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April 30, 2008

そんなことは二の次だ

自分が好きなことをする、

自分を生かす。

自分を大切にする。

自分らしく生きる。

自己実現する。

自分の夢を追う。

私もよくこのブログに

書いている

これら

現代の多くの日本人が

求めていることは、

大切なことかもしれないが

ただそれだけなら

恥ずかしい、

というに近い感情を

私はもっている。

たとえば

自分の好きなことをして

公(‐人類、地球、世界、社会、

国、人、皆)

のために役立つ

ということなら、まだわかるが、

それでも足りない。

私の信念化している価値観であり、

それにもとづく感情は~、

公のためになるような

自分が好きなことをする。

公のために

自分を生かす。

公のためになるために

自分を大切にする。

公のためになるために

自分らしく生きる。

公のためになるために

自己実現する。

公のためになるという

自分の夢を追いかける。

ということでなければならない

と強く念(おも)う。すくなくとも

そうありたいと思って生きてきた。

自分の個性を生かそうとして

押し出す者の個性に

ろくなものはなく、

個性などないといっていい。

対象に尽くすがゆえに自ずと

発揮される個性こそほんとうの

個性だ。

そのようなことを

評論家の小林秀雄は言っている。

また全一学の哲学者、森信三は、

現在わたくしは、旅には「負い籠(おいこ)」を

よく利用しますが、持ち物の中でもこの

「負い籠」は、私という人間の

一象徴とも言えましょう。つまり

みえや外見に拘らないで、自分にとって必要な

ことの一切を、徹底的に自己に一元化して、

つねに一切を提げてこの人生を歩きつつある

私の姿の、ひとつの象徴的投影といっても

よいからでしょう。

戦後の日本では、おそらく

バッグやリュックではなく

「負い籠」をしょって歩くのは

かなり目立ったのではないかと

想像できるが、

森先生は、それを目立とうとして、

自分の個性を見せようとして

行っていたのではなく、

誠を尽くして生きている結果、

自然にそのようなスタイルに

なっているということであろう。

誠を尽くす対象は、

もちろん、

公であり、

神であり、

天とも呼べるものであろう。

人を相手にせず、

天を相手にせよ。

天を相手にして

己を尽くして、

人を咎めず、

我が誠足らざるを

尋ぬべし。

   西郷南洲

公に誠を尽くした

結果、自然にあらわれるものが

きっとほんとうの個性であり、自分であるのだ。

いまの日本では老若男女、「個性」、「個性」と

うるさいが、

道徳に縛られていたはずの昔の日本人と比べて、

個性ぶっているだけで、

実業家だとか音楽家だとか職業で区別できても

その人の輪郭がはっきりした大物が少ない

ような気がするのは、そのせいではないか。

もっとも、自分もそうした没個性の社会に埋もれる

者の一人であるが、

「個性」の名において、何の反省もなく、

開き直って利己主義を実行するような

人間にだけはなりたくないと自戒している。

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April 29, 2008

若者の教祖という言葉が蔽い隠しているもの

                                                                  

尾崎豊のことを

若者の教祖という。

なんていやな呼び名であろう。

自分たちがもっている

いたみやかなしみを

尾崎豊をみると

まともに見えてしまうがために、

若者の教祖という

蔽(おお)いをつくって、

見えなくしてしまった

のにちがいない。

尾崎豊が

他人様の庭先で

まるはだかになって

一人まるで一見きちがいの

ようになって

死ぬという

およそ一般の

立派な教祖様の

イメージとはかけはなれた

死に方をしているにも

かかわらず、

教祖に仕立て上げる

ことをやめない

ものたちがいる。

もっとも、

宗教の多くの

教祖たちは、

からだはそうではなくても、

民衆のいたみやかなしみを

共有して、

そのいたみやかなしみを

まるはだかのままに、

かかえて、民衆の、

いたみやかなしみを

そのままにいたみ、

かなしみながら生きて、

死んでいった。

尾崎豊もそれに近いの

かもしれない。

いま、多くの宗教が

それぞれの教団の教祖が

在世していたときは

そのものであった

こうした

まるはだかな

いたみやかなしみに

蔽いをかけ、

宗教は蔽いであると

たとえられるような

状況をつくってしまっている。

尾崎豊を教祖といって

自分たちの目に見えない

ところにおいやる大人たちは、

知らず知らず、

自分たちが軽蔑している

宗教団体と

同じことをやっている。

ただ尾崎豊を若者の教祖、

十代の教祖といって

自分たちの教祖にして

いないだけだ。

このことを

ひとことでいえば、

自分たちだけではない

多くの人のいたみやかなしみを

蔽い隠してしまっている

ということである。

ずるく立ち回ることができ、

蔽いで隠すことができる

こうした

この社会で

強いとされている人間であるならいい。

ただ今の時代、

弱いとされるにんげんは、

誰に支えられることもなく、

ただいたみ、かなしんで生きて

死んでいくしかない。

蔽われているから。

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April 28, 2008

てらい

どうしても

ことばに衒(てら)いが

出てしまう。

正直に書けない。

このことばもそうでしょ?

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April 27, 2008

1000万人が見ている世界より

                                                                                  

大勢の人から見られたいという

ことが一番の目的なら、

どんな犠牲を払ってでも、

テレビで書くのをやめていなかったであろう。

視聴率1%で100万人、

10%で1000万人が見ていると

いわれる世界より

もっと大事なことがあると信じたから

こうしてブログで書いている。

その意味で、

訪問者数・更新数は

気にならないといったらウソだが、

自分が大事にすべきことを

追及する場で、

むしろ気にしてはならない、

とらわれてはならないと、

自分を裏切ることがないよう

戒めている。

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April 26, 2008

人に見られているという期待だけで生きていけるのかもしれない

                                                                              

「キビダンゴをあげる!」

というこのブログのタイトルは、

私のハンドルネームがモモタロウであり、

桃太郎のキビダンゴのように、

読んだ人を励まし、元気付けられるような

ものを書きたいという意味を込めた。

勿論、犬、サル、キジのように誰かを

餌付けしたいというような意味ではない。

ところが最近、つくづく思うのは、

人を励ますというのは、

そう簡単にできることではないということだ。

今の自分には、その人を深いところから

ほんとうの意味で励ませることなど

できやしない。

励ましているつもりになって

いい気になっている自分、

浅はかな自分というものを

露出しているだけのこと

のように思える。

人を深く励ます・・・

人を深いところから励ませるようになる

もしかしたら、

生涯「あこがれ」のまま

終わってしまうかもしれない。

たとえそうだとしても、

追いかけていくだけでも、

意味があること

であろうけれども。

ただいえるのは、

この「キビダンゴ~」というのは、

自分への励ましに、

結果的になっているということだ。

とにかく

パソコンの画面に

打ち込まれた言葉は違うけれど、

「生きなきゃ、生きなきゃ」と

キーボードを打ちこんでいる

ようなものだ。

こんな文章しか書けない自分であるけれども、

分野はともかく、

なんらかのものを書くことしか、

これまでの経歴と年齢から

いっても

この世に自分の仕事‐天職が

あるとすれば、

その可能性を未だ見出せない自分にとって、

収入になる仕事が

ほぼ得られていない現在、

ブログに打ち込むことによってのみ

その使命を果たせているような

錯覚を自分におこさせる

気休めの真似事になっている

ということでもあろうか。

何かの拍子に書き込みが途切れて、

また何かの拍子に書き始めると、

ここで止めたら、

すべてが終わってしまう、

というような強迫観念におされて、

思いついたことを思いつくままに

近頃は書いていることが多い。

そうでもなければ、

書けないというのもある。

自分はほんとうは書くことが

好きではないのかもしれない

と何度おもったことか・・・。

そしてその疑念はじつはまだ

ふっしょくできていない。

ブログだから大学ノートに書くのと

違って誰かに見られることが

あるとわかっていながら、

いや、そうであるからこそかもしれないが、

書き込めているという

ことはあるのだろう。

人は誰かに実際には見られていなくても

見られているかもしれないという

期待だけでも、生きていけるの

かもしれない。

だから、

私はブログを書いて人を励ませる

わけでもなく、

自分を励ましているわけでもない。

誰かがほんとうには読んでいないとしても

読んでてくれているかもしれない

という期待によって励まされ、

書かしてもらっている。

ブログの中で生かしてもらっているのだ。

自分以外に人がいる・・・

というのは、ただそれだけで

きっと有難いことだ。

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April 25, 2008

やるしかない

才能があってもなくても

好きであっても嫌いになっても

やるのが楽でもつらくても、

努力できてもできなくても

人よりできても劣っていても

これしかないのだから、

やるしかないんだよな。

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宿命を受け入れる

                                                                        

ありのままの自分を受け入れて生きる

ということは、

避けようのない運命

つまり宿命を受け入れて生きる

というところまで、

いかなければ真に腰が据わらない

のかもしれない。

でも、自分にそれができるかどうか・・・。

身近な大切な人がいなくなるのに

ふたたび堪える自信はないし、

それを考えるだけで、

おそろしくなってくる。

誰にでも

もう一度もどって

やりなおしたい

過去があるのだろうが、

戻るわけには

いかない。

殺したいような

相手との出会いで

あっても、

だからといって

相手を抹殺することはできないし、

たとえできたとしても、

そうしたがゆえに、

心の中に

相手がしみついて

ますます消し去ることが

できなくなるであろう。

多くの人間が神仏に頼らざるを

えないのは、

こうした受け入れざるをえない

宿命を受け入れることができるように

なるためではないか。

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「大河の一滴」と“ひまわり”

ベストセラーを売れている

ときに読むのは苦手だ。

当時今は亡き母が

入院していたベッドの

隣にいた重い腎臓病の女の子に

母にいつも親切にしてくれている

お礼ということで、

そのときのベストセラーの

五木寛之著の『大河の一滴』を

プレゼントしたことがある。

彼女は本を読むのが好きだと

聞いていたから。

実は買ってきた私自身が

その本を読んだことがなかった。

自分には、

それがどんな内容のものでも

今流行っているものを軽蔑する

傾向があって、

『大河の一滴』が

苦しみにあえいでいる人間、

死の恐怖におびえているものを

励ますといったことが書かれている

といった大雑把な知識を知るのみに

とどまっていた。

そして、

まだ20代前半の若い女の子だし、

世間に読まれているもののほうが

いいだろう、

闘病の励ましになるのではないか、

とどこかで

タカをくくって

贈ったのだった。

その娘は、『大河の一滴』を

あっという間に読み終えて、

母にこう語ったという。

「いろいろ、考えさせられる本ですね」

母から聞いたその時の彼女の

様子は、

感動したでもなし、

励まされたでもなし、

でも勉強にはなったといった程度の

印象であった。

私は、彼女が好きだという、

ベッドのテーブルに生けられていた

ひまわりの鮮やかな黄色

と重ねて、

重い病気を抱えていても

この娘(こ)は

明るい性格の子で、

自分が抱えている闇よりも、

未来を見ている娘なんだな

と思ったものだ。

そして、今日、古本屋で

たまたま安く『大河の一滴』

の文庫本版があって、

あれから、10年以上、

たっているのだが

ようやく、購入して

読んでみる気になった。

日頃から五木寛之さんの

「かなしみはかなしみで

しか癒すことができない」

という主張に共感してきた。

講演会にも行ったことがある。

古本屋で手にして、

「私はこれまでに二度、

自殺を考えたことがある」

という冒頭の部分をみて、

無性に欲しくなったのだ。

そして、まだ少ししか読んでいないが、

この本のタイトルにもなった

「大河の一滴」の思想が書かれた

部分にきて、

あのときの女の子の、

反応が妙に納得できてしまった。

著者は、

「人間とは常に物語をつくり、それを

信じることで『生老病死』を超える

ことができるのではないか」という。

けれども、

私は人間が「大河の一滴」に

なりきれないから、

苦しむのではないか、

「大河の一滴」といった

ナラティブ(物語)の

中に入りきれないからこそ、

苦しみからなかなか逃れる

ことができないのではないか、

すくなくともいまの自分は

どんなに懸命になろうとしたって、

「大河の一滴」になれっこない・・・。

繰り返すが

五木寛之さんの主張には、

日頃から共感している。

励まされもしている。

だから、この本も

読み終わった時点では、

力になって

くれるかもしれない。

でも、いまの時点では

「大河の一滴」という

思想ではいまの私は救われないし

母の隣のベッドにいた

あの女の子もそうであったのだろうなと

気付かされたのだ。

彼女は若かったけれども

おそらく文学など

かなりの読書経験をつみ、

自分の現実と照らし合わせて、

とうじの私の、

いや現在の私でも足元にも

およばないくらいの、

自分と人生の闇を見つめて

生きていたのではないか。

絶望もしていたのではないか。

だからこそ、

その正反対に位置する

ひまわりの明るさに

強く引かれていた、

今は、そう思えて仕方がない。

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April 24, 2008

自分をふくめた“いま”を肯定する

自分の中の醜いものもふがいないものも、

すべてを肯定するということは、

自分を取り巻くすべての“いま”を

肯定することと同じであると思う。

なぜならば、自分を取り巻く

他のものと切り離された

単独の自己という存在はありえない

のだから。

そのときに、自分を許せない以上に

許せないものが、

自分を取り巻く“いま”の中にある

こともある。

たとえば、子どもや夫をほうっておいて、

友人と遊びにいったり、

自分のための仕事と、

習い事という呼び方をかえたレジャーに

家事も子育てもろくにせずに

うつつをぬかす母親だったりする。

でも、その女性の見た目が

服装のセンスもよく、

好みのタイプだったりすると、

他人の妻であり

母親であるにもかかわらず、

目を引かれてしまう自分がいて、

そうした自分に

強い嫌悪を感じることもある。

そんな自分と自分を取り巻く“いま”を

肯定していいものなのだろうか。

最近、

今の自分を完全に否定した上で

理想の自分をいくらめざしても、

形だけは取り繕えても、

ほんとうには

理想の自分に近づくことさえも

できない、むしろ離れていくのだ

ということに気付いた。

だから、まずは、自分というものを

全面的に肯定しようとしているのだが、

真に、自分を肯定するということは

“いま”を肯定することなのだ。

だから、“いま”の全部を

肯定しなければならない。

と頭では考えていても、

なかなか割り切れそうにない。

私の志は、理想の自分になるということよりも

理想の世界をつくることであり、

その意味でも理想の自分をつくる

ことが必要であると考えているのは、

そうした世界を作ることに貢献できる

ような自分になるべきであり、

理想世界の一員としてふさわしい

人物にならなくてはならない

と考えているからだ。

だとすれば、とにかく

とりあえずは、自分と、

自分を取り巻く

すべての“いま”をいったんは、

肯定しなければならないはずだ。

そのスタート地点から

つまづいている。

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April 23, 2008

ブログを脳にして考える

私は今、ブログ

(正確にはワードとココログ)を

自分の脳に代えて、思索をしている。

思索というたいそうなことではないとしても、

少なくとも考え事をしている。

ブログを自分の脳にかえての意味を

もう少しくわしくいうと、

ブログをつかって脳が考えているのではない。

脳とブログが一体となって一つの

脳を形成して、考え事をしているのだ。

考え事をするのが、脳ではなく心も

ということであり、脳の中に

心が入りきれていないということであるならば、

脳と心、つまり私の人格と

ブログ(それは、キーボードやディスプレー

などのハードも含まれる)が

いったいとなって、

一つの人格を形成して

考え事をしているのである。

なぜ私が今、ブログのかわりに

紙と鉛筆を脳にしていない、

正確にいうと脳の一部として

つかっていないのかというと、

一つの理由は字が汚いということが

ある。自分に対しての弁明も含めて

いうと、丁寧な字をとくに考え事をして

いるときに永続的に書けないという

ところにある。

すると、自分が自分で何を書いたか

わからないで考え込む時があるから、

思索が前に進まない。

だから、自分でも書いた字が読める

というワープロ(ワードなど)

がいいということになる。

(ワープロだけでなくなぜブログなんだ

という疑問はおいといて)

紙と鉛筆を使わずに、

ワードで思考することによって、

紙と鉛筆ではできていた

ことができなくなってしまう

側面ももちろんある。

紙は広ければ広いほど、

自由にかける。タテにもヨコに

斜めにも、へんな字でも、

へんな図でも自由に描けるし、

書ける。だから、

その点で、思考の方向に

重大な影響を与えるという事が

考えられる。

その点、ワードで書くと、

罫線をのぞいた白紙の設定にしていても、

縦書きなら縦書き、

横書きなら横書きと

さいしょの設定の影響のままに

すすまざるを得ない。

ましては、私のように、

ほとんど文字しか

打込めないような者には

紙と鉛筆でできることの

近いことすらもできない。

それでも、なぜ、

ワードなのかということになるが、

やはり自分の字がきたないということと、

もう一つは辞書をあまりひかなくても、

カナで打込めば漢字が出てきてくれる

ということも大きいのだと思う。

漢字をイメージして思索するのと、

ひらがなのままで考えるのとでは、

正確性においても、広がりにおいても

違ってきてしまうだろう。

(つまりは辞書を引くのが

面倒くさいからということになり、

今、それを反省しなければという

気持になったが・・・。)

あと、もう一つ、これは

結局はブログで思索するという

理由になるのだが、

一応、ブログにのせるという

動機ができるということだ。

ブログにのせることによって、

誰かが読んでくれるかもしれない

というすくなくとも

期待だけはもてる。

そうでもなければ、

それが未来の自分であっても、

自分に読んでもらおうと

今のところは、あまり思えない。

自分のとりとめのない、

思考の痕を

他人に読んでもらおうなんて、

実に虫のいい話だが・・・。

それを動機に怠惰な自分が

少しは考えることが

できている。

その意味では

実にありがたい時代だ。

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生きるとは自分の間合いにいることか

                                       

(前の記事の続きのつもりではなくても

続きにもなるのだが・・・)

生きるとは

「自分の間合いにいる」

ということであるならば、

自分は今まで

生きてこなかった

ということが

いえるかもしれないし、

今生きるのをのぞんで

いないとするならば

そのせいかもしれない

とも思えるのだ。

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私は生きたいのか?

自分ははたして

生きたいのか、

という疑問がわいてきた。

誰もが

生きたい

とおもって、

生まれてきたわけではない。

気づいたときには、

生きていたから、

生きている

ということが

スピリチュアル

(あるいは宗教上の)

視点をなしに、

現実をみた

多くの人の

ほんとうのところであろう。

だから

自分ははたして

生きたいのか

という疑問をじぶんに

問いかけることは、

無駄なことでは

あるのかもしれないが、

もしそう問いかけて

生きたくない

と答えがでたときに、

それはどうしてなんだ、

どこから来ているんだ、

どうしたら

生きたくなるんだ

と考えることが

できるという意味で、

無意味ではあるまい

と考える。

もちろん、自分の意志に

かかわりなく、

人間は

生きるのをやめることは

できない、

生きているから

生きているのだし、

死ぬから死ぬのだという

前提にたって

考えている。

                                        

                                   

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間合いからはずれる

                                    

剣道では構えより

間合いが大切だという。

「自分の間合いをつかめ」とは

剣道をやっていれば、

誰もが教わることであろう。

もしかしたら、

「自分の間合いをつかむ」よりも

まず「自分の間合いにいる」ことを

できるようにさせることの方が

習得の順番は別にして、

より優先されるべき事柄ではないか。

少なくとも、私は

「間合いからはずれる」ことを

無意識のうちにのぞんでいたように

思える。

それは、怠惰のせいかもしれない、

臆病なのかもしれない、

じつは剣道をしたくなかったのかもしれない。

つまり、一言で言えば、

「立会いをしているようにみえても、

立会いををしていなかった」

ということになろう。

私は剣道二段であり、

もう何年もやっていないのだから、

専門家からみれば、もちろん

剣道をすこしかじっただけの

しろうとの域を出ない

見解にすぎないかもしれないが

ここに書く必要を思ったのは、

自分の人生そのものが、

「間合いからはずれる」ことを

望んで今まできたような気がして

ならないという気持があるからだ。

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判決後の記者会見を見て

                                      

本日、母子殺害事件に

死刑判決が出たが、

ただマスメディアの情報を

かじっているだけの

私の意見に過ぎないのではあるが、

多くの国民がそう考えているように

妥当な判決であったのだと

思っている。

その事件があった

9年前といえば、

私のはじめての子どもが

生まれた頃だ。

同じく女の赤ちゃんであり

そのせいもあり

残された本村さんには

多くの日本国民同様、

特別なシンパシーを

感じてきた。

判決後の、今日の本村さんの

記者会見をほんの少しではあるが

聞いていて、

おそらくこれを見た他の多くの人とは

少し違った角度より、

同情を禁じえなかった。

それは、彼の言葉が裁判の

つまり戦いの言葉である

ということであり、

その言葉はおそらくこの

9年間というもの、

この大きな戦いの性質上、

日常生活にまで

浸透せざるをえなかったの

ではないかということが

垣間見られたということだ。

インタビューから感じたことは

相変わらず彼の優秀さが際立つ

ということであり、無駄がなく

そつなく、矛盾がなく、明朗で、・・・

という具合であって、

それだけに、妻子を失った

人間の誰もがおそらく

行き着くであろう

深まりというものに至る

余裕が感じられず、

彼のありのままの人間性、

心の襞をあまり感じられないような

言葉が発せられていた。

極力感情は抑えられ、

よくコントロールされている。

つまり、それが裁判というものであろう。

戦いに、隙を見せてしまったら、

つけこまれることになる。

そもそもが矛盾だらけの、

割り切れることのない

この現実世界を、

できるだけ論理における破綻をさけ、

割り切っていくのが

裁判だろうからだ。

ただ、裁判やその後の

記者会見でそうした言葉を

使うだけならいい。

ところが、それが本人にとって

重大なことで、

短い人生からみれば

膨大な時間を

ついやさざるを得ず

避けて通ることができなかった

事件であるが故に、

日常生活にまで、

その言葉を入り込ませざるを

えなかったはずだ。

おそらく、この9年間というもの、

ほんとうの彼が彼の言葉で

生きることができた

時間というものは

一般の勤め人以上に

極度に限られたものに

なってしまったのではないか。

彼の魂の中でさえ、

彼の真実の思いをつづることを

許されることはなかったであろう。

これが善、これが悪と心の中で

分けただけで、みずからの魂の

真実には到達することが

難しくなるはずだ。

始めの頃の、

マスメディアのインタビューにおいて、

泣き叫んでいた頃の

本村さんこそが、

事件の直後で

心の整理がいまだつかず、

まだ若くて

未熟なころのことであったとはいえ、

ほんとうの彼に近い

彼の姿であるのであろう。

そんなことを今回のインタビューを

少し聞いていて感じてしまったのだ。

そして、あくまでも、

今回の判決は妥当であると

傍観者の立場から

考えているものの

たわごとではあるのだが、

マスコミが被告の少年の

生まれてから犯罪にいたるまでの生い立ち、

歴史というものを客観視して、

報道するということがほとんど

見られなかったということが、

大きな問題であるのではないか。

被害者である母子については、

逆に、遺族や殺された本人に

とっては、気の毒なくらい

なんども繰り返し、

殺害されたときの

状況が詳細に

報道されていたようだが、

犯人が犯罪に到るまでの経緯については、

あまり大きく

報道されていなかった。

ようやく、高等裁判所における

差し戻し控訴審がきまってより、

結成された巨大弁護団によって

色眼鏡を通した犯罪の

背景というものは報道されたが、

マスコミによる客観報道は

残念なことに、自分はまったく

というくらい見かけることはなかった。

おそらく、あのような異常な犯罪を

おかす人間であるのだから、

恵まれた環境の中で、

愛情をもって普通に両親によって、

犯罪をおこなう18歳の年齢に

まで育てられたのではないだろう

ということは誰の目にも想像はつく。

もしも、こうした犯罪者の歴史が

マスコミによって正しく知らされて

いたとしたら、

たとえ死刑判決が同様に下ることは

避け得ないことだとしても、

国民の認識はかなり違ったことに

なっただろう。

もちろん、犯罪者や犯罪者の

家族の人権ということがあっての

ことでもあろうが、

それにしても、報道しなさすぎである。

それが未成年であればなおさら、

犯罪にいたるまでのそれまでの

生い立ちというものを

実名をふせてもいいから

客観的に紹介するということは、

犯罪の原因を突き止めることまでは

いたらなくても、それに

肉薄することができる。

そしてそれは

今後似たような犯罪を抑止するためにも

国民がぜひとも把握しておくべき

事柄なのだ。

なぜなら、犯罪にいたる

過程において、

その犯罪者にたいして、

家族のみならず、

世間の人間が

犯罪者やその家族に

対して、

どう接するかによって、

避けることができる

犯罪を実行させてしまうか

否かが

大きく左右されると

考えられるからだ。

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April 22, 2008

字余り

やめられない

とまらない

ブログ

―どう考えても字余りだ。

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踏みそこなう

書けるときに

書いとかないと、

ことばがスルっと

逃げてしまうことを

知っている。

逃げしてしまったら

なかなか戻ってこない

ことだけでなくて、

自分の歴史の

階段を

一歩とも呼べないような

ささいな一歩だけれども、

踏みそこなう

ことになることも

知っている。

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あ、

ぼくがかいた

あ を見つけた!

                            

                            

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空に刻む

パソコンに保存していても

トラブルがあれば消去されてしまう、

ノートに書いていても

紛失したり、焼失したりすれば

なくなってしまう。

でも、こうしてブログに

書いていれば、

いつまでも残っていてくれるだろう。

じつに不思議だ。

ぼくは、ひそかに、

ぼくが書いたことばが

つぎつぎと空に刻まれていて、

空にアクセスすれば

自由に取り出せるような

システムに

なっているんじゃないかと

にらんでいる。

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怖かった・・・

                                        

他人に傷つけられるのが

怖かったというより、

自分を見つめるのが

怖かったんだ。

自分が映った鏡を

見るのが怖かった

というより、

鏡に映った自分に、

自分を見つめられるのが

怖かったんだ。

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ふぬけ

私が自分の弱さや欠点を許そうと

つとめはじめてより、

長期間とまらなかった妻の

咳が止まった。

息子が元気になり幼児らしい

はじけるような部分がでてきた。

娘が前よりも私によりつくように

なった・・・

ただ、弱さを隠すことが

主要な動機で長年あっただけに、

立ち位置をうしない、

私自身は、

今、ふぬけのようになっている。

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俺という戦争

                                                           

あらゆる方面に

防御線をはる

慎重すぎる兵隊であるがゆえに、

ついには、

どの敵からの攻撃もとどかない

もちろん自分からの攻撃も敵に届かない

非戦争地帯で、

1人戦いをつづけている。

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10個も書いちゃった

きょうは10個も記事を書いちゃった。

と一人でつぶやく、この空しさ。

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発作のせいにすりゃ

                                                              

ぜ~んぶ、発作のせいにすりゃ

楽になる。

それが発作の原因かな。

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摂氏25℃の4月の或る日に(2)

                                                                                                                                 

摂氏25℃の4月の或る日に、

「おまえは、まだストーブを使ってるのか!」

と責めて、

「うるせえ、心が寒いんだよ」

と啖呵を切るおっちゃんの

ことばを聞き流してはいけないよ

ストーブも、ほかの物も、

人間のハートの“代用品”には

なるのだ。

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摂氏25℃の4月の或る日に

冷たい人間が増えたから、

それを補うために

地球があたたかくなっているのだ

という意見にもうそろそろ

耳を傾けた方がいいんじゃないか。

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脳で考えるのではなく台本上で考えるのだ

                                     

                                   

芝居の台本も、テレビの台本も、

シナリオも、小説も、

本質的には変わりはないのだと

教わってきた。

やはり現在でもそう思うのだが、

そこから離れてむしろ、

違いを前より感じている。

一番の違いは、芝居の台本も、

テレビの台本も、シナリオも、

小説も、脳やハートで

考えるというよりも、

芝居の台本の上で、

テレビの台本の上で、

シナリオの上で、小説の上で

考えるということだ。

よく芝居や映像を思い浮かべて…

ということが言われ、

そこに携わるものにとって、

それはあたりまえのことだが、

やはり芝居なら芝居の台本の上で、

テレビならテレビの台本の上で、

・・・・、と

書く人は考えていることには

違いはないのだ。

脳もハートもその台本上にできる。

別の表現をすれば、

芝居なら芝居のことばで、

テレビのバラエティー番組なら

バラエティー番組のことばで、

・・・・考えるのだ。

そして、そのことばは、

どこか離れたところにあるのではなく

台本上に、原稿用紙上に、

パソコン画面上にあると考えるのが妥当だ。

台本から離れたことばなど、

演出ではなく台本をかくものにとって、

芝居でもテレビでも、

シナリオでもありえないのだから。

ただ、この考えはテレビからも、

シナリオからも離れ、

戯曲も小説も書かない者の

たわごとに過ぎないかもしれないが。

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誰か助けて

誰か助けてくれ

と言ったら、

子どもが発作のとき

誰か助けてと

叫ぶようになった。

もう助けられているんだよ

といったら、

子どもは怒るだろうな。

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空想ということ

ぼくはずっと空想する少年だった。

なぜなら、友だちがいなかったから。

空想しなければ、つらくて生きて

いけなかったからだ。

学校の帰り道、一人で帰るのが

すごく長かった。

それで、テーマを決めて、空想をした。

石蹴りをしながら、空想するのが

楽しくて、たまに、誰かと帰る

機会があっても、一人で帰るほうを

のぞんだ。

その後、私立の中高一貫教育の学校に

入って、自分の空想を封印することを

あえて選んだ。

もう中学生になったのだから、やめようと

思ったのだ。

通学も電車とバスを使って

片道1時間もかかるし、

空想なんかして歩いていたら、

満員のホームで突き落とされてしまう。

授業に、クラブと忙しくて、

家で空想している

時間がなくなったことも事実だ。

でも、空想を封印したおかげで、

中学でも高校でも、

剣道部のキャプテンになれたのだと

今は思う。

そのことはその後も、

自分の自負心を形成してきた

生きていく支えにもなってきたものであったが、

今思えば、一方では大切なものを

捨ててこようとしてきてしまったんだなと

しみじみ思うのだ。

今、家族がいるけれども、

やっぱりまた一人でいて、

つらいということは、

子どもの時のようには感じないけれど、

ポキリと折れてしまってはいけないと

どこかで自分にいいきかせている

自分がいるようだ。

そのときに、あの自負心は

意外と役立つものではないのだなと

いうことがわかる。

封印してさび付いてしまった空想を

それがなんの稼ぎにも、

だれかのためにならなくても、

広げられるものならば、

もう一度、ひろく広げてみれば

もっと人にもやさしくなれるかなと

も考えている。

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嘆き

おれは何を恐れてきたというのか。

このおれが狂気だと認めることだ。

いまだに

おれは狂気だ、きちがいだ

と叫ぶことにふるえおののいている。

世間がありのままを

受け入れられるのは、

自分が狂気でなかったときだけだ

と感じている。

なにより狂気を認めることで

狂気がからだの中で

あばれはじめることが

こわくてしかたがない。

だから、机の下でひざをかかえて

縮こまっている。

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太陽は声をかけている

太陽に朝、あいさつをすると

太陽が一日、見守ってくれる。

そんなようなことを以前、

書いたことがあったけれど、

それを読んで、ウソつきと

思ったり、比喩として

表現したととらえ、

一蹴せられたように感じたのを

覚えている。

ところが、折々に、

同じようなことをいっている人の

発言を聞くことができて、

自分だけではないということを

知った。

それはファンタジー作家であったり、

作詞家であったりしたのだが、

決して、詩的な表現として

それを述べたのではなく

感じたままをのべているのだと

とらえられるか否かが、

それを「一蹴する」人と

そうでない人の違いであろう。

そして何より日々の中で

太陽に話しかけられている、

また太陽ではなくても

外のことでも、

感じたままを感じたままに

事実として受け入れられているか

いなかにかかっている。

実は現代人がこの地獄のような牢獄から

抜け出せるたった一つの抜け穴を

その点から考えてみるのは

面白いことだろうと自分は感じている。

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才能に代わりうる可能性を秘めたもの

いま、ひとつ危惧していることがある。

現在は基本的に喘息を

薬で止めさせていただいているのだが、

喘息を人工的に止めずに正面から向き合って

いたときのほうが、より刺さることばを発せられて

いたのではないかということだ。

読んでくださった方の反応も

ちがうように感じている。

薬を使わないで、呼吸困難の只中で

日々暮すという肉体と精神のぎりぎりの状況にこそ

人を生かさなくても突き刺すことばを

発するという可能性が秘められているのかもしれない。

それは才能のない者に與へられた天与の

ものかもしれない。

自分にとって唯一、

才能とは異うけれども、

代用になりうるものかもしれない。

と淋しく期待しながらも、

あの“地獄”にまた戻ることに、

おびえ、ふるえている

自分がたしかに存在している。

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“いま”は“なま”

                                           

ほとんどこのブログがメモのようになっている。

そのせいか、1時間ほど前に気付いたことをノートにメモし、

それをブログに起こそうとしたがどうもできない。

できることもあるだろうが、さっきはできなかった。

なぜか。それは“いま”から遠のいてしまったからに

違いない。ノートにメモしたものを少したって

パソコンに書き写すという手順をふむことによって

“いま”からはなれ“なま”ではなくなってしまったのだ。

だから、口に入れる魅力がかなりかけてしまった。

もっとも、ブログにする場合でも、

いつもこうしてワードに書き起こしてから、

ブログにしているのだが、

ワードからブログへと貼り付ける瞬間のことだけだから、

腐りにくいのだろう。

ところが、ノートに書いた走り書きを修正して、

パソコンにうつという作業をしているうちに

どんどん時間がたっていく。

ましてノートにおいたままだと、腐ってしまうか、腐らないにしても

古びたものになってしまう。

そこから取り出して、書き上げるという事は、

それが少しでも“いまの自分”に魅力が感じられるものとして

意欲をそそられながら文字にすることをするならば

新しく“なま”のものをはじめから作るということと

限りなく似た作業であるのかもしれない。

過ぎ去った時の中にいる自分と、いまの自分とはちがう。 

「“いま”は“なま”」という視点でみればよくわかる。

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April 21, 2008

まるっきり神だ

(↓の続き)

でも、自分というものにこだわってしまうと

泥沼に落ち込んでしまうよね。

自分というものはあるんだけどないんだ。

ここには、ある存在があるだけだ。

そして、存在はまるっきり神だ。

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自分を大切にしていない者に

自分を大切にしていない者に

人を大切にすることはできない

ということはよくいわれるけれど、

自分を大切にしていない者には

何を大切にすればいいかわからない

ということはあまり聞かないな。

だから自分を大切にしていない者には

人を大切にしていいのかわからないんだよね。

だいたいにおいて

人を大切にする気になれないんだもの。

その意味がわかるはずがない。

ようするに、

なにも大切にしていないんだよね。

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どこでどうまちがえたのか・・・

                                     

セイジンクンシをめざして

カオナシ(※)になっていたオレ

                                 

※宮崎駿監督『千と千尋の神隠し』に登場するキャラクター

(以下、ウイキペディアより引用)

                                                                              

カオナシ(仮面男)

  姿は黒い物体にお面をつけたような存在。か細い声を搾り出すだけで言葉は話せず表情も無い。人間の世界でもなく、湯屋がある世界でもない、また別の世界からやってきたらしい謎の存在。己を持たず、手からどんなものでも出す力を持つが、それはただの土くれが化けているものに過ぎない。また、他人を呑み込んでその声を借りてでしかコミュニケーションが取れない。(下略)

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April 20, 2008

どうしようもない

「どうしようもない」をなんとかしようとすればするほど

「どうしようもなく」なった。

「どうしようもない」ままうけいれたら

「どうしようもない」がしぼんでいった。

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孤独な棺おけ

                                                              

人間、棺おけに入るときにゃ

身一つ。何ももっていきゃあせん。

なんちゅうのはうそじゃ。

ちかごろみんな、財布も、タンスも、

冷蔵庫も、エアコンも、テレビも・・・

ぜんぶ棺おけに入れて、

1人死んでいくじゃねえか。

1DKの棺おけに。

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のっぺらぼう

目も鼻も口も眉もない

のっぺらぼうの顔じゃ、

さぞ訪ねやすかろうと喜んだが、

かえってどこにも行けなくなっちまった。

自分がいないからだ。

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叱咤激励

叱咤激励してもたかがしれている。

としっていても叱咤激励し続けるのは

なぜだろう。

不安だからだ。

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団地で一人死んでいった友よ

                                       

孤独の中で団地で死んでいった友よ

きみは同じ団地の隣に住んでいた

そして、もう何十年も会話したことが

なかった。

たった一人で団地で死んでいった友よ

きみは隣に住んでいた

何十年もあって話さなかったからこそ

友でいられたのだ。

ああ団地でたった一人腐敗し、死んでいった友よ。

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かくあらねば

                                       

今日も

かくあらねばと人を殺す

今日も

かくあらねばは

あってはならぬという

かくあらねばで殺される

ああ、かくあらねばの

理想を追いかけ

いきついた先がこれかよ

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April 19, 2008

ゆるむとゆるす

からだがゆるめば、

じぶんをゆるせる。

じぶんをゆるせば、

からだがゆるむ。

ゆるんでゆるし、

ゆるしてゆるめば

ひとをゆるせる。

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コメントへのお返事ができない

コメントへのお返事ができない。

ということで、だから、記事も書かないで

きたのですが、

できることからということで、

記事を書き始めましたら、

いっきにいろいろ書いてしまいました。

でも、まだお返事を書く気になれず、

他の方のブログを訪ね、ましてや

コメントを書く気になれないので、

しばらく、このままできることを続けたいと

思います。

今、外出から帰ってきて、手も洗わずに

キーボードを打っています・・・。そういうことは珍しいのですが

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いのちの突端

一燈を提げて暗夜を行く

暗夜を憂うるなかれ

ただ一燈を頼め

       『言志録』

自分の一燈とはなんだろう。

志といいきれる程の強さはない。

職もない。頼めるほどの技もない。

家族は大切だが一燈ではない。

物心ついたころから、40年間以上、

治ったと自覚したことが一度も

なかった喘息という持病こそが

今までもこれからも自分の一燈ではないか

という考えがふと心をよぎった。

いや、喘息というよりも

喘息すらもコントロールできずに

40年間以上も生きてきた

私の中にあって今まで

弱さと見てきた部分こそが

唯一、一燈でありうる可能性を秘めた

ものなのかもしれない。

森信三先生は、人生後半はご恩返しと

奉仕に生きなさいという。

残りの人生、今まで自分の弱さと

みてきた自分の中身を、

恩人を抱きかかえるように、

大切に、真綿にくるむように

尽くして生きていくのもいいのではないか。

なぜならば、その部分こそが

誰もとつながる大いなるいのちの

突端であるに相違ないから。

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April 18, 2008

弱さの自覚から始まったシラー

(※ドイツ文学でゲーテと並び称される偉大な作家シラーは)

最も高い意味で人間の自主性のために戦った偉大な詩人であった。その仕事は、人間というものが本来貧しくてよわいものであるからこそ、また彼自身の才能もゲーテにくらべては恵まれないからこそ、偉大なのである。天与の才能、疑いのない偉大さに甘えたのではない。ゲーテが言った、シラーの全作品をつらぬいている自由の理念とは、なによりも、そういうよわい人間が真と善と美へ到達しようと努力する自由なのであった。

『増補 ドイツ文学案内』岩波文庫別冊より

 

  あのベートーヴェンの第9歓喜の歌の作詩者であり、

世界の文学界において凡人よりみれば、

充分に偉大すぎる存在であるシラーも、

間近に屹立するゲーテという世界的な高峰をあおぎみて、

自分の才能や不遇、体の弱さに嘆いたこともあったであろう。

  しかし、

そこが最も凡人とは異なるところであるかもしれないが、

いたずらに嘆いて時間を無駄につかうのではなく、

みずからの居所をひるまずに見つめた上で、

くさらず驕らず死ぬまで、

あたうる限りもっとも高き頂きを目指していたことに

後世にまで届く彼の輝きあるのだ。

ゲーテは“あこがれ”であるが吾々からは遠すぎる存在であり、真似をしようにものっけから届かないと

諦めてしまいがちな存在だ。ところが、

ほんとうはシラーにもとても届くものではないにしても、

自分も彼のように生きれるのではないといった錯覚かもしれないが、

励ましを与えられるような強い何かをもっている。

シラーが晩年、病状悪化する中、

コーヒーに力を借りて鬼気迫る姿で、

作品と格闘したというくだりを読んでからは、

コーヒーを何倍でものむことをいとわずに

徹夜で仕事に取り組んだものだ。

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ああ死にたい

ああ死にたい。

きょうも呟いてしまった。

ガス抜きだ。

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儒教は強きもののためか

儒教というものは、

科挙(※)に取り入れられてきたように

しろうとめに見て、強いもののために

歴史を刻んできたように思えますね。

高層をながれる儒教の低層を

老荘がつねに、たゆることなく

ながれてきたというのも

一方で、よわきもののための哲学が必要になった

ということがいえます。

ところが中江藤樹が己を知るために

学んだということをきくにつけても、

ほんとうに、儒教は強いものだけが

より強くなるためのみに役立ってきた

のかという疑問が湧き出てきます。

己を知るという事は、どんな者であれ

己の弱さ、突き詰めれば人間の

弱さを知るということに連なるからです。

おそらく、しろうとだからこそ、

儒教は強きもののためという

その印象に翻弄されるのであって、

鑿でこつこつ掘り下げて

いつしかその最深部を突き刺すに至れば、

あたたかく、やわらかな流動物が

泉のごとくとめどなく

噴出してくるような気がしています。

老荘の哲学を

“しなやか”に生きているものは、

むしろ強すぎるくらい強くなければ

生きていけないだろうと

想像できるのと同じように。

                                                                          

                                               

                                         

(※)科挙―中国で行われてきた官吏登用試験。

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このブログの美学

このブログにおける美学。

みにくい自分も

きたない自分も

かっこいいと自分では思っていて

実は他人から見たらかっこよくないという

ひどくかっこ悪い自分も

あからさまに自分をみせること。

でも、それができない。

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男の沽券

「それは男の沽券(こけん)にかかわる問題だ」

などというと、いまの女性たちは

「そんなことばかり気にして」

とある意味、その男性を見下げた、馬鹿にした

怒りをこめた対応をする人が多いでしょう。

「沽券に関わる」とは、そもそも男性が

多く使ってきた言葉でしょうが、

現在では使われているところをあまり耳にしません。

死語へと追いやられつつあります。

そもそも、男が沽券(こけん)を捨てるという

ことが、どれだけ大変なことか。

男が沽券を捨てるということは

手放しで喜んでいいことなのかどうなのか。

沽券は人間の奥底で存在の誇りにも

つながっている場合もあって、

それを引っこ抜くと「命」まで

引張ってきてしまうことがあります。

たとえそれがどんなに浅薄でちっぽけで

頼りないものであることが

事実だとしても

ある人にとっては

自他に対して

この世界で少なくとも死んではいないんだぞと

自己の存在をむすびつける

アイデンティティーであることに

変わりはないのです。

現代に多発する中高年男性の自殺の多くは

そうした女性の思いやりのなさから

生まれて来ていると考えています。

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よわさをいだく

みずからのよわさを抱く

ゆいいつのひとのよわさを抱く道なり

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諦め

あらゆるものを諦めないよりも

あらゆるものを諦めるもののほうがどれだけつよいか。

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あめの音

                                                                 

                                                      

きょうもしゅうじつあめの音をきいてくらす

                                                                                                                                                

                                                                                                                              

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April 17, 2008

かなしい

古語の「かなし」、

すなわち現代文の「かなしい」ということばは、

「かぬ」という動詞の形容詞形であり、

「かぬ」とは、

じぶんではどうしようもない、

じぶんの力ではいかんともしがたいような

痛切な気持をあらわすことば。

     NHK高校講座『古典』より

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ようやくかけました

久しぶりに書かせていただきます。

コメントをいただくのはとても有難く、

それがなければ、とうの昔にやめていたのでしょうが、

どうもコメントへのおへんじをきっかけに

書けなくなることがあります。

―これは、まったくじぶん自身のなかにある

しゅうちゃくやこだわり、ガによる、

純粋にじこのもんだいでありますが・・・

1つでもおへんじを書けないコメントがあると

ほかのものやあたらしい記事をさきに書くのが

もうしわけなくなり、気がとがめます。

でも、そんなことをいっていたら、いつまでも

書けないよな、とりあえず書けるものから

書いていきましょうということで始めたのが

この文章です。

だから、おへんじ、たまっているのですが、

書けるときになりましたら、書きますので、

ごかんべんねがいます。

もし、いつまでも書けなかったら、

ごめんなさい。

そもそもが、じぶんには、やるべきだと

思いつつも、できないことというのが

多すぎて、一日それでなやんでいるような

ことがあまりにも多いようです。

一日一日、毎日毎日、

なんでできないのだろうと苦しんでいる

ということは、一年三六五日なやんでいることであり、

一年一年、毎年毎年なやんでいるということは、

一生苦しんでいくということになり・・・。

それでは、なんど生まれ変わっても

おもしろくないですよね。

だから、ちかごろは、できること、やれることから

やるのがいいのではないかと

じぶんにいい聞かせています。

それでも、できるものだけでいいのかしらと

どこかで割り切れないこころもあって、

割り切れないままにいま書いているのですが、

とりあえず、できる文章はいま、一つできました。

読んでくださったり、コメントをくださったり、

リンクしてくださっている

皆様のおかげです。

ありがとうございます

( 文体とよべるような大そうなものでは

 ありませんが、今回は

ふんいきをちょっとかえてみました・・・。

 書物は、

漢文調の固い文章を

あこがれながら読んでいますが、

 和文調のやわらかい文章に

 身をまかせるように読むのも好きです)

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