「大河の一滴」と“ひまわり”
ベストセラーを売れている
ときに読むのは苦手だ。
当時今は亡き母が
入院していたベッドの
隣にいた重い腎臓病の女の子に
母にいつも親切にしてくれている
お礼ということで、
そのときのベストセラーの
五木寛之著の『大河の一滴』を
プレゼントしたことがある。
彼女は本を読むのが好きだと
聞いていたから。
実は買ってきた私自身が
その本を読んだことがなかった。
自分には、
それがどんな内容のものでも
今流行っているものを軽蔑する
傾向があって、
『大河の一滴』が
苦しみにあえいでいる人間、
死の恐怖におびえているものを
励ますといったことが書かれている
といった大雑把な知識を知るのみに
とどまっていた。
そして、
まだ20代前半の若い女の子だし、
世間に読まれているもののほうが
いいだろう、
闘病の励ましになるのではないか、
とどこかで
タカをくくって
贈ったのだった。
その娘は、『大河の一滴』を
あっという間に読み終えて、
母にこう語ったという。
「いろいろ、考えさせられる本ですね」
母から聞いたその時の彼女の
様子は、
感動したでもなし、
励まされたでもなし、
でも勉強にはなったといった程度の
印象であった。
私は、彼女が好きだという、
ベッドのテーブルに生けられていた
ひまわりの鮮やかな黄色
と重ねて、
重い病気を抱えていても
この娘(こ)は
明るい性格の子で、
自分が抱えている闇よりも、
未来を見ている娘なんだな
と思ったものだ。
そして、今日、古本屋で
たまたま安く『大河の一滴』
の文庫本版があって、
あれから、10年以上、
たっているのだが
ようやく、購入して
読んでみる気になった。
日頃から五木寛之さんの
「かなしみはかなしみで
しか癒すことができない」
という主張に共感してきた。
講演会にも行ったことがある。
古本屋で手にして、
「私はこれまでに二度、
自殺を考えたことがある」
という冒頭の部分をみて、
無性に欲しくなったのだ。
そして、まだ少ししか読んでいないが、
この本のタイトルにもなった
「大河の一滴」の思想が書かれた
部分にきて、
あのときの女の子の、
反応が妙に納得できてしまった。
著者は、
「人間とは常に物語をつくり、それを
信じることで『生老病死』を超える
ことができるのではないか」という。
けれども、
私は人間が「大河の一滴」に
なりきれないから、
苦しむのではないか、
「大河の一滴」といった
ナラティブ(物語)の
中に入りきれないからこそ、
苦しみからなかなか逃れる
ことができないのではないか、
すくなくともいまの自分は
どんなに懸命になろうとしたって、
「大河の一滴」になれっこない・・・。
繰り返すが
五木寛之さんの主張には、
日頃から共感している。
励まされもしている。
だから、この本も
読み終わった時点では、
力になって
くれるかもしれない。
でも、いまの時点では
「大河の一滴」という
思想ではいまの私は救われないし
母の隣のベッドにいた
あの女の子もそうであったのだろうなと
気付かされたのだ。
彼女は若かったけれども
おそらく文学など
かなりの読書経験をつみ、
自分の現実と照らし合わせて、
とうじの私の、
いや現在の私でも足元にも
およばないくらいの、
自分と人生の闇を見つめて
生きていたのではないか。
絶望もしていたのではないか。
だからこそ、
その正反対に位置する
ひまわりの明るさに
強く引かれていた、
今は、そう思えて仕方がない。
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