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April 24, 2008

自分をふくめた“いま”を肯定する

自分の中の醜いものもふがいないものも、

すべてを肯定するということは、

自分を取り巻くすべての“いま”を

肯定することと同じであると思う。

なぜならば、自分を取り巻く

他のものと切り離された

単独の自己という存在はありえない

のだから。

そのときに、自分を許せない以上に

許せないものが、

自分を取り巻く“いま”の中にある

こともある。

たとえば、子どもや夫をほうっておいて、

友人と遊びにいったり、

自分のための仕事と、

習い事という呼び方をかえたレジャーに

家事も子育てもろくにせずに

うつつをぬかす母親だったりする。

でも、その女性の見た目が

服装のセンスもよく、

好みのタイプだったりすると、

他人の妻であり

母親であるにもかかわらず、

目を引かれてしまう自分がいて、

そうした自分に

強い嫌悪を感じることもある。

そんな自分と自分を取り巻く“いま”を

肯定していいものなのだろうか。

最近、

今の自分を完全に否定した上で

理想の自分をいくらめざしても、

形だけは取り繕えても、

ほんとうには

理想の自分に近づくことさえも

できない、むしろ離れていくのだ

ということに気付いた。

だから、まずは、自分というものを

全面的に肯定しようとしているのだが、

真に、自分を肯定するということは

“いま”を肯定することなのだ。

だから、“いま”の全部を

肯定しなければならない。

と頭では考えていても、

なかなか割り切れそうにない。

私の志は、理想の自分になるということよりも

理想の世界をつくることであり、

その意味でも理想の自分をつくる

ことが必要であると考えているのは、

そうした世界を作ることに貢献できる

ような自分になるべきであり、

理想世界の一員としてふさわしい

人物にならなくてはならない

と考えているからだ。

だとすれば、とにかく

とりあえずは、自分と、

自分を取り巻く

すべての“いま”をいったんは、

肯定しなければならないはずだ。

そのスタート地点から

つまづいている。

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