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March 01, 2007

読書について

実践の大切さを承知した上で、

読書、しかも古典を読むことのいかに有益で

あるかを記したい。

「論語読みの論語知らず」という言葉がある。

それは読書してばかりで実践が伴わぬ人のことを

意味するものらしい。

しかし、小生からいわせれば、その人は真に読書を

していない。

真剣に読書をしていれば必ずや形に表れる。

いい本に取り組めば、

その人の眼光を鋭くし、顔を変える。

そして、必ずや生き方も変わる。

どんな書物を選び、どう読むか、何回読むかが

肝心なのだ。

それには、できるだけ、それを通して、

偉大なる人格に触れられるような本がいい。

とすると、長い年月に耐え、名著として

生き残ってきた書物が間違いない。

日々ほんの一文ずつ、一生のうちにたった一冊でもいい

わからなければ、繰り返し繰り返し読むのである。

しかも、できるだけ原文に近いものを読む。

中国の古典ならば、単なる解説書よりは、現代語訳、

現代語訳よりは読み下し文、

読み下し文よりは原文。

なぜならば、原文であれば直接に、

それに近いほどより多く、

偉大なる魂に触れることができるからだ。

小生は今のところ、原文は手に負えないから、

読み下し文を中心に読み、わからないところは現代語訳

で理解し、それでも把握できないところは解説書で

補うようにしている。

先ず始めに解説書を読んだ上で、

原典に挑戦することもある。

目で読んで、腹に落ちないところは、

読み下し文を音読して

ストンと落ちてくることもある。

書き写すことはしばしばある。

原文に反(かえ)り、わからないながらも、

一方の翻訳より、他方の翻訳の方がいいと

直覚することもある。

かつて真剣に読んだものは、

大きな成果はすぐにでないものの

20年後30年後40年後…には、必ずや、そのことによって、

なんらかのものを得ているということに気づくであろう。

人格を形成していくとは、おそらく、それぐらい

腰をすえて取り組んでいくべきことなのだ。

ここに記すことによって、

「自分に合った古典」をもち、

それに真剣に取り組んで行くことの大切を

我が心に銘記したい。

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Comments

『論語』
嬉しいです。

私の座右の書。
愛読書です。

折々にひもときます。
何冊あるか・・

モモタロウさん、有難うございます。
若者ならず、私にもタメニなります。
偉大な先人に感謝するばかりです。

Posted by: raku-sa | March 20, 2007 at 10:20 PM

raku-sa さん
お恥ずかしい限りです。今、論語の難しさをひしひしと感じております。それとともに、先人たちの偉大さにあまたが下がります。

Posted by: モモタロウ | March 31, 2007 at 09:24 PM

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