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April 23, 2008

ブログを脳にして考える

私は今、ブログ

(正確にはワードとココログ)を

自分の脳に代えて、思索をしている。

思索というたいそうなことではないとしても、

少なくとも考え事をしている。

ブログを自分の脳にかえての意味を

もう少しくわしくいうと、

ブログをつかって脳が考えているのではない。

脳とブログが一体となって一つの

脳を形成して、考え事をしているのだ。

考え事をするのが、脳ではなく心も

ということであり、脳の中に

心が入りきれていないということであるならば、

脳と心、つまり私の人格と

ブログ(それは、キーボードやディスプレー

などのハードも含まれる)が

いったいとなって、

一つの人格を形成して

考え事をしているのである。

なぜ私が今、ブログのかわりに

紙と鉛筆を脳にしていない、

正確にいうと脳の一部として

つかっていないのかというと、

一つの理由は字が汚いということが

ある。自分に対しての弁明も含めて

いうと、丁寧な字をとくに考え事をして

いるときに永続的に書けないという

ところにある。

すると、自分が自分で何を書いたか

わからないで考え込む時があるから、

思索が前に進まない。

だから、自分でも書いた字が読める

というワープロ(ワードなど)

がいいということになる。

(ワープロだけでなくなぜブログなんだ

という疑問はおいといて)

紙と鉛筆を使わずに、

ワードで思考することによって、

紙と鉛筆ではできていた

ことができなくなってしまう

側面ももちろんある。

紙は広ければ広いほど、

自由にかける。タテにもヨコに

斜めにも、へんな字でも、

へんな図でも自由に描けるし、

書ける。だから、

その点で、思考の方向に

重大な影響を与えるという事が

考えられる。

その点、ワードで書くと、

罫線をのぞいた白紙の設定にしていても、

縦書きなら縦書き、

横書きなら横書きと

さいしょの設定の影響のままに

すすまざるを得ない。

ましては、私のように、

ほとんど文字しか

打込めないような者には

紙と鉛筆でできることの

近いことすらもできない。

それでも、なぜ、

ワードなのかということになるが、

やはり自分の字がきたないということと、

もう一つは辞書をあまりひかなくても、

カナで打込めば漢字が出てきてくれる

ということも大きいのだと思う。

漢字をイメージして思索するのと、

ひらがなのままで考えるのとでは、

正確性においても、広がりにおいても

違ってきてしまうだろう。

(つまりは辞書を引くのが

面倒くさいからということになり、

今、それを反省しなければという

気持になったが・・・。)

あと、もう一つ、これは

結局はブログで思索するという

理由になるのだが、

一応、ブログにのせるという

動機ができるということだ。

ブログにのせることによって、

誰かが読んでくれるかもしれない

というすくなくとも

期待だけはもてる。

そうでもなければ、

それが未来の自分であっても、

自分に読んでもらおうと

今のところは、あまり思えない。

自分のとりとめのない、

思考の痕を

他人に読んでもらおうなんて、

実に虫のいい話だが・・・。

それを動機に怠惰な自分が

少しは考えることが

できている。

その意味では

実にありがたい時代だ。

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