(実は、以下の文章はたしか、今年9月ころに書き、このココログにも書き込んだのですが、思い直して“削除”してしまったものです。もう記事を書いてしまった今となっては、同じことですので、あらためて書き込んでおきます)
ずっと書き込みを休んでいて、これから再開するというわけではないのですが、書き込みたくてしかたがなくって、「とりあえず」「やむをえず」打ち込みます。
じつは、自分の思想を表現しながらわずかなりともひと様のお役に立ち、かつ、ちょっとした家族を支える糧ともなるホームページを作成しようとして、その完成のあかつきにこのブログに連動させよう、それまではお休みだと願ってきたわけなのですが、できないのです。正確にいうと、ホームページビルダーをちゃんと入手していてマニュアルも読んでいるのですが、「作れない」のです。それは、ハードの面というよりは不惑を超えた自分にとってもっと辛らつなことを自ら突きつけることになるのですが、自らの“きちっとした座標軸”がないということではないかと、今の段階で気づいているということなのです。
ただ、それが“座標”と呼べるものになりうるかどうかいまだ定かではないのですが、曖昧模糊とした中で意識の水面に浮かび上がっているのが、“今、苦しみ、悲しんでいる人のため―弱者のため”ということです。
病のため、貧しさのため、争いのために、断末魔のうめき声をあげている人は日本中、世界中にどれだけいるでしょうか・・・。自分にはその苦しみ、悲しみを親身になってわかるほどの器がないかもしれませんが、ほんの少しでも、たった一人に対してでも、励みと癒しにつながるような言葉を投げかけることができたら・・・。もしかしたら、ある一定以上の階層の人たちから見たら弱者かもしれない人間が、そんな夢を描いているわけです。
それをどうホームページと結び付けていくか、しかも、仕事とも・・・。と欲張っているものですから、ますます・・・。見えてこないのですが。
“今、苦しみ、悲しんでいる人のため―弱者のため”ということを、今晩も喘息発作気味な5歳となった息子の寝顔に、薄明かりの中で神に祈りヒーリングしながら考えていて、浮かび上がってきたのが、「とにかく生きてください、生きてください・・・」というタイトルに結びつく言葉と内容でした。
生きていくことはつらいことが多いです。そんなことをあらためて僕に言わせる資格を失わせるほどに、大きな苦しみ悲しみに沈まされている人は大勢いらっしゃるでしょう。そうして、人間には、1人1人神様から生きる意味が与えられていると信じていますが、生きている間、その意味をまったくつかめないで死んでしまう人もいっぱいいるわけです。
でも、死ぬまで生きれば―すなわち、自分で死ぬというようなことをしなければ、必ず、その人の人生には、たとえ意識の上では結論を出せなかったにせよ、意味が付与されるものではないでしょうか。
簡単にいえば、どんなに自分のふがいなさを自分自身で感じてしまっているような人の一生であっても、少なくとも、死ぬまで生き抜けば、必ず神様からくだされた「生を与えられた意味」というものを知らず知らずに完遂できる。誰もが。ということを、ふと気づかされたような気がしたわけです。
そしてそのとき浮かび上がった言葉が、「とにかく生きてください、生きてください・・・」でした。
というわけで、書きたくなったのはここまでです。
また、海中で息苦しくなったら、空気を吸いに、水面にまであぷあぷ浮かび上がりにくるかもしれませんが、それはいつかはわかりません。それまで、ごきげんよう・・・。
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