与えられたことをただ一所懸命にやる
散歩をしながら心の中を整理した。
自分の魂を磨いていれば、
必ずや神様は今より高いレベルで自分のことを
お使いくださるであろう。
その自分の魂を磨くのに、もっともいい方法は
おそらく、今与えられていることから
「逃げない」ことである。
仕事や経済的な問題、家事、子育て、社会奉仕、
病、自分の性格・・・
その人のそのときによってそれぞれあろう。
神様はその人の魂をそのとき磨くのに最も適した
方法を1人1人に与えているのである。
だからこそ、
「逃げない」どころか、与えられたことは、
積極的にそこに飛び込んで
行くくらいでなければならない。
その点、ぼくはちっともできていない。
恐れず、躊躇をせずもっともっと飛び込み、
楽しむようにならなければ・・・
「自分は与えられたことを
ただ一所懸命にやってきただけだ」
生前は素直に聞けなかっただけに
亡くなった父の言葉が、
より深く、大切に、痛切に感じられる。
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Comments
モモタロウさん、こんにちは。いつも拝読しています。
わたしは自分に起きることを少し前まで『与えられた』ことだとは、とらえられずにいました。どちらかというと、神さまにケンカ売られてると思っていました。だからなにくそ根性でがんばって、はむかって、乗り超えてきたように思います。
でも、いまは感謝の一言です。やっぱり怖いことがおきるのはいやだし、辛いことはなるべく起きないほうがいいけど、それを乗り越えるたび、自分の殻が破けて自由になっていく快感もいまは感じられています。
お父様のように真摯な態度にはまだまだ程遠いのですが、起きることを怖れない気持ちは根付いたように思います。
と、いま言葉にする機会を与えていただき、ありがとうございました!
Posted by: ぢゅん | April 09, 2007 01:43 PM
ぢゅんさん
ありがとうございます。
ぼくの信仰(他の多くの哲学・宗教が似たような考えでしょうが)
からすると、他人より苦しいこと、つらいことがあると
いうのは、神様から愛され、期待されているという
ことなんですね。なぜならば、それによって、
魂を磨き、霊性をぐんと上げることができるからです。
痛い、苦しいという感覚は、必要だから
人間や動物に備わっている大切なもの・・・。
それが、いやだというのもあたりまえの、
もしかしたら人間に必要な感覚です。
ただ、そういう苦しみを経験することによって、
魂が向上し、次のときには、それを乗り越える力が
もっとつくのでしょうね。
だから、前よりももっと迷わなくなるのかもしれません。
わかっちゃいるけど、
きついときはきついのですけれどね。
ときには、弱音を吐いたり、強気になったり、
他の人に助けてもらい、時には助けながら、
互いに向上していっているのでしょうね。
そいうとき、力強い援軍となれるものを
作れるなんて、とても素晴らしいことですよね。
Posted by: モモタロウ | April 09, 2007 10:16 PM