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December 13, 2007

『南洲遺訓』にみる「無私」という思想

                                                       

かつて日本のいたるところに、上質な人間がいました。
たとえ経済的にゆたかではなくても高邁に振る舞い、
上に媚びず下には謙虚に接し、自己主張することもなく、
他に善かれかしと思いやる
―そんな美徳を持った日本人がたくさんいました。

 

                                                       

  この言葉は、稲盛和夫著『人生の王道 西郷南洲の教えに学ぶ』のプロローグ冒頭に書かれている言葉。読み始めて、いきなり心を打たれてしまった。

  昨晩は、風呂に入りながら、『西郷南洲遺訓』の原文をじっくりと通読した。頭山満の『西郷南洲遺訓講話』を含めて、『遺訓』は何回か読んでいる。座右においている『言志録』とともに、これからも、おそらく生涯、繰り返し読んでいくべき本である。
  私だけでなく、西洋文明(イルミナティか…)に汚染された現代文明が崩壊しつつある今だからこそ、日本人は『遺訓』をしっかり読むべきだと思う。

   こうして『遺訓』を再読しているうちに、本屋で立ち読みした稲盛和夫氏の『人生の王道』がどうしても欲しくなり、清水の舞台から飛び降りるような気分で、この本を買ったのだ。近頃、とくに新刊(この本は1700円+税)を買うときは、経済的側面からこのような心境にならざるを得ない。その後、ドトールで途中まで夢中で読んだが、やはり買ってよかった…。

   『遺訓』は稲盛氏が坂本龍馬の言葉を引用して書かれているように、「大きく叩けば大きく鳴る、小さく叩けば小さく鳴る」。読む人によって、大きくなれば小さくもなる。読み方によって変幻自在の書物である。

  かつて、やはり尊敬する渡辺昇一氏の『遺訓』の解説を読んだことがある。「そうじゃないだろう」とどうしても納得がゆかない部分にぶちあたった。不愉快にもなった。それで、その渡辺氏が『遺訓』を解説した本を読むのをやめてしまったという経緯がある。

  冒頭に掲げた“上質な日本人”とは、「無私」の人といえよう。
 
  稲盛氏の『遺訓』を語った本のどこに感銘を受けたのか。それは「無私」に焦点を当てている点にある。
 『人生の王道』にはこう書かれている。

                                                  


 

  「西郷は、この『無私』という思想を一貫して主張し続けました。私心を排することが、リーダーにとって最も必要な条件だということを、西郷は『遺訓集』の全編にわたって述べていますし、西郷の思想はすべて、この『無私』という考え方に帰結するといっても過言ではありません」

                                                       

 

  「無私」ということが『遺訓』すなわち“西郷そのもの”であれば、焦点を当てるもなにもないかもしれないが、とにかく、西郷南洲という人は、語る人によって、さまざまに語られてきた人である。その真実の姿を知るには、矛盾するようでもあるが、読む人によって大きくもなれば小さくもなる『遺訓』を深く読むことから出発するしかないのではないか。

                                                   

            この原稿は11月29日に記入し、ミクシーに載せました。                                       

                                                      

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