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April 23, 2008

判決後の記者会見を見て

                                      

本日、母子殺害事件に

死刑判決が出たが、

ただマスメディアの情報を

かじっているだけの

私の意見に過ぎないのではあるが、

多くの国民がそう考えているように

妥当な判決であったのだと

思っている。

その事件があった

9年前といえば、

私のはじめての子どもが

生まれた頃だ。

同じく女の赤ちゃんであり

そのせいもあり

残された本村さんには

多くの日本国民同様、

特別なシンパシーを

感じてきた。

判決後の、今日の本村さんの

記者会見をほんの少しではあるが

聞いていて、

おそらくこれを見た他の多くの人とは

少し違った角度より、

同情を禁じえなかった。

それは、彼の言葉が裁判の

つまり戦いの言葉である

ということであり、

その言葉はおそらくこの

9年間というもの、

この大きな戦いの性質上、

日常生活にまで

浸透せざるをえなかったの

ではないかということが

垣間見られたということだ。

インタビューから感じたことは

相変わらず彼の優秀さが際立つ

ということであり、無駄がなく

そつなく、矛盾がなく、明朗で、・・・

という具合であって、

それだけに、妻子を失った

人間の誰もがおそらく

行き着くであろう

深まりというものに至る

余裕が感じられず、

彼のありのままの人間性、

心の襞をあまり感じられないような

言葉が発せられていた。

極力感情は抑えられ、

よくコントロールされている。

つまり、それが裁判というものであろう。

戦いに、隙を見せてしまったら、

つけこまれることになる。

そもそもが矛盾だらけの、

割り切れることのない

この現実世界を、

できるだけ論理における破綻をさけ、

割り切っていくのが

裁判だろうからだ。

ただ、裁判やその後の

記者会見でそうした言葉を

使うだけならいい。

ところが、それが本人にとって

重大なことで、

短い人生からみれば

膨大な時間を

ついやさざるを得ず

避けて通ることができなかった

事件であるが故に、

日常生活にまで、

その言葉を入り込ませざるを

えなかったはずだ。

おそらく、この9年間というもの、

ほんとうの彼が彼の言葉で

生きることができた

時間というものは

一般の勤め人以上に

極度に限られたものに

なってしまったのではないか。

彼の魂の中でさえ、

彼の真実の思いをつづることを

許されることはなかったであろう。

これが善、これが悪と心の中で

分けただけで、みずからの魂の

真実には到達することが

難しくなるはずだ。

始めの頃の、

マスメディアのインタビューにおいて、

泣き叫んでいた頃の

本村さんこそが、

事件の直後で

心の整理がいまだつかず、

まだ若くて

未熟なころのことであったとはいえ、

ほんとうの彼に近い

彼の姿であるのであろう。

そんなことを今回のインタビューを

少し聞いていて感じてしまったのだ。

そして、あくまでも、

今回の判決は妥当であると

傍観者の立場から

考えているものの

たわごとではあるのだが、

マスコミが被告の少年の

生まれてから犯罪にいたるまでの生い立ち、

歴史というものを客観視して、

報道するということがほとんど

見られなかったということが、

大きな問題であるのではないか。

被害者である母子については、

逆に、遺族や殺された本人に

とっては、気の毒なくらい

なんども繰り返し、

殺害されたときの

状況が詳細に

報道されていたようだが、

犯人が犯罪に到るまでの経緯については、

あまり大きく

報道されていなかった。

ようやく、高等裁判所における

差し戻し控訴審がきまってより、

結成された巨大弁護団によって

色眼鏡を通した犯罪の

背景というものは報道されたが、

マスコミによる客観報道は

残念なことに、自分はまったく

というくらい見かけることはなかった。

おそらく、あのような異常な犯罪を

おかす人間であるのだから、

恵まれた環境の中で、

愛情をもって普通に両親によって、

犯罪をおこなう18歳の年齢に

まで育てられたのではないだろう

ということは誰の目にも想像はつく。

もしも、こうした犯罪者の歴史が

マスコミによって正しく知らされて

いたとしたら、

たとえ死刑判決が同様に下ることは

避け得ないことだとしても、

国民の認識はかなり違ったことに

なっただろう。

もちろん、犯罪者や犯罪者の

家族の人権ということがあっての

ことでもあろうが、

それにしても、報道しなさすぎである。

それが未成年であればなおさら、

犯罪にいたるまでのそれまでの

生い立ちというものを

実名をふせてもいいから

客観的に紹介するということは、

犯罪の原因を突き止めることまでは

いたらなくても、それに

肉薄することができる。

そしてそれは

今後似たような犯罪を抑止するためにも

国民がぜひとも把握しておくべき

事柄なのだ。

なぜなら、犯罪にいたる

過程において、

その犯罪者にたいして、

家族のみならず、

世間の人間が

犯罪者やその家族に

対して、

どう接するかによって、

避けることができる

犯罪を実行させてしまうか

否かが

大きく左右されると

考えられるからだ。

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