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December 21, 2007

自分が自分に反る読書・学問

                                                                                                                                       

T.E.さん、すばらしい冊子を

お送りいただき有難うございました。

心より感謝しております。

ここ半年ばかり、書店の棚でたまたま出会った書物や

そこから派生して、まさに「偶然の一致(シンクロニシティ)」で

結ばれた縁にあえて身をまかせて

勉強をしてきました。

すると、もともと大した知識を持ちえていなかったものですから

尚更なのでしょうが、

国際情勢や経済、歴史、環境問題、

医療・健康問題について、

(医療問題は天から与えられた自分の

テーマの1つと思っております)

視野をぐんと広げられ、1つ1つの「つながり」が

自分なりに見えてきたように思えました。

(他の方と比較したらどうであるかはわかりません。

あくまでも、今までの自分以上にということですが)

そのため、そればかりに夢中になってしまい、

自己を養うための読書というものが

おろそかになっていました

つまり、頂いた冊子にある「外物を追う」

読書にばかり偏ってしまっていたのです。

(そもそも経・史・集・文学・健康(-身体)を)

自己修養のための読書テーマにしていたのですが・・・)

ただそうした(外物を追う)学問(読書)も、

神様が必要があって自分に勉強させたのだ

ということを、結果から見て確信しております。

そろそろ、そちらに傾いていた針を

どちらにも傾いていない

ニュートラルな状態に戻しなさい。

まるで、そう肩を叩かれたかのように

気づかせていただけたのが、

いただいた冊子

「安岡正篤講演録『藤樹・蕃山両先生と今後の学問』」

でした。

これからも、実践を前提にした人間学とともに、

視野を広げるための社会科学のような

勉強も続けて行きますが、

これをきっかけに、

両者が、志に向かって一致していけるような

努力を積み重ねていきたいと思っています。

それでは、ここで、

ペーパービューの少ないサイトではありますが(苦笑)、

通り過ぎてくださるどなたかの参考のためにも、

この講演録の中から一部、抜粋して紹介させていただきます。

ぼくが、一番初めに心打たれ、

全体の中でももっとも感動した文章の1つです。

(傍線・太字は私がつけました。)

さて、藤樹先生、蕃山先生を追想致しまして、なによりも先づ気のつくことは、先生達がいかに真剣に学ばれたかということであります。その真剣に学ばれた先生達の学問というものはどういう学問であったか、今日世の学問とどこが違うか、ということを先づ考えさせられるのであります。先生方の性命を打込んでされた学問というものは、決して外物を追う、単に知識を得る、或は資格を得る条件にする、というような功利的目的のためではないその最も大切な意義は、自分が自分に反る、本当の自分を把握するということであった。自分というものをはっきりつかんで、自分の本質を十分に発揮するということであったわけであります。

  学は覚りなり

 一体人間の存在、その生活というものは、これを大にして言うならば人間の文明というものは、先づ人間が本当の自分に反って自分を役立てる、ということの上に立たなければ空々寂々であります。藤樹先生が殊に研鑽された孟子の中の名高い一語にも、「君子は必ず自ら反る」と言っておる。これは大事なことであります。先づ自らが自らに反る、自分が自分に反る。そこからはじめて本当の生、生きるということが生ずるのであります。

私が取材をした

あるホリスティック医学を実践する医師は、

がん患者の治療にあたって

「ほんとうの自分」を取り戻させることを

主眼においていました。

これは、心理学やスピリチュアリティなど

いわゆる最先端の世界からきたものであると思いますが、

くしくも、江戸時代初期の藤樹先生や蕃山先生の学問と

一致しているということが面白くもあり、

驚異でもありました。

  ただ、安岡正篤先生は「本当の自分を把握する」と

解説されていますが、

藤樹先生、蕃山先生が性命をかけて

学問に打ち込んだということは、

すなわち、全生涯全生命をかけて

「本当の自分を把握」しようとしたということになります。

  それくらい、「自分を知る」「把握する」ということは

容易くないことなのです。

簡単にほんとうの自分をつかめると思っていた

自分に恥ずかしさを覚えるとともに、

誰にとっても容易なことではない、

ましてや藤樹先生や蕃山先生にとっても

そうであったことを知り少しほっとした次第です。

『講演録』よりの文章はだいぶ長い引用となりましたが、

パソコンのキーボードを打っていても

倦むことはありませんでした。

おそらく、この文章やこうした分野の世界が

大好きだからでしょう。

 いただいた冊子は繰り返し読ませていただきます。

 あくまで、「天地の為に心を立つ」(※)を

  目指して精進して参りたいと思います。

 あらためまして、T.E.さん、ありがとうございました。

  心より感謝しております。

                                                                                                                                                                     

※「天地の為に心を立つ」について

 これはどういう意味かと言うと、つまり人間の心というものは天地・自然が人間を通じて立てたものである。自然は、天地は、何億年何千万年何千年といろいろ植物動物をつくったわけでありますが、その人間が五十万年もかかってやっと人間らしくなって、その人間の中に高邁な精神的存在、即ち心というものを発達させ、文明、文化らしいものをつくって先づ五千年と考えられておる。従ってわれわれが心を持っておるということは、言い換えれば天地が心を持っておるということです。われわれの心は天地の心である。われわれの心は天地の心である。天地が発してわれわれの心になっている。(「安岡正篤先生講録『藤樹・蕃山先生と今後の学問』」より)

                                                                            

                                                                                                                                                      

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