成功よりももっと大切なもの~「洗心洞箚記」の一節に学ぶ
現代の日本人は、成功か不成功かで、人生のすべてを決めてしまう傾向がある。
その人が成功者と呼ばれると、人格の高低にかかわらず、多くの人が学ぼうとする。成功不成功とは縁のない一般庶民の中にも、立派な人はたくさんいるにもかかわらずである。
成功よりもっと大切なものがある、それをよく知っていたのが古人である。
安岡正篤の『百朝集』では大塩中斎の「洗心洞箚記」の一節を紹介している。
英傑大事に当つては固より禍福生死を忘る。而て事適々成れば則ち亦或は禍福生死に惑ふ。学問精熟の君子に至つては則ち一なり。
安岡氏はこれを解説して(通釈ではありません。以下、抜粋)
(英傑は)何か事に当って己が全知全能を傾け、ために余念の無い時はよいが、そういう問題が無くなって心に弛みの生じた時、あるいは事・志と違って混乱の生ずるようなことがあると、自ら関する所が大きいだけに惑いも大きい。
君子は功名富貴を念とせず、学問精熟を旨とする。その学問とは何であるか、窮して困まず、憂えて意衰えず、禍福終始を知って惑わぬ心術を養うを本義とする。
現代は、皆がみな、小さな英傑になろうとしている。そして、成功できなかったとき、たとえ一時は成功しても転落したときに耐えられず、自ら命を絶つ人もいる。
昔の日本人の多くは、元より、「成功したい」なんて気持ちは毛頭なく、それより、今、この生をいかに生きるか、充実させるかがだけが一大事だったのではないか。論語にはこんな言葉がある。
死生命あり
富貴天に在り
〔通釈―講談社学術文庫『論語新釈』より〕
人の死生は天命であり、人の富貴は天の与えるものであって、人力でいかんともすることはできない、ただ順い受くべきものだ。
「死生や富貴を人の力でいかんともできる」と思っているところに現代人の悲劇があるのかもしれない。
願わくば、残りの人生、「いかんともしがたい」ことよりも、この手で届くことを着実につかみながら、充実した生を送り死を迎えたいものだ。
The comments to this entry are closed.
Comments