雑草は雑草のままで・・・、色が光となるように
1つ前の記事を書いていたら、以下の文章を思い出した。
どうしようもない自分、あいもかわらずの
自分にしょげているときに、
ここ15年以上、ずっと、ぼくの中にあって、
懸命に励ましの声を発し続けてくれている
文である。
この言葉さえあれば、
これからも生きていけそうな気がする・・・
一個の雑草として花咲き、山から流れてくる水に生かされ、風に生かされつづけた(種田)山頭火は、昭和十年十二月二十日、「雑草風景」というすばらしい文章を書いている。
「風景は風光とならなければならない。音が声となり、かたちがすがたとなり、にほひがかほりとなり、色が光となるやうに。
私は雑草的存在に過ぎないけれども、それで満ち足りている。雑草は雑草として、生え伸び咲き実り、それでよろしいのである」
なるほど、「色が光となるやうに」か、と私は長嘆息した。
般若心経は、色即是空し、色即是空した果てに空即是色する世界を教えてくれているが、色が光となることもあるのだ。
形あるもの、存在するものが光を発する。
(中略)
色即是空していくきびしい生き方とは別に、色は色のままで光を発する、という生き方もあるようだ。
紀野一義著『般若心経講義』
「色が光になるやうに、雑草は雑草のままで輝くこともできるんだ!」
ここに書き写しただけで、救われるような気がする。
色が光となるやうに・・・、
色が光となるやうに・・・、
色が光となるやうに・・・、
もしかしたら、ほんとうに、神様のお役に立つ、世のため人のためになるというのは、そういうことなのではないか・・・。
神様の願いとはそういうことではないか・・・。
どうか私は私のままで光となるやうに・・・。
どうかあなたはあなたのままで、光となるやうに・・・。
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