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April 16, 2007

ありがとうざいました。

とりあえず、閉鎖はしませんが、

近々、過去の記事を整理します。

そして、いずれ、また

始めることが許されるなら、

別のURLかこちらのURLから

新しい形で

スタートを切ることになると思います。

                                                                                   

         

これまでご愛顧を有難うございました。

心より感謝しております。

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April 14, 2007

アクセス数がなんと“2”!

もともと少ないけれど、

昨日は、アクセス数が

なんと“2”!

ここ4ヶ月で

3月の“3”よりひくい最低。

しょうがねえよな、

こんな内容じゃ

だれもよまねえよな。

自分でも、

おとずれないよな。

せめて、もうちょっとは、

ふやしたいなあ・・・。

ということで、

ひとりよがりの

長々とした文は、

別のブログで書くことにします。

そっちの方も、気持ちの

せいりに役だっているし、

やめられないのです。

そのブログはふるすの楽天か、

どこにするかを、

今、考え中です・・・

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April 12, 2007

今日も・・・

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今日も一日が終わった・・・

太陽が川へと沈んだ・・・

明日はまた、桃のように

川を流れて、現れるに違いない。

そしたら彼はまた、太陽から

生まれたままの姿で出てこよう。

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「ねえ、そろそろ、生まれていい?」

     (モモタロウならぬモモイチロウ)

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この道

この道より我を生かす道なしこの道を歩く 

                武者小路実篤

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願望

あなたの願望がかなうかどうかなんて、

世界にとってはどうでもいいことだ。

世界にとって意義があるのは、ただ

あなたの願望が世界の利益になるときだけだ。

                    

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天意

絶対不可避なる事は即絶対必然にして

これ「天意」と心得べし。     森信三

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April 11, 2007

ふりかえってみれば、バランス

学生時代、昼間、授業に極力出ずに欠席して、

古今の名著を読み、作家を目指す一方で、

夜は、よく、酔ってドロドロになるまで飲んだり、

新宿・歌舞伎町や六本木のディスコにも通った。

一時は夢中になった。

(新宿はB&B、そんな名前じゃなかったか?)

                                                      

大学で知り合った親友が、

中学生時代はバリバリの硬派の不良、

(眉毛をそり、ソリコミを深く入れていた)、

高校は途中から軟派の不良で、

ディスコ行ったり、サーフィンをしたりしていた

奴だったからだ(当時ツッパリと呼ばれてる

連中はこのような見事な“転換”があったようだ)。

彼は、もう高校時代から、アル中になっていた。

                                                      

そいつからよく言われた。

「おまえの踊りを思い出すと気持ち悪い」

あきずに通っていたけれど、他人から見れば、

ちっとも、うまくならなかったようだ。

ステップが剣道の“すり足”になっていたの

かもしれない。

今、思い出すだけで赤面する。

                                                      

彼とは、もうだいぶ連絡をとっていないけれど、

思えば、この出会いのおかげで、自分の世界がぐんと

広がった。心より感謝している。

ぼくは、中学高校時代は、剣道と勉強(できはよくなかったが)

しかやってこなかったような生徒だった。

親や親戚が教師だらけ(笑)という基本的にマジメな家庭で

育ってきたということもある。

                                                      

ところが、学校を卒業して、

彼はなんと、教師(小学校)になってしまった。

ぼくの方が、どちらかというと、ナンパな業界

に入ってしまった。

今思うと、学生時代、本を読むだけでなく、

彼といっしょに、飲んだり、ディスコに行ったり、

ときには常識に反するような行動(?)を

いろいろしてよかったのだ。

本を読むだけで世間を知らなけりゃ、

バラエティー番組のみならず

情報番組、ありとあらゆる番組が作れない。

アイデアを出せないし、台本も書けない。

                                                       

一方で、元不良(笑)の親友は、

生徒の心をよくつかめる教師になった。

タレントの紳介なんかも

自分の経験からたびたび口にしているが、

(とくに当時の)“不良”とよばれる彼らは、他人の心を

つかむのがうまい。人情の機微を知らなければ、

仲間の中で生きていけないからだ。

それを存分に発揮して、生徒の心をがっちりつかみ、

クラス全体を誘導できる先生になった。

彼の隣のクラスの先生が、

ある有名な大学の教育学部を出た

成績優秀で教師になった人だったが、

クラスをまとめられなくて、困っているという。

やはり、教師も勉強だけじゃだめなんだ。

                                                       

それにしても、おもしろいもんだ。

こうやって、ふりかえってみると、

大学時代の親友の人生も、

自分の人生もうまい具合に、バランスが

とられている。

そんなこと決して、意識してやったわけでもないし、

意識してやれるものではないだろう。

                                                      

彼との出会いも、まさに偶然だったのだ・・・。

                                                          

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こぞうさんへ、お知らせ

楽天ブログのこぞうさん

コメント、書き込みに行きましたら、

楽天ブログ(らくてんぶろぐ)へユーザ登録いただかないとこの掲示板には記入できません。

と必ず出てしまいます。

なので、ずっと書き込めないで困っております。

なんとかして~~~

(他に方法が思いつかないので―私書箱も届かない、

ここにのせさせていただきました。)

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今日もひとり行く

歩いていたら、テニスコートでかつての若人

たち(つまり、おばさん、おじさん)が、

にぎやかに、笑い声をあげながら、

楽しそうにテニスをしていた。

                                      

                                                                           

それを横目でみながら、

こっちのかつての若人(つまり、自分のこと)が、

すたこらすたこらさっさと歩いて行く。

                                      

                                        

「変わらないなあ・・・」。

思わず、ため息をついてしまった。

                                           

学生の頃の自分は、

ミニスカートをはいた

キャピキャピのギャルたち(当時の言葉のつもり)が、

コートで男子たちとテニスに興じているのを、

横目で見ながら、

いや頭の中からその姿を懸命にふりはらおうとしながら、

喫茶店や図書館に向かい、

いつでもたった一人、本を読んでいた。

                                         

あの頃も一人、今日も一人・・・

                                         

そんなことを思いながら、姿勢を正して歩いて行く・・・

                                        

かつてはコートの中が目映く見えた。

そして、

性への激しい衝動で悶々としながら、

コートの外にいる自分が

なんだか惨めに思えるときもあったけど、

                                          

今は思う。

                                          

これでいいのだ。

                                        

おれはおれの道を行く。

                                                                           

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雑草は雑草のままで・・・、色が光となるように

1つ前の記事を書いていたら、以下の文章を思い出した。

                                                      

どうしようもない自分、あいもかわらずの

自分にしょげているときに、

ここ15年以上、ずっと、ぼくの中にあって、

懸命に励ましの声を発し続けてくれている

文である。

この言葉さえあれば、

これからも生きていけそうな気がする・・・

                                                      

 一個の雑草として花咲き、山から流れてくる水に生かされ、風に生かされつづけた(種田)山頭火は、昭和十年十二月二十日、「雑草風景」というすばらしい文章を書いている。

風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがすがたとなり、にほひがかほりとなり、色が光となるやうに。

 私は雑草的存在に過ぎないけれども、それで満ち足りている。雑草は雑草として、生え伸び咲き実り、それでよろしいのである

 なるほど、「色が光となるやうに」か、と私は長嘆息した。

 般若心経は、色即是空し、色即是空した果てに空即是色する世界を教えてくれているが、色が光となることもあるのだ。

 形あるもの、存在するものが光を発する。

(中略)

 色即是空していくきびしい生き方とは別に、色は色のままで光を発する、という生き方もあるようだ。  

                     紀野一義著『般若心経講義』

                                                   

 「色が光になるやうに、雑草は雑草のままで輝くこともできるんだ!」

                                                   

 ここに書き写しただけで、救われるような気がする。

                                                  

     色が光となるやうに・・・、

     色が光となるやうに・・・、

     色が光となるやうに・・・、

                                                   

 もしかしたら、ほんとうに、神様のお役に立つ、世のため人のためになるというのは、そういうことなのではないか・・・。

                                                   

 神様の願いとはそういうことではないか・・・。

                                                    

 どうか私は私のままで光となるやうに・・・。

 どうかあなたはあなたのままで、光となるやうに・・・。

                                                  

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April 10, 2007

宿命を受け入れ、思うように生きる

(ここ数件の記事は、

特に、私が自分で納得したいがために、自分なりに

考えた“過程”を記事にしたものです。

―いつも似たようなものかもしれませんが・・・)

人生は思うようになる。

正確にいえば、

正しいことは思うようになるということであろう。

その正しいこととは、たとえば、

宿命は変えられず、運命は変えられるということであろう。

前の記事で書いた、与えられていることとは、

つまり、宿命ということでもある。

容姿や生まれ育ち、もって生まれた病や障害・・・・

人にはいくら変えようとしても変えられないものがある。

それが宿命である。

その宿命を素直に受け入れた上で、

願望を強く思って努力すれば、きっと叶う。

思うようになるのである。

与えられたことを一所懸命にやるとは、

与えられたことの延長線上に、

与えられたことの完成を強く願って努力していく

ということではないだろうか。

そうしたことを信じて生きて行きたい。

それに、魔法のように何でも思えばかなう世界より

「人智ではどうにもならない運命」(=宿命)を受け入れた

上で、思うようになることを最大限思うようにしていく

つまり、自分の能力を最大限に発揮して行く

人生の方が面白いだろう。

ゲームでもスポーツでも何でもそうだろうが、

無制限であるより制約がある方が面白い。

ただ、想念として、大切なのは、

稲盛和夫さんや中村天風さんがおっしゃるように

「人生は思うようになる。

だから、強く思って生きる」。

それとともに、

「心を高め、魂をきよめる」努力を怠らない。

やはり、この両方が必要なのである。

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人生は思うようになる

前の記事に、「思うようにならない」とう記事を書いたが、その内容はそういうことではなくても言霊がよくないから、付け加えたいと思います。

                                                                        

きっと、人生は「思うようになる」のである。「思うようにならない」のは、自分の人間がそこまで達していないから「思うようにならない」のであって、「思うようになるような人間」になれば「思うようになる」のである。

                                                                              

おそらく神様は、人間にできないことを思わせないのであって、それをその人が「思っている」ということは、できるということなのである。そして、人間が成長をすればするほど、ますます自然と欲望丸出しのやるべきでない、できないことは思わなくなるのだろう。

                                                                                                                                                      

言い換えれば、正しいことを思えば、必ず「思うようになるのである」。正しいことしか常に考えないような人間になれば、きっと、この地上に叶わないものはないというくらいの域に達することができるのだ。

                                                                                                                                                   

だから、大切なのは「思うようにならない」なら「思うようにならない」ありのままの現実を受け入れ、「思うようになれるのだ」ということを信じて、「思うようになりたい」と思って、努力していけば必ずなれるのだ。

                                                                                                                                                 

前の記事で書いたことを言い換えれば、「思うようにならない」ときでも、だからこそ、「あせらない」ということなのである。

賭け事でも、なんでもそうであろうが、自分に風が吹くときもあれば、まったく風が吹かないときもある。

「思うようにならない」ときは、じたばたせず、いい意味で諦めて、心をできるだけ平静にして、努力ができるときに、「思うようになる」のだと信じて、「思うようになる人間」になるための努力していけばいいのだ。

                                                                                                                                                 

こうやって、今日も自分で自分に言い聞かせるモモタロウであった・・・。

                                                                                                                                                

                                                       

以下、京セラの稲盛和夫さんの文章(『いかにして自分の夢を実現するか』の訳者解説)より

成功しない人は、成功した人のすばらしい話を聞いても、「そんなお金がない」とか、「そんな余裕がない」とか、「人材、技術がない」とか、とにかく、自分にない条件、自分にできない理由を並べて、「どうすればいいのか教えてほしい」と言います。

 しかし、成功する人の考えることは、皆、同じです。それは、まず、「そういうものがなければならない」と、思うのです。まず、思わなかったら、けっしてそうはならないのです。

(中略)

 「人生というものは思うようにならないものだ」とよくいわれますが、そうではありません。思うようにならないと最初から思っているからうまくいかないのであり、ここを否定したのでは、もう、そこに曇りがありますから、思うどおりにはなりません。

 中村天風さんという昭和43年に亡くなった、おそらく昭和ではナンバーワンの哲学者がおられます。このかたは、自分が思うとおりに、心に描いたとおりに世の中はなると言っておられます。運が良いとか悪いとかいうことも、心に描いたままだと言っています。

 そして、ゆめゆめ、自分の心に、不安とか、疑念とか、怒りとか、嫉妬とかが入ってはいけない、つねにポジティブで明るい思いを描き続けなさいと語りかけています。

          

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自分というステンドグラス

(前の記事の)着ぐるみだと暑苦しくて、

重くって着ているのがほんとう、

いやになっちゃうかもしれません。

                                     

着ぐるみというより、ステンドグラスにたとえた方が

しっくりくるなんて思ったりします。

                                 

一人一人には、神様から、自分というステンドグラスを

“与えられて”いる・・・。

                                   

その模様が気に食わなかったりしても、

たとえ、それに少しは付け足すことはできても、

自分勝手に根本から消したりはできません。

消すときは、命の火を消すときだけです。

                                      

ただ、その明るさや色は、自分しだいで、

どのようにも映し出すことができる。

それぞれの人が、自分というステンドグラスに

光を当て、ますます美しく輝かせればいいわけです。

                                       

反対に、

ステンドグラスを暗く見えなくするのも、

曇らせるのも、自分次第です。

                                       

そして、その唯一の光源(光のもと)は

自分の“魂”なのでしょう。

魂さえ輝けば、自然、ステンドグラスも

美しく見えるわけです。

                     

                              

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April 09, 2007

着ぐるみという存在の本質~与えられるということについて

(前の記事をうけて)

与えられていることというのは

存在にとって本質的なことです。

                                    

なぜならば、この肉体と心という

“着ぐるみ”をはがしとられてしまったら、

たちまち素っ裸になって、

存在していないということに

なってしまうのですからね。

                                   

パンダの着ぐるみだったり、

クマの着ぐるみだったり、

ときには、ピエロだったり、

ウルトラマンだったり、

キティーちゃんだったり・・・

人間は、それぞれ、みんな着ぐるみを与えられています。

                                                 

ところが、その着ぐるみというものは、

やっかいなことに、いやだからといって、

自分じゃ、脱ぐことも、取り替えることもできません。

できるとすれば、おそらく、死んで

生まれ変わるときだけでしょう。

                                           

生まれ変わるとは、たとえば、

パンダの着ぐるみからワニの着ぐるみに

着替えることをいうのでしょうね。

                                  

実にせこい話ですけど、

ある番組のプロデューサーが、

制作費を節約するために

自分でキャラクターの着ぐるみを着てました。

                                       

でも、途中で何度も脱ぎたがっていました…。

                                               

あたりまえですよね。

慣れてる人でさえ、大変なんですからね…。

                                                  

実は、ぼくももう何度脱ぎたいと思ったかしれません。

この着ぐるみを・・・。

                                                                                                                                                                                   

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与えられたことをただ一所懸命にやる

散歩をしながら心の中を整理した。

自分の魂を磨いていれば、

必ずや神様は今より高いレベルで自分のことを

お使いくださるであろう。

その自分の魂を磨くのに、もっともいい方法は

おそらく、今与えられていることから

「逃げない」ことである。

仕事や経済的な問題、家事、子育て、社会奉仕、

病、自分の性格・・・

その人のそのときによってそれぞれあろう。

神様はその人の魂をそのとき磨くのに最も適した

方法を11人に与えているのである。

だからこそ、

「逃げない」どころか、与えられたことは、

積極的にそこに飛び込んで

行くくらいでなければならない。

その点、ぼくはちっともできていない。

恐れず、躊躇をせずもっともっと飛び込み、

楽しむようにならなければ・・・

「自分は与えられたことを

ただ一所懸命にやってきただけだ」

生前は素直に聞けなかっただけに

亡くなった父の言葉が、

より深く、大切に、痛切に感じられる。

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April 07, 2007

再び「自信」について

2つ前の記事の続きです。

ジャンルでいう芸術・芸能的、

もしくは人格・思想の方向に

傾いてしまいましたが、

“続き”ということで今週、書きます)

                                      

かの岡本太郎氏は、

「自信なんてどうでもいいじゃないか」

と書いています。

つまり、他人と比べて、

自信があるとかないとか考えるのは

くだらない。バカでも下手でも、自分は自分。

自分は絶対なんだと。

他人と比べるという意味で、

自信をもつのは意味はないと

ぼくはとらえました。

自分はどうあれ、天から与えられた

たった1つの尊い存在ということです。

                                          

自信というのは何に対していうのか、

いろいろな角度から思索することができるので

まずは、感覚や感性に絞ってみます。

                                        

脚本家の三谷幸喜氏が書いていましたが、

自分は自分が面白いと感じることを書くしかない、と・・・。

そして、その自分が面白いと感じたことを

人々も面白いと感じているからこうして

食べていけているわけで、

自分が面白いということを観客が面白いと

感じなくなってしまったら、

食べていけなくなるのだと。

                                      

特に、ビジネスとしてやるのではなく、

自分の芸術・芸能・学問…

などの人生のテーマを

己に忠実に追求して行く道を歩く

(漱石のいう“道楽”)ということは、

すなわち、自分の感覚、感性を信じることです。

信じるという言葉を使わないならば、

それを“大切にする”ということでしょうか。

そちらの方が言葉として

合っているかもしれません。

                                       

(常に、自分や感性を磨いて行くというのが

前提ですが、

現時点での感覚・感性というものを

大切にしなければならないと思うのです。

そして、感覚・感性を大切にするということは、

たとえば、“面白い”という感覚の場合、

自分は何が面白いのか面白くないのか、

どこが面白いのか、

ほんとうに面白いと思っているのかどうなのか、

明確にする必要があるのです。

他人が面白いと思うかどうかの前に、

自分がそれをほんとうに面白いと感じているか

どうかが大切なのでしょう)

                                      

自分の感性、感覚を信じていくということは、

その感性、感覚に共感する人が一人もいなかったら、

誰も評価してくれない。当然、経済的にも、仕事としても

成り立たないということです。

                                      

それはそれで仕方がないことです。

                                      

ただ、こうして、“自分”を信じて、

“自分”を大切に歩んだ人のみが、

芸術や芸能ならば真に心を打つものを、

学問なら社会に後々までも貢献して行く

有意義な研究を完成させるのでしょう。

                                         

「死生命有り、富貴天に有り」

(人間の生死も、富貴・貴賎もすべて天命であり、

個人ではどうすることもできない―『論語』より)

                                        

自分の背中に自分を後押しする

風がなびくか、なびかぬかは、

神のみぞ知るのだ、

ぼくはそう気づいたとき、自分の目指すべき方向が

以前より見えたような気がします。

                                         

ただ、実業家の斉藤一人さんが、

「ツイてる、ツイてる(―運がいい)」と

唱えることを勧めているのと同じように、

芸術、芸能、学問・・・など

漱石のいう“道楽”を天職とする人は

自分の感覚、感性が世間に必ず通用する、

いつかは認められると信じる、

もしくは、生きている間に認められなくとも、

追求して行くことは、それはそれで

とても意義のあることなのだ、

もっといえば、現世で実らなくとも来世で実る・・・

という科学的な視線からいえば

まるで“根拠がない自信”をもつことも

大切なのでしょう。

                                           

そこらへんは信仰に近い(宗教ではなくて)と思いますが、

ぼくのような人間には欠かせないことだと考えています。

                                         

つまり、自分の感性や感覚などの中身を信じる、

あるがままの自分がこの世で

ただ存在しているだけでもいいと

自分の存在価値を信じるとともに、

お天道様(たとえば神様や仏様、天、守護霊など・・・)

が守っているから

絶対になんとかなるんだ、死後のことまで考えれば

なんとかならないことはないのだと信じること。

                                         

ぼくは、その両方が必要なのではないかととくに

自分自身に対して考えるのです。

                                             

ところで、こうして書くのは簡単なのですが、

実行するのは大変です。

家族の生活がかかってきますし、

貧乏するわけにはいかないから、

“道楽(自分にとってもっとも大事な仕事)”

と“稼ぐための仕事”両方をやらなければならない。

そして、そう生きようとしても、いろいろな事情により

ままならないことが多いからです。

でも、またそうした苦労が自分を鍛えるためにも

必要なのです。

                                         

ぼくの今後の方向性として、また理想の生き方として、

以上のようなことを考えています。

どこまでできるかどうかは、わかりませんが・・・。

目指す方向ははっきりしておきたいので、

あらためてここに記すことによって、

心の整理としました。

                                              

これからも、

自分も他のすべての人も

神様が必要があって生かしているのだ、

から人間の存在そのものに

価値があるということと、

そうした、

われわれ11人に使命を与えている神様が

確かに存在するのだということを

「信じて」生きていきたい、

それが自分にとっての「自信」です。

                     

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April 06, 2007

思うようにならない

今年1月末までの体調不良がなんとかおさまり、

人生の方針と目標を再確認し構築し、

さあこれで行こうと、

3月の半ばまでは、

遅々たる歩みながらも前進できていた。

                                    

ところが、3月半ばとなり、

4歳の息子モモイチロウの

発作がひどくなり、1週間以上、

ほとんど保育園に通えなくなった。

となると、パートに出ている妻よりも

家にいることが多い(現在はほとんどいる)ぼくが、

自然と面倒を見ることとなる。

                                   

そのために、保育園に送り、

そのまま川沿いをウォーキングし、

仕事場を兼ねる自宅を掃除し、

書物を読み、作業に入り・・・といった

習慣化しつつあった1日のペースが

まったく崩れてしまった。

                                     

その状態で、7才の娘モモナが春休みに突入。

うちの団地は高齢化が進んでいて子どもが少ない。

だから、家にいることが多い。すると、ぼくが

家を空けるわけにはいかず、

ウォーキングもしずらい。

ある程度、かまってやることにもなる。

当然、娘の分の昼食も作らなければならない。

                                  

そんなことで、生活のペースを取り戻すきっかけを

失ってしまう。

                                  

娘モモナは、昨日で春休みが終わり、

今日から小学校が始まったが、

これまでの期間、思うように生活できず、

スケジュールをこなせないことに

イライラしあせっていたせいもあるだろう。

また季節の変わり目ということもあり、

ぼく自身の体調がすぐれなくなってしまった。

久しぶりに測った血圧も思いのほか高かった

(ぼくの腎臓肝臓には、一番よくない)。

                                  

あらためて、考えてみると、

コントロールするのが大変ということでは、

自分の身体と、娘や息子のことと、同じである。

                                  

息子が病で保育園を休むのは仕方なく、

娘の春休みも仕方ない、

地域の環境で遊び相手が少なく、

ぼくがある程度見ていなくてはならない

というのも仕方がない。

こうしたことが自分の思惑と違って

タイミング悪く重なってくるというのも仕方ない。

                                 

どれも、どうしようもないことなのである。

                                  

また、ぼくの体調も、

薬でガチガチにコントロールしない以上、

季節の変化など外的な要因で

発作が起きたりするのは仕方がない。

ある程度、食事・運動など心がけているにもかかわらず、

血圧が上がるのも仕方がない。

                                  

しかし、そうした“思うようにならない”ことによって、

イライラし、あせるというのは、自分の心がけしだいで

なんとかなるはずだ。「仕方がなくはない」のだ。

                                   

思うようにならないことに

あせり、イライラすることによって、必要以上に

体調を悪化させてしまうのが一番、ばからしい。

                                    

家庭や地域の事情、体調・・・、

思うようにならないことが与えられるのは、

神様が、「あせりや煩悶をしないようにする」ための

訓練の場を与えてくださっている

ということかもしれない。

                                           

事が進まないとき、どれから進めればいいのだろうと考え、

始めてみてもそれがまた進まないということがよくある。

                                     

まず第一に、着手すべきことは

「どれから進めよう」、「早く始めなければ」

と“あせり”“イライラする”ことを、

感謝や喜びの心、プラス思考で

解消することであるのかもしれない。

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自信~まずは自身の感覚を信じる

自信をもつ。やはり大切なことだろうが、

まずは、自分が五感で、

見て、聞いて、触れて、嗅いで、味わって、

第六感で感じていることを信じる

ということが大切ではないか。

                                                                        

特に、ぼく自身はそうあるべきだろう。

幼い頃から、変な人間だったのかもしれないが

目の前にあるものがほんとうにあるのか、

確信をもてないというところがあった。

                                      

自分がたしかに、やっていないけど、

自分の感覚の記憶にはないところで、

ほんとうはやっていたのではないかという

疑念など、つねにもってきた。

                                         

ブログを書くときでも「思う」という

言葉が意識しないと多くなってしまうのは

そうした自己の感覚への信頼の

欠如から来ているのかもしれない。

                                          

自分の感覚(五感や第六感)への信頼がなければ、

この世では生きていけない。

すべて見るもの、聞くもの、触れるもの・・・

がほんとうにあるのか、ないのか、信じられぬなら

現実世界で生きていくための前提が成り立たないからだ。

                                     

まあ、普通なら感覚を無理に信じようとしなくても

疑わないのが正常な姿であろう。

信じるもなにも事実であるのだから。

ただ、自分の場合、そこに達しておらず、感覚への信頼が

不安定なところがあるから、

不自然であろうとも、あえて意識する必要があると

感じているのだ。

                                   

これは、周囲を見回せば、ぼくばかりの問題とは

どうやら限らないようだ。

特に、都会人は、映像やパソコン、バーチャルな

世界で頭でっかちとなり自己の感覚を失いやすい。

                                    

ガンなどの大病で死ぬ人が多いというのも、

自己の感覚を置き去りにして、

繰り返される身体からの赤信号を無視してきたがゆえに

ついに、手遅れということになってしまう

ということもあるだろう。

                                      

現代人が落ち込みやすいそういう欠点を

養老猛司さんは、時折、田舎に行って

身体を動かすことで補いなさい

といったことを述べられている。

                                       

でも、そうそう田舎に行けないという人は、

まず、都会にいて、自分の五感や第六感を信じる

努力をしてみることだ。

                                   

例えば、医者が、見えるはずがない、聞こえるはずがない、

痛いはずがない、臭いがするはずがない、

そんな味がするはずがない・・・

といっても、自分が、見え、聞こえ、痛い、

臭いがしている、味がしている

ならば、それを迷わず信ずるべきだ。

                                  

たとえ、世間の自分以外すべての人がそうでなくても、

信じるくらいの気持ちでいた方がいい。

                                                                     

でなければ、“この世”で生きる前提が整わない。

与えられている現世で自信をもって生き抜けないだろう。

                                              

                                                             

                                                             

                                                               

                                                                  

                                                                  

                                                                    

                                                              

                                                            

                                                             

                                                         

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April 02, 2007

さくら

川沿いのサイクリング道路は今、桜のトンネル・・・

                                  

いつものように早足で歩いたら、発作気味で苦しかった。

帰り道は、ゆっくりと歩くと、

ほとんど息苦しさを感じずに歩くことができた。

                                 

苦しければペースを落とせばいい・・・、

そう桜に教えられたような気がした。

                                 

気持ちに余裕ができると、花の美しさがよく見えてくる。

はらはらと花びらが散っていて、ふと、粉雪舞う白銀の世界に

いるような錯覚におちいった。

                                     

ほんの一瞬のあいだだけれど、

人々を喜ばせ、楽しませ、いい気をふりまいて

さーっと散りゆく桜・・・

願わくば、自分もそうありたい。

                                 

いや、この世ではそれだけでいいのだ・・・。

                                 

桜のトンネルを抜けたあとは、少し元気になっていた。

                                                      

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“心の健康”のためのツールをもつ

実は、ぼくはテレビ番組の『オーラの泉』をよくみる。

テレビの仕事をしてきて見るのも仕事の1つだったけど、

今、欠かさずに毎週見ているのは、

NHKの大河『風林火山』とこの番組だけである。

                                     

最近は、読書では古典にあらためて取り組んでいて、

道元の『正法眼蔵随聞記』にとても感動し、鎌田茂雄著の

『正法眼蔵随聞記講話』を今、読んでいて、

原典とは違った意味で(こちらの方が読みやすいです)、

この本にもいたく感銘を受け、かみしめるように

よんでいるが、『オーラの泉』からは、それと

同じように、ときにはそれ以上の感銘を受け、

ためになり、力を与えられている。

(とくに美輪明宏さんに魅かれている)

                                        

気分的に落ち込んで、なんにもやる気が起きない

ときなど録画したビデオを見ていると、

息を吹き返させてくれる力があるのだ。

『オーラ』は4月からはゴールデンに移行するそうだが、

そのために、早く番組が終わってしまうのではないかと

いらぬ心配をしているくらいである。

                                    

生き返らせるといえば、

先日、お話しした女性(70才は超えているだろう)は、

だんなさんを突然、なくされて意気消沈して、

4年間、家に引きこもり、ろくに食事も食べられず、

新聞もテレビもなんにも見ないで過ごしてきたそうだ。

                                     

それが娘さんから、「もうお父さんがいないのだから、

スマップ見てもいいのよ」といわれ、

再びテレビでスマップを見はじめてから

(『SMAP×SMAP』だろう)

生きる力がわいてきて、元の生活に戻れるように

なったそうだ。

もともとスマップが好きだったけど、ご主人が在世中は、

ご主人の朝が早いということで、見ることは許されなかったのだ

ぼくが、スマップと仕事をしたことあるといったら喜んでいた。

                                     

スマップだけでなく、氷川きよしにも

「若いのにあんなにがんばって。自分もがんばらなくては・・・」

と勇気付けられてきたそうだ。

                                        

古典だからいい、本だからいい、テレビだから悪いと一概には

もちろんいえないだろう。

(確かに、ひどい番組が多いし、

近頃はとみにへんな本も多いけれど・・・)

何が合うか合わないか、その人の好みもあるだろう。

何よりも、作る側、書く側、演ずる側が、どういう“心”で、

作り、書き、演じているかということが大切なのだろう。

                                       

こんなに悪いことばかりが起きている世の中、

そして、さまざまな苦難を与えられる人生を

死ぬまで生き抜くためにも、

(できれば、できるだけいい想念で、

書き、演じ、作られているもので・・・)

自分なりの“心の健康法”を見つけておくことは

確かに大切なことであると思うのだ。

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