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April 18, 2008

儒教は強きもののためか

儒教というものは、

科挙(※)に取り入れられてきたように

しろうとめに見て、強いもののために

歴史を刻んできたように思えますね。

高層をながれる儒教の低層を

老荘がつねに、たゆることなく

ながれてきたというのも

一方で、よわきもののための哲学が必要になった

ということがいえます。

ところが中江藤樹が己を知るために

学んだということをきくにつけても、

ほんとうに、儒教は強いものだけが

より強くなるためのみに役立ってきた

のかという疑問が湧き出てきます。

己を知るという事は、どんな者であれ

己の弱さ、突き詰めれば人間の

弱さを知るということに連なるからです。

おそらく、しろうとだからこそ、

儒教は強きもののためという

その印象に翻弄されるのであって、

鑿でこつこつ掘り下げて

いつしかその最深部を突き刺すに至れば、

あたたかく、やわらかな流動物が

泉のごとくとめどなく

噴出してくるような気がしています。

老荘の哲学を

“しなやか”に生きているものは、

むしろ強すぎるくらい強くなければ

生きていけないだろうと

想像できるのと同じように。

                                                                          

                                               

                                         

(※)科挙―中国で行われてきた官吏登用試験。

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