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April 30, 2008

そんなことは二の次だ

自分が好きなことをする、

自分を生かす。

自分を大切にする。

自分らしく生きる。

自己実現する。

自分の夢を追う。

私もよくこのブログに

書いている

これら

現代の多くの日本人が

求めていることは、

大切なことかもしれないが

ただそれだけなら

恥ずかしい、

というに近い感情を

私はもっている。

たとえば

自分の好きなことをして

公(‐人類、地球、世界、社会、

国、人、皆)

のために役立つ

ということなら、まだわかるが、

それでも足りない。

私の信念化している価値観であり、

それにもとづく感情は~、

公のためになるような

自分が好きなことをする。

公のために

自分を生かす。

公のためになるために

自分を大切にする。

公のためになるために

自分らしく生きる。

公のためになるために

自己実現する。

公のためになるという

自分の夢を追いかける。

ということでなければならない

と強く念(おも)う。すくなくとも

そうありたいと思って生きてきた。

自分の個性を生かそうとして

押し出す者の個性に

ろくなものはなく、

個性などないといっていい。

対象に尽くすがゆえに自ずと

発揮される個性こそほんとうの

個性だ。

そのようなことを

評論家の小林秀雄は言っている。

また全一学の哲学者、森信三は、

現在わたくしは、旅には「負い籠(おいこ)」を

よく利用しますが、持ち物の中でもこの

「負い籠」は、私という人間の

一象徴とも言えましょう。つまり

みえや外見に拘らないで、自分にとって必要な

ことの一切を、徹底的に自己に一元化して、

つねに一切を提げてこの人生を歩きつつある

私の姿の、ひとつの象徴的投影といっても

よいからでしょう。

戦後の日本では、おそらく

バッグやリュックではなく

「負い籠」をしょって歩くのは

かなり目立ったのではないかと

想像できるが、

森先生は、それを目立とうとして、

自分の個性を見せようとして

行っていたのではなく、

誠を尽くして生きている結果、

自然にそのようなスタイルに

なっているということであろう。

誠を尽くす対象は、

もちろん、

公であり、

神であり、

天とも呼べるものであろう。

人を相手にせず、

天を相手にせよ。

天を相手にして

己を尽くして、

人を咎めず、

我が誠足らざるを

尋ぬべし。

   西郷南洲

公に誠を尽くした

結果、自然にあらわれるものが

きっとほんとうの個性であり、自分であるのだ。

いまの日本では老若男女、「個性」、「個性」と

うるさいが、

道徳に縛られていたはずの昔の日本人と比べて、

個性ぶっているだけで、

実業家だとか音楽家だとか職業で区別できても

その人の輪郭がはっきりした大物が少ない

ような気がするのは、そのせいではないか。

もっとも、自分もそうした没個性の社会に埋もれる

者の一人であるが、

「個性」の名において、何の反省もなく、

開き直って利己主義を実行するような

人間にだけはなりたくないと自戒している。

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