は「哲学」のことであり、「表現する・創造する」はつまりは「文学」です。

                                       

(このブログではどこまでできるかはわかりませんが、ようするに、自分で自分の人生に課しているテーマということです・・・)

3つなんて、欲張り過ぎだと思われるかもしれません。

しかし、それは見る方向が違うだけであって、

追求すべきはたった1つなのです。

つまるところ、根本にある“人間”なのです。

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March 16, 2007

最近、疲れ気味のあなたに ~根本にかえるということ

社会が細分化し、枝葉末節(しようまっせつ)ばかりが重要視され、

枝葉(えだは)ばかりがどんどん広がり増殖していくと、

“人間の存在”そのものが、希薄化し、弱体化してしまいます。

そういう時代には、意識して、“根本”にかえる必要があります。

ところで、その“人間の根本”とはなんでしょうか・・・

ぼくはこう考えます。

     生物として、大自然の一部としてのヒト、人間の身体。

     他の生物にはない養うべき“心”があるということ。

     生まれながらにして持っている、それぞれ固有の“魂”-個性があるということ

だから、最近疲れ気味だなという人は、こう自分に問いかけてみては

どうでしょう・・・

1.生物として、大自然の中に生きる存在として、そこからかけ離れすぎた生活をしていないかどうか・・・

2.体の食べ物ばかりで、心の栄養は摂らず、心を養っていないのではないか・・・

3.ありのままの自分で生きていない―自らの魂に則って生活していないのではないか・・・

疲れが深ければ深いほど、1→2→3と、突っ込んで自分を反省して見るべきでしょう。

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March 08, 2007

頽廃と驕りの日本~ある歌手に想う

                                                        

森進一は堕落している。

もう駄目ではないか・・・。

                                                                                                                 

それは、著作権に触れたということではなく、

あの「おふくろさん」の歌詞に、

あのフレーズをつけ、

たとえ、自分がつけたのではないにしても

何年間も歌い続けたという感覚がどうみてもおかしい。

しかも、今に至っても、そこに対する反省があるとは思えない。

(テレビのワイドショーやニュースで見る限りだが・・・)

                                                                                                           

本来の「おふくろさん」の心と

まったく違うではないか。

なぜ、それがわからないのか。

                                                    

極貧から身を起こして、弟や妹を1人で育て、

歌手になったというが、

その頃のことをすっかり

忘れてしまったのではないか。

                                                          

これは、森進一だけの問題ではない。

                                                          

戦中・戦後の貧しい中から復興を遂げ、

豊かになったわれわれ多くの日本人、

―たとえ、戦中・戦後を体験しなくても同じことだ―

われわれ日本という国は

頽廃と驕りの中で、一番、大切なものを忘れてしまったのではないか。

                                                      

森進一が現在の日本の姿であるように見えて仕方がない。

                                                                                        

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初心

今日も仏壇を掃除し、その前で手を合わせた。

仏壇には、諸々の祖霊、そして、父と母の位牌がある。

                                                                                            

ぼくは、親を捨てて、ある放送作家(脚本家)の

弟子になった。

自分が真に世の中のためになれるとするならば、

その方向しかないと思ったからだ。                                          

                                                     

その罪は一生背負っていかなければならない・・・

                                                         

こうして選んだ道だからこそ、

今まで進んできた先にある道を

突き進まねばならない。

                                                                                                            

そして、だからこそ、自らの信念に沿わないものはもう書きたくない。 

                                                                                                         

仏壇の前で初心にかえった。                           

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March 05, 2007

スポットを浴びるということ

スポットライトを浴びている人間を

舞台の袖から見ている人は、

嫉妬によって心の鏡をくもらせているかもしれません。

しかし、スポットライトを浴びている人が

外を眺めるよりも、外にいる人が中を

眺める方がよく見えているのは確かなことです。

                                                    

人生の絶頂期にあって浮かれている人は、

自分の阿呆面を誰かからじっくりと見つめられている

ということを、たまには思い出した方がいいでしょう。                                           

それが絶頂期が長持ちする秘訣かもしれない。                           

               

芸能人以外の人間がスポットライトを浴びるとは

有名になる、地位が上がる・・・。

それから、金持ちになるということでしょうか。

                                                       

人気絶頂の芸能人の中には、たった一人、

孤独の中で不安におびえている人もいます。

                                  

そもそも、スポットライトを浴びたいと思って、

浴び続けていられる人がいるのでしょうか。

言葉を変えれば、その人は幸せでしょうか。

                                          

もしいるとするならば、そのスポットライトの中が

本来の生きる場所である人だけだと思います。

                                     

スポットライトをあてられることがそんなにいいことなのか・・・

若い頃には、がむしゃらに追い求めます。                                            

                                                        

たとえば、ドキュメンタリー番組で、ある人を

追いかけることを「スポット」をあてるといいます。

ディレクターやプロデューサーの中には

日ごろは人知れずひたむきに生きている人に

光をあてたいという人がいる。

その志は尊いです。

                                      

しかし、一歩間違えば傲慢になる。

スポットを当てられることが余計なお世話という人も

世の中にはいるのです。

いくら金を積まれてもいやだという人も・・・。

                                                      

晦(くら)きに処(お)りて而(しか)る後(のち)に、明るきに向(むか)うの太(はなは)だ露(あらわ)るるを知る   『菜根

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March 01, 2007

読書について

実践の大切さを承知した上で、

読書、しかも古典を読むことのいかに有益で

あるかを記したい。

「論語読みの論語知らず」という言葉がある。

それは読書してばかりで実践が伴わぬ人のことを

意味するものらしい。

しかし、小生からいわせれば、その人は真に読書を

していない。

真剣に読書をしていれば必ずや形に表れる。

いい本に取り組めば、

その人の眼光を鋭くし、顔を変える。

そして、必ずや生き方も変わる。

どんな書物を選び、どう読むか、何回読むかが

肝心なのだ。

それには、できるだけ、それを通して、

偉大なる人格に触れられるような本がいい。

とすると、長い年月に耐え、名著として

生き残ってきた書物が間違いない。

日々ほんの一文ずつ、一生のうちにたった一冊でもいい

わからなければ、繰り返し繰り返し読むのである。

しかも、できるだけ原文に近いものを読む。

中国の古典ならば、単なる解説書よりは、現代語訳、

現代語訳よりは読み下し文、

読み下し文よりは原文。

なぜならば、原文であれば直接に、

それに近いほどより多く、

偉大なる魂に触れることができるからだ。

小生は今のところ、原文は手に負えないから、

読み下し文を中心に読み、わからないところは現代語訳

で理解し、それでも把握できないところは解説書で

補うようにしている。

先ず始めに解説書を読んだ上で、

原典に挑戦することもある。

目で読んで、腹に落ちないところは、

読み下し文を音読して

ストンと落ちてくることもある。

書き写すことはしばしばある。

原文に反(かえ)り、わからないながらも、

一方の翻訳より、他方の翻訳の方がいいと

直覚することもある。

かつて真剣に読んだものは、

大きな成果はすぐにでないものの

20年後30年後40年後…には、必ずや、そのことによって、

なんらかのものを得ているということに気づくであろう。

人格を形成していくとは、おそらく、それぐらい

腰をすえて取り組んでいくべきことなのだ。

ここに記すことによって、

「自分に合った古典」をもち、

それに真剣に取り組んで行くことの大切を

我が心に銘記したい。

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