若者の教祖という言葉が蔽い隠しているもの
尾崎豊のことを
若者の教祖という。
なんていやな呼び名であろう。
自分たちがもっている
いたみやかなしみを
尾崎豊をみると
まともに見えてしまうがために、
若者の教祖という
蔽(おお)いをつくって、
見えなくしてしまった
のにちがいない。
尾崎豊が
他人様の庭先で
まるはだかになって
一人まるで一見きちがいの
ようになって
死ぬという
およそ一般の
立派な教祖様の
イメージとはかけはなれた
死に方をしているにも
かかわらず、
教祖に仕立て上げる
ことをやめない
ものたちがいる。
もっとも、
宗教の多くの
教祖たちは、
からだはそうではなくても、
民衆のいたみやかなしみを
共有して、
そのいたみやかなしみを
まるはだかのままに、
かかえて、民衆の、
いたみやかなしみを
そのままにいたみ、
かなしみながら生きて、
死んでいった。
尾崎豊もそれに近いの
かもしれない。
いま、多くの宗教が
それぞれの教団の教祖が
在世していたときは
そのものであった
こうした
まるはだかな
いたみやかなしみに
蔽いをかけ、
宗教は蔽いであると
たとえられるような
状況をつくってしまっている。
尾崎豊を教祖といって
自分たちの目に見えない
ところにおいやる大人たちは、
知らず知らず、
自分たちが軽蔑している
宗教団体と
同じことをやっている。
ただ尾崎豊を若者の教祖、
十代の教祖といって
自分たちの教祖にして
いないだけだ。
このことを
ひとことでいえば、
自分たちだけではない
多くの人のいたみやかなしみを
蔽い隠してしまっている
ということである。
ずるく立ち回ることができ、
蔽いで隠すことができる
こうした
この社会で
強いとされている人間であるならいい。
ただ今の時代、
弱いとされるにんげんは、
誰に支えられることもなく、
ただいたみ、かなしんで生きて
死んでいくしかない。
蔽われているから。
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