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December 31, 2007

傷むところまで愛しなさい

                                                                                 

年末あの世へと旅立たれた、

ある人のために行った事が

ご家族の方々に受け入れられず

にがい思いをした。

自分としてはありがちなことだ。

「いまさら何を」と思われただろう。

知恵が足りなかっただろう。

周囲の方々の気持ちを

充分に斟酌できなかっただろう。

自分のギラギラした部分が

表れたのだろう。

真心が足りなかっただろう。

ともかく

「私の不徳の致すところ」

というしかない。

その為、昨晩はしたたか落ち込み、

これもよくあることだが、

厭世的な気分に浸かった。

ひたすら、渇きをいやしてくれる

歌に耳を傾け、

悶々とした気持ちを残したまま

床に入った

―ふと、今朝方寝床の中で

1つの言葉が浮かんできた。

傷むところまで愛しなさい

”Love until it hurts.”

あのマザーテレサの言葉だ。

そうだ、

ご家族の方たちに

取り入ろうとしてやったことではない。

いい格好をするためでもない。

ただただ、

その人が生前にしてくださった

恩にむくいたい、「せめても・・・」と

させていただいたことなのだ。

ご家族の方々への配慮‐まことが

足りなかったことは

ほんとうに申し訳ないのだけれども・・・

ひるがえって

ぼくは、

程度の差こそあれ、

自分のことを

「傷むところまで愛してくれている人

(恋愛ではなく・・・)」

に気づいているだろうか。

その存在に気づき、

心の底から感謝できているだろうか。

見える見えないにかかわらず

心をかけてくださっている人の気持ちに

充分に応えられているだろうか。・・・・

できていない。

皆様、今年もお世話になり

有難うございました。

年齢を重ねるばかりで

いつまでも至らない自分を

恥ずかしく思います。

来年も何卒、

よろしくお願い申し上げます。

                                          

                                              

                                    

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December 21, 2007

器以上のことはできない

                                                      

                                                  

                                                          

大言壮語は一時的には、人間を大きく見せる効果があるかも知れない。しかし、正念場では自分の器以上のことは、どうあがいてもできない。必ず本性が表れる。豪傑から腑抜けへの転落は誰にも起こり得ることなのだ。        

        藤平光一著『言葉の気力が人を動かす』より

                                               

                                                 

 

 「自分の器以上のことはできない」、

胸にぐさりと突き刺さる言葉です。

 ブログの言葉も注意しなければなりません。

 (再開したばかりですが)

体調の管理など他の意味もあって、

しばらく自粛したいと思います。

                                                       

                                             

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やらぬ先から「やる」という人間

やらぬ先から「○○をやる」という人間は、多くはやり通せぬ人間と見てよい。

                   森信三『一日一語』より

ほんとうにお恥ずかしい話で、前回、このブログの更新を休んだのは、ホームベースとなるようなホームページをつくるためと周辺の方にお伝えしました。

それがいまだできていないのですが再開をしました。申し訳ありませんでした

 まだきちんと謝罪をしていないことに気づきました。ここにお詫び申し上げます

                                                                    

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自分が自分に反る読書・学問

                                                                                                                                       

T.E.さん、すばらしい冊子を

お送りいただき有難うございました。

心より感謝しております。

ここ半年ばかり、書店の棚でたまたま出会った書物や

そこから派生して、まさに「偶然の一致(シンクロニシティ)」で

結ばれた縁にあえて身をまかせて

勉強をしてきました。

すると、もともと大した知識を持ちえていなかったものですから

尚更なのでしょうが、

国際情勢や経済、歴史、環境問題、

医療・健康問題について、

(医療問題は天から与えられた自分の

テーマの1つと思っております)

視野をぐんと広げられ、1つ1つの「つながり」が

自分なりに見えてきたように思えました。

(他の方と比較したらどうであるかはわかりません。

あくまでも、今までの自分以上にということですが)

そのため、そればかりに夢中になってしまい、

自己を養うための読書というものが

おろそかになっていました

つまり、頂いた冊子にある「外物を追う」

読書にばかり偏ってしまっていたのです。

(そもそも経・史・集・文学・健康(-身体)を)

自己修養のための読書テーマにしていたのですが・・・)

ただそうした(外物を追う)学問(読書)も、

神様が必要があって自分に勉強させたのだ

ということを、結果から見て確信しております。

そろそろ、そちらに傾いていた針を

どちらにも傾いていない

ニュートラルな状態に戻しなさい。

まるで、そう肩を叩かれたかのように

気づかせていただけたのが、

いただいた冊子

「安岡正篤講演録『藤樹・蕃山両先生と今後の学問』」

でした。

これからも、実践を前提にした人間学とともに、

視野を広げるための社会科学のような

勉強も続けて行きますが、

これをきっかけに、

両者が、志に向かって一致していけるような

努力を積み重ねていきたいと思っています。

それでは、ここで、

ペーパービューの少ないサイトではありますが(苦笑)、

通り過ぎてくださるどなたかの参考のためにも、

この講演録の中から一部、抜粋して紹介させていただきます。

ぼくが、一番初めに心打たれ、

全体の中でももっとも感動した文章の1つです。

(傍線・太字は私がつけました。)

さて、藤樹先生、蕃山先生を追想致しまして、なによりも先づ気のつくことは、先生達がいかに真剣に学ばれたかということであります。その真剣に学ばれた先生達の学問というものはどういう学問であったか、今日世の学問とどこが違うか、ということを先づ考えさせられるのであります。先生方の性命を打込んでされた学問というものは、決して外物を追う、単に知識を得る、或は資格を得る条件にする、というような功利的目的のためではないその最も大切な意義は、自分が自分に反る、本当の自分を把握するということであった。自分というものをはっきりつかんで、自分の本質を十分に発揮するということであったわけであります。

  学は覚りなり

 一体人間の存在、その生活というものは、これを大にして言うならば人間の文明というものは、先づ人間が本当の自分に反って自分を役立てる、ということの上に立たなければ空々寂々であります。藤樹先生が殊に研鑽された孟子の中の名高い一語にも、「君子は必ず自ら反る」と言っておる。これは大事なことであります。先づ自らが自らに反る、自分が自分に反る。そこからはじめて本当の生、生きるということが生ずるのであります。

私が取材をした

あるホリスティック医学を実践する医師は、

がん患者の治療にあたって

「ほんとうの自分」を取り戻させることを

主眼においていました。

これは、心理学やスピリチュアリティなど

いわゆる最先端の世界からきたものであると思いますが、

くしくも、江戸時代初期の藤樹先生や蕃山先生の学問と

一致しているということが面白くもあり、

驚異でもありました。

  ただ、安岡正篤先生は「本当の自分を把握する」と

解説されていますが、

藤樹先生、蕃山先生が性命をかけて

学問に打ち込んだということは、

すなわち、全生涯全生命をかけて

「本当の自分を把握」しようとしたということになります。

  それくらい、「自分を知る」「把握する」ということは

容易くないことなのです。

簡単にほんとうの自分をつかめると思っていた

自分に恥ずかしさを覚えるとともに、

誰にとっても容易なことではない、

ましてや藤樹先生や蕃山先生にとっても

そうであったことを知り少しほっとした次第です。

『講演録』よりの文章はだいぶ長い引用となりましたが、

パソコンのキーボードを打っていても

倦むことはありませんでした。

おそらく、この文章やこうした分野の世界が

大好きだからでしょう。

 いただいた冊子は繰り返し読ませていただきます。

 あくまで、「天地の為に心を立つ」(※)を

  目指して精進して参りたいと思います。

 あらためまして、T.E.さん、ありがとうございました。

  心より感謝しております。

                                                                                                                                                                     

※「天地の為に心を立つ」について

 これはどういう意味かと言うと、つまり人間の心というものは天地・自然が人間を通じて立てたものである。自然は、天地は、何億年何千万年何千年といろいろ植物動物をつくったわけでありますが、その人間が五十万年もかかってやっと人間らしくなって、その人間の中に高邁な精神的存在、即ち心というものを発達させ、文明、文化らしいものをつくって先づ五千年と考えられておる。従ってわれわれが心を持っておるということは、言い換えれば天地が心を持っておるということです。われわれの心は天地の心である。われわれの心は天地の心である。天地が発してわれわれの心になっている。(「安岡正篤先生講録『藤樹・蕃山先生と今後の学問』」より)

                                                                            

                                                                                                                                                      

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December 20, 2007

表面でみるな!

                                                          

物事を表面でみるな!

その先にあるものをみよ!

常にそうせよ!

真剣に生きよ!

                                      

                                       

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まどみちおはすごい その3

                                                                       

まどみちおはすごい

彼の「め」は全身だ!

彼にコントを書かせれば

彼にしか書けないコントが書けるだろう。

                                                         

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まどみちおはすごい その2

                                                                            

まどみちおはすごい

あらためてみれば

「ぞうさん」の詞にしてもすごい。

彼は母さんのぞうも子どものぞうも

同じように鼻が長いことに驚いたんだ。

                                                    

                                                       

                                                               

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まどみちおはすごい その1

                                              

本屋で立ち読みして気づいた。

まどみちおはすごい。

それまでは「ぞうさん」の作詞者

というくらいしか知らなかったが。

まるで、彼の詩は、

禅の坊さんが書いたみたいだ。

                                                  

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何に真剣か

                                            

                                         

人生に真剣なのと

会社を辞めさせられないことに

真剣なのとでは、まるっきり違う。

人生に真剣になるのは

比較できないくらい難しい。

                                                   

                                            

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己を叱咤激励する言葉

                                             

殺されるくらいの善いことをしよう。

                                            

ガンジーも、リンカーンも、キング牧師も、

                                           

坂本龍馬も、西郷隆盛も・・・

                                               

殺されるくらいの善いことをして殺された。

                                              

残りの人生、殺されるくらいの善いことをする

                                               

ことを夢見て生きよう。

                                                 

                                               

                                          

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われわれはもう既に「支配」されている?

                                        

「大衆が信じられない」

そんなことを「キビダンゴをあげる!」(このブログ)に書いた。

というのも、テレビ・ラジオ‐放送業界の末端に十数年いて、

視聴率(ラジオでは聴取率か)によって

自分のみならず、

あらゆる制作者が踊らされるさまをつぶさに見きて、

視聴者=大衆こそが、

テレビ等を悪くしていると

思い知らされてきたからだ。

つまり、国民=大衆が日本という国を悪くしている、そう思ってきた。

だって、政治家がひどいと文句をいっても、

その政治家を選挙で投票したのは国民なのだ。

ところが、ここ数ヶ月の間につくづく

気づいてしまったことがある。

国もマスコミも、肝腎要(かんじんかなめ)なことを

国民=一般大衆に伝えていない。

肝腎要とは、肝臓と腎臓と腰と書く。

人間の肉体に肝臓と腎臓(ともに腰にある)がなければ、

成り立たないように、

肝腎要なことを伝えていなければ、

他の事を伝えていても、

何も伝えていないと同じことなのである。

しかも、自由主義の国であるはずが、

国民には選択肢を与えられていない。

たとえば、

どのテレビもどの新聞も、いつも同じような

ニュースばかりを、同じような視点で

報道するばかりである。

たとえ、右寄り左寄りがあったとしても

そのどちらかしか

選択の余地がないようなものである。

NHKのドキュメンタリーにしても

奥歯に物が挟まったような

見終わってどこかスッキリしないような

作りのものが多い。

民放のバラエティーにしても

ドラマにしても

歌番組にしても

ほんとうの意味で世界に通用するような

芸や

エンターテイメントが、

日本の番組で見られますか?

(※↓ここから先、信じられる人だけが読んでください。

   私のこと、きちがいと思ってもいいです)

なぜ、そんなことになってしまったのか。

国民をコントロールしようとしている者がいるからだ。

いや、残念ながら、

すでにわれわれ一般大衆は

すべての生活とはいわないが、

部分的にコントロールされてしまっている。

それなら、

われわれの生活の一部をすでに

コントロールしていて、

さらに生活全般にわたって

支配しようとしているという者とは

何者だろうか・・・。

マスコミか、

それとも、国か…。

実は、どうやら

マスコミも、国も、その「何者か」に

よって、踊らされてきたということが

現実らしいのだ。

そのような世界は、SFや映画の中の

物語にすぎないと思っている方、

まだ、そういう見方を社会に対して

もったことのない方は、

誰か権力者たちがいて、その者たちが日本や

世界の市民たちをコントロールしていて、

完全なる支配を目指して

その方向へと世界を導いている

ということを現実に照らして、

想像だけでいいから

思い浮かべてほしい。

すると、きっと前よりも、

社会科の授業では教わらなかったような

社会の仕組みが見えてくるはずである。

政治・経済にしても、

1つ1つの新聞記事を読んだだけでは、

どうもわかりにくかったのが、

その背景を思い浮かべることで、

まるで団子を串刺しにしたかのように

つながりが見えてくるかもしれない

すると

もしかしたら、

そのSFの世界のような社会構造が

満更、いつわりばかりではない

と思えてくるはずである。

地球環境の危機、世界の人口増大といった

問題のみならず、

われわれは一般庶民は

ある特定の階層によって、

危機的な状況に知らず知らずに追い込まれてきた、

そして、現在進行形なのだ。

ぼくは世界に対して希望を抱いている。

必ずやすばらしい時代がくることは確信しているし、

自分でもその一部をたとえ極微の一点でも、

創っていかなければならないと思っている。

ただ、一方で、

戦争、貧困飢餓、食品・日用品による毒のばらまき、

医療による殺害・・・・。

日々、大勢の犠牲者が出ていることも現実なのだ。

そして、その大元の原因は、

先ほど掲げた権力者たちにある。

厳しくつらいことであるが

創造に破壊はつきものである。

われわれが行わなければならないのは、

少しでも犠牲者を少なくすることと、

今の世界を根底から見直し、みんなが

幸せになれる世界を創っていくことだ。

特定の階層や人種、国、宗教団体・・・

などだけが利益を得る社会では決してないのだ。

                              

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December 19, 2007

生命がなければどういう価値もない。

                                       

何かが始まるのは生からであり、

すべての感覚、認識、意識、論理や言葉を

支えるのは生命である。

生命に何らかの価値があるかどうかはわからない。

しかし生命がなければ、

どういう価値もない。

生命は、

―私の生命は他の誰の生命とも同じように、

あのさわやかな風のように、

高い空に吹いている・・・・・・・。 

(朝日新聞1219日 加藤周一『夕陽妄語』より)

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狂え狂え

                                         

以下、朝日新聞1218日、大江健三郎「定義集」より

詩人はこの手法で、内的な魂を外側の現実に突き合わせ、社会についても神秘的な希求についても同じく表現しうる言葉をもつ。そういって、優れた例をあげます。ディラン・トマスの

“Rage,rage against the dying of the light!”

そして、講義を聴く者らに自分で翻訳することをうながすために、こういう評解をされています。

’rage’というのは「荒れ狂え」という意味ですが、狂え狂えという。お前気違いになれというんです。狂え狂え。おれは気違いになることによって光を護るんだという》

(中略)

 深瀬さん(※深瀬基寛‐英文学者)は、いまや現代文明の光は消え去る危機にあるが、その擁護をめざしてまさに狂気の一歩手前にあって書く、その詩人の言葉こそ、同時代に生きる自分の「悦しき知識」だ、と最終講義を閉じていられるのですから。

(中略)

 ところが(※大江氏が)長年やって来た小説家の仕事は、深瀬interface理論の、自分の内奥を荒あらしい外部と摺り合わせ、そこに表現のリアリティーを達成させるものだったし、私の生き方もそれで鍛えられたと感じます。

 その経験に立って、私は若い人たちが自分の「悦しき知識」をすみやかに探し、新しい現代の危機に備えられることを期待します。

「私の生き方もそれで鍛えられたと感じます」

 ・・・こうした大江健三郎氏の生き方を、一番学びたいところです。

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相対を振り払え!

                                       

                                              

自分に誠実に生きようとしてきた。

今、振り返ればそれは、

相対を振り払おう

絶対を目指そうという道だった。

ふと、気が付いてみると、

右も左も断崖絶壁。

若いころからまともに勤め人と

なったことがない者に、

いまさら勤まるはずがない。

それだけでなく、放送作家にも

戻れないのかもしれない。

一瞬、今、立たされている場所が

明らかとなり、

恐怖心が湧き起こる・・・。

もう、とにかく、まっすぐ前に

突き進むしかないのだ。

たとえ道が中途で

途絶えていたとしても・・・。

そのときは、意を決して

断崖絶壁に飛び込むまでさ。

そうすれば、少なくとも

前より絶対に近づくことが

できるだろう。

                                            

                                          

                                       

                                                                        

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佐世保の銃乱射事件の真因を徹底してさぐるべきだ

                                         

また、痛ましい事件が起きてしまった。

佐世保の銃乱射事件である。

今のところ報道で見られるのは、

銃の規制、怨恨、なぜ本人から銃を取り上げなかったのか・・・

といった事件の核心から離れた

周辺ばかりをぐるぐる回っているように思う。

                                        

銃がどうのこうのという前に、まず明快に言えるのは、

犯人が“異常”であったということだ。

あのような事件を引き起こしたのだから、

“異常”であったに違いないのだ。

銃の規制も必要なのかもしれないが、

なぜ犯人が“異常”になったかを探り、

どうしたらその“異常”が再び生まれないかを

考えるのが、第一になすべきことではないか。

銃を規制したところで、その“異常”がなくならない限り、

異常者が今度は車を使って、殺人を犯すかもしれないではないか。

刃物を使用するかもしれない。

                                            

こういった凶悪犯罪が起きたときによくある報道は、

特殊な犯人による特殊な犯行という捉え方である。

どうなのだろうか。

「特殊な人間がしたことですから、

これからはめったなことではありません」

「この犯人による特殊な犯行ですから、

他のケースに当てはめられませんよ」

これらは、気休めであり、逃げに過ぎない。

                                        

いや、マスコミは意識してかしないでかはわからないが、

根源的な原因について、あまりにもきちんと報道しなさ過ぎる

のではないか。

たとえば、以下のような誰もが知っている事件であるが、

その根底に“薬物”があったということを知らない人は多いだろう。

                                                 

                                               

緊急寄稿「バージニア工科大学乱射事件に犯人を駆り立てた背景」 

http://news.livedoor.com/article/detail/3140412/

                                           

バージニア工科大学の銃乱射の犯人は、SSRIを使用していた。

SSRIは抗うつ薬で、商品名には、最近話題にのぼっているパキシル(パクシル)やプロザックなどがある。その恐ろしさは、以下のサイトを見ればわかる。

                                                    

【グラクソ(グラクソ・スミスクライン)英国で「自殺ピル」パクシルについて訴追に直面】 

rense.com

http://www.asyura2.com/0401/health8/msg/551.html

                                                

                                         

どうやら、会津若松で母親を殺害した高校生も、その他、さまざまな事件においてもSSRIが使用されていたらしい。(以下のサイトを参照)

                                                   

                                              

不可解な犯罪を引き起こす精神科治療

http://blogs.yahoo.co.jp/kebichan55/32485472.html

                                                                            

                                              

今回の 佐世保の銃乱射事件の犯人も、犯行前に異常な行動が目立ったというが、精神科等でSSRIなどの薬物の処方を受けていなかったろうか。今、警察が取調べをしているところだろうが、マスコミもその点をしっかりと報道してほしい(たとえば、スポンサーなどに遠慮をせずに・・・)

                                                

                                       

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December 17, 2007

世間の評価を気にしていたのではほんとうの自分になれない

                                       

ぼくが、全国的に知られている

お笑い番組をやっていたとき、

当時、亡くなった母は入院していた。

6人部屋の病室に入ると、

「あの人が、あの番組の台本を書いている人?」

「へえ~」

「そういう人って初めて見たわぁ」

とささやき声が聞こえてきたものだ。

母はうれしそうにしていた。

その後、子ども向けのアニメのシナリオを

担当した。

これは、ぼくのかねてからの目標であり、

念願であった。

構成だけでなくシナリオも目指すものにとって、

構成台本とシナリオとの間にある壁は

シナリオの長さが短いほど

一見小さいようであるが実は大きい。

仕事相手も新しく開発しなければならない。

それがようやく突破できたのだ。

ところが、誰もほめてくれない。

中身のうんぬんではなく、

それをやったことに対して、

かのお笑い番組のように

羨望の目でみられないどころか、

自慢げにいったところで、

「あっ、そう。」

で片付けられてしまうことがおおかった。

自分の気持ちと世間の評価というのは

こんなにも違うものなのか、

いまさらながら愕然とした。

もしそのとき生きていたら、

母ならば

やはり喜んでくれていただろうが…。

さて、今は・・・。

お笑い番組やシナリオをやっていないどころか、

ただの浪人?

仕事は少しは与えられたとしても

世間様がうらやましがる、

仕事の種類を聞いただけで

評価されてしまうような

ことはしていない。

むしろ、世間的には

見下されがちな立場に

あるといえるだろう。

でも、過去のどの時期よりも

今の方が、心は充実をしている。

残りの人生があと三十年ならば

三十年間というものを

この心境の延長線上で

死ぬまで精進しながら生き続けたい。

ところで、

もし母が生きていたら・・・

(金の方は心配したろう。

その点は申し訳ないのだが)

今の心境については

やはり理解してくれていたかもしれない。

生前、母はよく

「別に出世しなくてもいい…。

しあわせに暮らしてくれれば・・」

と繰り返していたくらいだから。

                                           

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December 15, 2007

相対を脱して絶対に生きる基準

亡くなった父より

恥ずかしくない生き方をしろと

言われてきた。

今、自分が生まれたときの

父の年齢になって思う。

何に対して、

恥ずかしくない生き方をするのか

ということを。

それが、つまり、

「相対」に生きるか?

「絶対」に生きるかの分かれ目だと。

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お恥ずかしいかぎり。

                                         

引きこもり、ニート、フリーター、・・・

他人事ではない。

子どもをもった四十代のニート?

                                     

いや、世間の常識で判断するのはやめよう。

                                       

常に神様にま向かっていられているか?

この二度とない一日一日を

悔いなく生きているか?←お恥ずかしいかぎりである。

                                      

                                                          

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自己修養の基準

                                      

                                    

昨日、デパートの鏡の前で

自分に問いかけた。

俺は、この目の前にいる男を

信頼できるか?

                                    

答えは、否。

なぜなら、

少しは信念がありそうだが、

体全体がそうなっていない。

いざというとき、

裏切りそうな気がする。

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俺は父親

子どもから包丁を突き刺されるような

背中をしていないか?

                                  

いや、恐ろしいのは、

子どもから背中に

哀れみの視線を突き刺されることだ。

                                    

                                                        

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December 14, 2007

増え続ける米軍関連予算、切り捨てられる社会的弱者。

                             

増え続ける米軍関連予算

切り捨てられる社会的弱者

                                       

これは、うちのポストに入っていたモノクロのチラシにあったキャッチ・コピー。

地元清瀬の市民センターで日曜日(12/16)に行われる映画『流血の記録 砂川』と講演会のチラシである。

これくらい日本の現状とその問題を端的につかんでいるキャッチはないのではないか。

そのため、映画&講演会については詳しいことはわからないし、参加できるかわからないが、ここにコピーだけを紹介させていただいた。

                                      

     この映画は“砂川闘争”の記録映画。

チラシにはこう説明してある。

米軍基地の拡張に抗議する地元住民と、これを支援する労働者・学生の攻防を記録19561012日に、53名の測量隊と1300名の武装警官が殺到。300名近くが負傷。翌日には5000名を超える労働者・学生が行動に参加。重軽傷者は800名を越える惨状。14日夜に政府は突然に測量中止を発表し、地元では勝利のデモが繰り広げられる」

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December 13, 2007

『南洲遺訓』にみる「無私」という思想

                                                       

かつて日本のいたるところに、上質な人間がいました。
たとえ経済的にゆたかではなくても高邁に振る舞い、
上に媚びず下には謙虚に接し、自己主張することもなく、
他に善かれかしと思いやる
―そんな美徳を持った日本人がたくさんいました。

 

                                                       

  この言葉は、稲盛和夫著『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』のプロローグ冒頭に書かれている言葉。読み始めて、いきなり心を打たれてしまった。

  昨晩は、風呂に入りながら、『西郷南洲遺訓』の原文をじっくりと通読した。頭山満の『西郷南洲遺訓講話』を含めて、『遺訓』は何回か読んでいる。座右においている『言志録』とともに、これからも、おそらく生涯、繰り返し読んでいくべき本である。
  私だけでなく、西洋文明(イルミナティか…)に汚染された現代文明が崩壊しつつある今だからこそ、日本人は『遺訓』をしっかり読むべきだと思う。

   こうして『遺訓』を再読しているうちに、本屋で立ち読みした稲盛和夫氏の『人生の王道』がどうしても欲しくなり、清水の舞台から飛び降りるような気分で、この本を買ったのだ。近頃、とくに新刊(この本は1700円+税)を買うときは、経済的側面からこのような心境にならざるを得ない。その後、ドトールで途中まで夢中で読んだが、やはり買ってよかった…。

   『遺訓』は稲盛氏が坂本龍馬の言葉を引用して書かれているように、「大きく叩けば大きく鳴る、小さく叩けば小さく鳴る」。読む人によって、大きくなれば小さくもなる。読み方によって変幻自在の書物である。

  かつて、やはり尊敬する渡辺昇一氏の『遺訓』の解説を読んだことがある。「そうじゃないだろう」とどうしても納得がゆかない部分にぶちあたった。不愉快にもなった。それで、その渡辺氏が『遺訓』を解説した本を読むのをやめてしまったという経緯がある。

  冒頭に掲げた“上質な日本人”とは、「無私」の人といえよう。
 
  稲盛氏の『遺訓』を語った本のどこに感銘を受けたのか。それは「無私」に焦点を当てている点にある。
 『人生の王道』にはこう書かれている。

                                                  


 

  「西郷は、この『無私』という思想を一貫して主張し続けました。私心を排することが、リーダーにとって最も必要な条件だということを、西郷は『遺訓集』の全編にわたって述べていますし、西郷の思想はすべて、この『無私』という考え方に帰結するといっても過言ではありません」

                                                       

 

  「無私」ということが『遺訓』すなわち“西郷そのもの”であれば、焦点を当てるもなにもないかもしれないが、とにかく、西郷南洲という人は、語る人によって、さまざまに語られてきた人である。その真実の姿を知るには、矛盾するようでもあるが、読む人によって大きくもなれば小さくもなる『遺訓』を深く読むことから出発するしかないのではないか。

                                                   

            この原稿は11月29日に記入し、ミクシーに載せました。                                       

                                                      

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ダジャレをバカにしたらあきまへんで

                                          

                                          

親父ギャグをバカにしたら

                                        

あきまへんで。

                                        

ダジャレっつうのは、

                                            

日本の文化でっせ。

                                           

そうやろう?

                                       

日本語ほど、ダジャレがつくりやすい

                                       

言葉はないんとちがいまっか。

                                         

それは、日本語が

                                          

よりホリスティック(※)

                                        

ちゅうことやろう!

                                                                   

だからエライねん。

                                           

                                           

なあ、おっちゃん。

                                      

(※holistic ギリシャ語の「holos」=「全体、全人的」が語源)

                                             

                                               

                                                          

                                                              

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多面的なことば

                                                                     

野田秀樹さんが久しぶりに

作品「キル」を上演するそうだ。

「キル」とは、

「着る」であり、

「切る」であり、

kill」である。

だから、日本語ってすき!

Don’t be a “silly”!(ばかを言うな)

“Silly(尻)は、日本語ではない。

                                                                        

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ならうよりもなれろ

                               

                                  

                             

今、私の中に

                                

                            

「ならうよりもなれろ」

                                 

                            

ということばが

                                

ぐぐっとはいってきた。

                                    

                                

                               

「ならう」と「なれる」。

                                    

                                    

                                 

「なれる」と「なる」。

                                                                

                                                                    

                                                                                          

                                                           

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ペン習字をならう人を尊敬す

                                              

                                       

新聞紙面より

●ペンのみこちゃんを

見なくなってから久しい。

ぼくは今の時代、

ペン習字をならう人を心より尊敬する。

                                                                              

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ひらがなでこじきを

                                             

ひらがなで

こじきをよみたくそうろう

こじきをこつじきと

まちがえてしまうような

ひらがなで

こじきをよみたくそうろう

                                   

                           

                                     

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神さま仏さま数値化さま

                                                                                                                                                       

なに?客観視するために

数値で表しましょうだって。

ふざけるな!

数値で表そうっちゅう

主観がもう入ってるじゃねえか。

                                                           

                                                        

                                              

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          「まっとう」へ

                                             

                                                   

                                                 

          しる。

                                              

          しる

                                             

          よりも

                                             

          つかむ。

                                              

          つかむ

                                              

          よりも

                                                

          なる。

                                              

          なる

                                                

          よりも

                                                

          ある。

                                                

                                                

                                                

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日本語は経(たて)がほんとう

日本人はいつから、

こんなに従順な民族になってしまったのか。

たとえば、パソコンの横書き。

腹立ってきませんか?

こうしたブログも、普通のホームページも、

メールも、みんな横書き。

ウインドウズにくっついているワードだって

縦書きにしたことがある人は分かるだろうけれど、

横書きより使いにくい。

そもそも日本語は縦書きでこそ、一番生きてくる

言語ではないだろうか。

横書きにすると、「魂」―「霊」が抜けてしまいやすい。

(自己流の)言霊(ことだま)的な見方からいうと、

縦―経(たて)とは、経に燃える「火」であり、

「霊(ひ)」であり、日本の「日(ひ)」である。

縦書きで日本語を読むと、ストンと腹(丹田)に

言霊が落ちてくる。

緯(よこ)―横書きにすると、右の耳から左の耳へと

スーッと抜けやすい。

(あくまで独自につかんだ、自己流の解釈ですが・・・)

それなのに、日本語に横文字(英語など)を引用したとき、

縦書きだと入れにくいだと?

英語に合わさずに、日本語に合わせろ!

と、なぜいえないのだろうか。

もっと、怒っていいのではないか。

日本語の横書きの問題も、

長い目で見れば、民族の存亡にかかわる

重大な事であると、ぼくは思っているのだけれど、

それでだけではない。

一事が万事―この通りに

ありとあらゆるものを、

従順に許してしまっている。

日本の歴史がそうであったように

受け入れることはとても大切だけど

いくらなんでも、

アイデンティティーに関するところは

絶対に入り込ませていけない。

従順であるべきではない。

それなのに、どんどんどんどん

入り込ませてしまっている。

だから、多くの日本人が

自分を見失ってしまっているのだ。

「魂(霊しい)」が抜けた「からだ(空だ)」に

なっているのだ。

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December 12, 2007

タバコは悪くない?悪いのは・・・

ぼくはタバコを吸わないし、

受動喫煙(※参照)も

できれば勘弁していただきたい。

                                            

(※)夫喫煙、肺腺がんリスク増=37%で発症原因に-厚労省研究班(時事通信

)

                                       

しかし、タバコそのものがほんとうにガンの原因になるのか。

おおいに“怪しい”と思っている。

                                                                  

各先住民族では昔からタバコを吸ってきたし、

シャーマンにはタバコはかかせないという。

そして、彼らの共同体の中ではシャーマンは

病を治してしまうような絶大な力をもっている。

ところが、ある先住民族のシャーマンは

タバコをささげないと儀式をしてくれないそうだ。

(徳間書店『まもなく世界は5次元へ移行します』より)

おそらく力を失うのではないか。

                                         

タバコを吸うことによって先住民族が

ガンになったとは聞いたことないし、

もしタバコを吸うことによって、ほんとうに

当人や周囲の者たちがガンになっていたなら、

タバコは彼らの文化として根付いたろうか。

とにかく、文明人ヅラして彼らから

タバコを取り上げることだけはやめていただきたい。

                                       

タバコとガンの真因について、以下の文章を紹介したい。

(デヴィッド・R・ホーキンズ著『パワーか、フォースか』より)

                                             

例えば、タバコが発ガン性物質であることは、

今日では教義化されています。しかし、私たちの研究によると、

有機栽培されたタバコのキネシオロジーテストは強い反応を示し、

普通のタバコのテストでは弱い反応でした。

タバコは1957年までは

(※モモタロウ注―この年から製造過程で

発ガン物質が加えられるようになった)、

発ガン性物質として注目されませんでしたが、

現在では製造の過程で化学物質

加えられたため、発ガン性物質が含まれているのです。

(中略)

(※モモタロウ注―喫煙者の肺ガンを防ぐ)

もう1つの解決法は、

製造プロセスから発ガン性の化学物質を見つけ出し、

取り除くことです。

                                               

別にタバコ屋さんの肩を持つわけではないが、

「タバコが悪い!タバコが悪い!」と大合唱をしていて

“真実”を見過ごしているのではありませんか?

ということを言いたい。

そうすると、ほんとうの“悪”が隠されてしまう。

それが、一番、いけない。

                                  

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December 08, 2007

人は自分の主人になれ

作家の曽野綾子が好きだ。

といっても、そんなに作品を読んだわけではないが。

この人の主張には、自分も大切にし、他人も大切にするというほんとうの意味での“個人主義”がある。その個人主義は生半可なことでは許されず、ときには闘って勝ち取らねばならない。自己の運命に対して責任を取り、受け入れる。そして、そうした生き方に徹した人は、たとえ立身出世をしなくとも、いつしかいぶし銀の存在になれる。

                                            

一言でいえば、「随所作主 立処皆真」

すなわち「随所に主となれば、立処皆な真なり」(『臨済録』示衆)である。

                                     

                                      

以下は、「『いい人』をやめると楽になる」よりの抜粋です。

                                       

「母はお金の周辺のことも、私に教えた。人に勧められて何かを買ってはいけない。自分が欲しくて買いなさい。何にお金を出して何に出さないか、世間のしきたりではなく、自分の好みで決めなさい。決めたら、人に何を言われても、恐れないこと。

 つまり母が私に教えたのは、人は自分の主人になれ、ということだったのだろう。あるいは、人間は能動的になるべきであって、神から受け取る運命以外は、受動的であってはならない、ということである。」

                                    

人は自己の生き方を選ぶべきなのである。そしてそれはまた一人一人に課せられた任務であり、社会を支える偉大な要素になる。人は違っていなければならない。人と同じようにしたいのだったら、何かに「抜きんでる」などという望みはやめて、まったく目立たないこと、その人がどこにいるのかわからない状態に甘んじなければならない。個性を認められる、ということには孤独と差別に満ちた闘いを覚悟するという反対給付がつく

                                     

「人がするからいい、のではないのである。人がしてもしないし、人がしなくてもする、というのが勇気であり、品位である、と私は教えられた。しかしそういう教育をしてくれる人に出会うことはめったになくなった。」

                                       

「神父さま、愚痴を言わない、恨まない、感謝するというだけで、その方は、存在の香気を放たれるものですね。私はその時まで、そんな単純なこともわからなかったのです。」

                                 

  「神父さま、人間にはどうしても譲れないことと、譲れることとがあります。人間の根本的な思想に関わることは、譲れない場合も多いのです。」                                                               

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成功よりももっと大切なもの~「洗心洞箚記」の一節に学ぶ

                                    

現代の日本人は、成功か不成功かで、人生のすべてを決めてしまう傾向がある。

その人が成功者と呼ばれると、人格の高低にかかわらず、多くの人が学ぼうとする。成功不成功とは縁のない一般庶民の中にも、立派な人はたくさんいるにもかかわらずである。

 成功よりもっと大切なものがある、それをよく知っていたのが古人である。

 安岡正篤の『百朝集』では大塩中斎の「洗心洞箚記」の一節を紹介している。

英傑大事に当つては固より禍福生死を忘る。而て事適々成れば則ち亦或は禍福生死に惑ふ。学問精熟の君子に至つては則ち一なり。

安岡氏はこれを解説して(通釈ではありません。以下、抜粋)

(英傑は)何か事に当って己が全知全能を傾け、ために余念の無い時はよいが、そういう問題が無くなって心に弛みの生じた時、あるいは事・志と違って混乱の生ずるようなことがあると、自ら関する所が大きいだけに惑いも大きい。

君子は功名富貴を念とせず、学問精熟を旨とする。その学問とは何であるか、窮して困まず、憂えて意衰えず、禍福終始を知って惑わぬ心術を養うを本義とする。

現代は、皆がみな、小さな英傑になろうとしている。そして、成功できなかったとき、たとえ一時は成功しても転落したときに耐えられず、自ら命を絶つ人もいる。

昔の日本人の多くは、元より、「成功したい」なんて気持ちは毛頭なく、それより、今、この生をいかに生きるか、充実させるかがだけが一大事だったのではないか。論語にはこんな言葉がある。

死生命あり

富貴天に在り

〔通釈―講談社学術文庫『論語新釈』より〕

 人の死生は天命であり、人の富貴は天の与えるものであって、人力でいかんともすることはできない、ただ順い受くべきものだ。

「死生や富貴を人の力でいかんともできる」と思っているところに現代人の悲劇があるのかもしれない。

願わくば、残りの人生、「いかんともしがたい」ことよりも、この手で届くことを着実につかみながら、充実した生を送り死を迎えたいものだ。

                                  

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December 07, 2007

ジョン・レノンの映画公開

                                      

ジョン・レノンの映画

「PEACE BED アメリカVSジョン・レノン」

明日(12月8日は彼の命日)より始まる。

ぼくは思うのだが、自分も含めて日本人は、ジョン・レノンやケネディ大統領、キング牧師、マルコムX・・・、ほんとうの暗殺者は何者なのか、何が隠されているのか、可能性があるのか・・・、他国のことだけれど、もっと関心をもつべきではないか。

 その中から、ぼくら日本人が、生きるべき“座標”がより明確になるということもありうる。なぜなら、闇の存在を浮き彫りにしてこそ、より光が明らかになるから・・・。

以下、ウイキペディアより抜粋

ジョンの射殺に関しては、当初、ケネディ大統領の暗殺と同様のケースという主張や、「FBI関与説」なども持ち上がったが、現在は、冒頭の記述のように、「マーク・チャップマンの単独殺害」として結論づけられている(しかしオノや息子ショーン、先妻との息子ジュリアンはそれを信用していないといわれている)。

(太線、傍線は、ぼくがつけくわえた)

こういう本もジョン・レノンの命日、128日に合わせて発行されている。

「ジョン・レノン暗殺アメリカの狂気に殺された男」

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December 06, 2007

ウォルマート、西友を完全子会社化

                                                       

西友へのTOB成立へ(共同通信)

西友といえば、日本人、とくに、西武線沿線の住民に

とっては生活圏の中にあり、

もはや生活の一部となっているスーパーだ。

(うちも西武線沿線の住民)

つまり、ぼくらの衣食住と密接にかかわっている・・・。

お腹のど真ん中に悪名高き外資(?)が

入り込んできたようなものだ。

ウォルマートの傘下となってから

うちの地元の西友もだいぶ雰囲気が変った。

こういうも出版されている(まだ読んでいないけど)

こんどは、“完全子会社化”だ。

もう腹の中にもぐりこまれてしまっているのだから

仕方ない。

ぼくら消費者は、

見た目とか、安いということだけで、だまされないことだ。

(前の前の記事に書いたけれど)何よりも“生命(いのち)”を

大事にして判断することだ。

それにしても、アメリカの企業の株が軒並み下がる中で、

ウォルマートは少し上がっている(0.7%高)らしい。

米国株式市場=続落、信用収縮への懸念が圧迫(ロイター)

これはどういうことだろう。

西友の株式公開買い付け(TOB)の成功とも

関係しているのだろうか。

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December 05, 2007

なんでマスコミでやらないんだ!

あるブログで見つけました。

イラクに派遣された自衛隊員、

ほんとは死んでたのねぇ!(なんで女ことばなんだ・・・)

しかも何人も。自殺者もいて・・・。

下に引用した文はその問題の

http://www.shugiin.go.jp/itdb_shitsumon.nsf/html/shitsumon/b168182.htm

からの一部です。

このネタは、新聞だったら一面、

テレビだったらトップニュースに

なっていいことではないか?

自分の知る限りでは、

新聞でもテレビでも一度も見ていない。

マスコミはどうでもいいようなこと、

何度も何度も報道するばかり、

ちゃんと、こういうことを報道してくれ!

権力にへつらわずにさぁ。

(引用開始)

平成十九年十月末現在で、テロ対策特措法又はイラク特措法に基づき派遣された隊員のうち在職中に死亡した隊員は、陸上自衛隊が十四人、海上自衛隊が二十人、航空自衛隊が一人であり、そのうち、死因が自殺の者は陸上自衛隊が七人、海上自衛隊が八人、航空自衛隊が一人、病死の者は陸上自衛隊が一人、海上自衛隊が六人、航空自衛隊が零人、死因が事故又は不明の者は陸上自衛隊が六人、海上自衛隊が六人、航空自衛隊が零人である。

(引用終り)

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December 03, 2007

生命(いのち)は何よりも尊い

生命(いのち)は何よりも尊い

もし、自分の生命(いのち)を

自分で絶つことが許されるときが

あるとするならば、

それは他の生命(いのち)を

その死によってしか

生かせないときだけである。

生命(いのち)は何よりも尊い。

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西洋文明の“主観”(思い込み)から悲劇が生まれる

現代科学は西洋文明という

“主観”(思い込み)から生まれた。

その“主観”とは、自然と人間とは

「分かれている」という思い込みである。

「分かれている」と思い込んでいるから、

ほんとうは調和の中から

生まれたものであるにもかかわらず、

人間に危害を加えているようにしか思えず、

対象がなくなるまで徹底的に叩きつぶし、排除する。

科学の中の西洋医学でいえば、“病”を徹底的に叩きつぶし、

排除しようとする。

ガンという病でいえば、患部を手術で切り取るか、

レーザーで焼きつぶすか、抗がん剤で消そうとする。

戦争でいえば、ほんとうの敵なんていないのに、

敵をつくり、

徹底的に叩きつぶし、排除しようとする。

国でいえば、首領の頸を切り取り、

敵の兵や人民を爆弾で焼きつぶし、銃で消す。

残念ながら、現代社会というものは、

この西洋文明の“主観”(思い込み)を柱にして、

できている。

病を叩きつぶし、排除しようとすればするほど、

病は消えずに、むしろ悪化していくという

原理を知らないがゆえに、たくさんの悲劇が生まれる

という社会システムが出来上がっている。

このシステムから病だけでなく、

たくさんの悲劇が生まれている。

このまま西洋文明と

そこから生まれた科学の“主観”(思い込み)に

気づかなければ、世界は滅亡するだろう。

なぜならば、たとえば“病”や“敵”を攻撃するということは

自分自身を攻撃しているのに他ならないから。

「自分とつながっている“自分の一部”」を排除しようと

しているのに他ならないから。

いつかぜんぶがなくなってしまう。

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