空想ということ
ぼくはずっと空想する少年だった。
なぜなら、友だちがいなかったから。
空想しなければ、つらくて生きて
いけなかったからだ。
学校の帰り道、一人で帰るのが
すごく長かった。
それで、テーマを決めて、空想をした。
石蹴りをしながら、空想するのが
楽しくて、たまに、誰かと帰る
機会があっても、一人で帰るほうを
のぞんだ。
その後、私立の中高一貫教育の学校に
入って、自分の空想を封印することを
あえて選んだ。
もう中学生になったのだから、やめようと
思ったのだ。
通学も電車とバスを使って
片道1時間もかかるし、
空想なんかして歩いていたら、
満員のホームで突き落とされてしまう。
授業に、クラブと忙しくて、
家で空想している
時間がなくなったことも事実だ。
でも、空想を封印したおかげで、
中学でも高校でも、
剣道部のキャプテンになれたのだと
今は思う。
そのことはその後も、
自分の自負心を形成してきた
生きていく支えにもなってきたものであったが、
今思えば、一方では大切なものを
捨ててこようとしてきてしまったんだなと
しみじみ思うのだ。
今、家族がいるけれども、
やっぱりまた一人でいて、
つらいということは、
子どもの時のようには感じないけれど、
ポキリと折れてしまってはいけないと
どこかで自分にいいきかせている
自分がいるようだ。
そのときに、あの自負心は
意外と役立つものではないのだなと
いうことがわかる。
封印してさび付いてしまった空想を
それがなんの稼ぎにも、
だれかのためにならなくても、
広げられるものならば、
もう一度、ひろく広げてみれば
もっと人にもやさしくなれるかなと
も考えている。
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