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May 22, 2008

人類が滅亡すれば地球は守られる!

もっとも効果のある

エコロジーとは、

この地球から人間がすべて

いなくなってしまうことであろう。

ほんとうに地球のことだけを

考えるならば、きっと

みずから人類が滅亡してしまう

ことに限るのである。

人間は現在の考えを

あらためないでいれば

たとえ

ほんの少人数になったとしても

火で森を焼き、畑を

作ったり、環境破壊を

続けるだろう。

そしてどんどん発達して、

地球規模の大きな環境破壊が

ふたたび繰り返されるように

なるだろう。

だから地球環境を守ろう、

回復させようとするのは、

ただ地球のためではなくて、

人間が生き残りたいと

考えるから、

地球をなんとかしなければ

ならないのである。

地球のために地球を

守るのではなく

人類のために地球を

守るのである。

その点をはっきりさせた上で、

人類に課せられた

地球環境の破壊という

“宿命”を乗り越える

方法を一人一人が

考えなければならないということに

ぼくは、今更ながら

気づいた。

そして、もう一つ

ぼくは人類はみずから

滅亡することはあっては

ならないし(個人でいえば自殺)、

そういうことはないと

おもうけれども、

そこまでして生き残らなければ

ならない人間の存在、

人類って、なんなの?

ということも

世界すべての人々に

共通した理念にまでいたるのは

むずかしくとも、

できうるかぎり一人一人が考えねば

ならないことだろう。

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May 11, 2008

芸人や役者を見る眼

芸人とか役者とか、歌い手・・・、

彼らを“見る”のも

私の仕事だった。

なぜならば、ドラマはもちろん、

バラエティーや情報番組、

ドキュメンタリー、

ラジオのパーソナリティー、

あらゆる番組で、

キャスティングを提案するのが

作家の仕事の一部だったから。

だから師匠からは

その点においても、

徹底的に叩き込まれた。

いや、

「だから」というばかりではない、

おそらく自分のもっているものを

いろいろ伝えようと

してくださったのだろう。

日頃の「直接、すぐに金に

なる範囲」を超えて、

お教えいただいた。

仕事場で企画を考えるときは

もちろん、

雑談においても

プライベートで

テレビを一緒に見るときも

誰それはどうだ?(演技や芸、歌、

またシナリオなど)

と聞かれて答える。

時には、イラストなどの

絵もあった。

見方が違うと

そうじゃないと叱られる

こともある。

だから、どうしても

普段から真剣に

ものを見るようになる。

師匠は、作家としてのみならず、

音楽の方も

才能があり、

歌い手を育てたり、

作詞家としても

売れてきた人だった。

だから、人気歌手でも

今売れているだけでは

認めない

アニメの方でも

脚本、プロデュースでも

かなり売れてきた人なので、

絵の見方にも

相当の見識があった。

その見方というのは

つまりは、

ほんものか、

にせものかを見分けるものであり、

長続きするか、

しないかでもある。

パッと売れて

散っていくような

者はまったく

認めていない。

喜劇系の役者では、

かつては森繁、

今は伊東四朗を

認めていたということだけでも

そのレベルが分かるであろう。

それは、駆け出しのものを

見る場合、

うまく育てれば

そういったレベルにまで

達する可能性がある者を

見つけるという

ことである。

おかげで、

自分もそこそこの

見る眼が養われたと

自負している。

たとえば、

お笑いで、

今、爆笑問題が

看板番組をいくつも

もって超売れっ子であるが、

私は、彼らがまったく

駆け出しのころ、

オーディション番組で見て、

こいつらは伸びる、

とくに太田はいい、

そう思った。

それで、番組改編期に

あるラジオの製作会社の

ディレクターやプロデューサーに

彼らをパーソナリティーに

使ったらどうかと熱情をもって

企画を出したところ、

まったく無名なのは

駄目だと、ボツに

なってしまった。

ところが、いまは

どうだろう。

もし、そのとき、

使っていたら、

その制作会社は

もっとビッグになっていた

“かも”しれない。

それからある

作家の先輩から、

CSが日本でも始まったころ、

今度、CSのあるチャンネルで

お笑い番組が

始まるんだけど、

いいやついないかなと

いわれたので、

私は、「かいじゃりすいぎょ」

(正確な漢字を忘れた)が

いいですよ。

と紹介した。

でもその先輩は

「かいじゃりか・・・」

といって、請合って

くれなかった。

ところがこれもどうだろう。

今は、クリームシチューと

改名して、看板番組を

いくつかもちはじめた、

売れっ子になっている。

ここまで来るには

あれから、十年以上の

歳月が経っているが・・・。

まあ、そうやって私が

紹介して、

相手が採用してくれないというのは

自分に力がないということの

裏返しでもあるわけだが、

とにかく見方は間違って

いなかったということ

ではある。

ところで、当時も、

同じような若手の

芸人がやまほど

いたなかで

彼らの何がいい

と判断して、

プロデューサーなどに

推薦したのか。

つまるところ、

かつて師匠からも

教わった言葉、

「サムシング」

ということになるであろう。

彼らには、

他の者にはない

「なにか」があったのだ。

それが私には

「見えた」という

ことなのである。

(その「なにか」が

どういうように見えたかは、

それぞれの見る対象に

よって異うので

ここではいうまい)

とにかく、

師匠のお蔭で、

お笑いばかりでなく、

歌手や役者、

作品などの見方を

ある程度、自信が

持てるまでに養っていただけたのは

確かであり、

感謝している。

それとともに、

今の境遇でそれを

生かせてないのが

非常に残念に思うし、

申し訳なく思う。

ただここで一つ

だけ付け加えて

おかねばならないのは

情実がからんでしまうと

てんでその目が

狂ってしまったという

ことである。

知り合いの人から

ぜひこの子をよろしく、

とか、

自分が長くやっていた番組に

出演した役者など

贔屓目や

情けが入って

しまったとき、

紹介して失敗した

ということになって

しまったことばかりである。

このことは

これからも

自己の眼を

養い修行し続けねば

ならないし、

自分の見る眼は

“まだまだ”

であるということが

端的に

表れた事実である

と思っている。

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May 08, 2008

天理か人欲か?天則か偏見か?

  

自分に正直に生きたい

素直に生きたいと

思ってきた・・・。

しかし、正直に生きるのは

難しい。

それは自分の周囲の人や

社会との摩擦が生じやすい

からということだけではなく、

そもそも、

自分の正直な気持は

どれであるのか、

どこにあるのかを見極める

ことが非常に困難であると

すくなくとも自分には

感じられるからである、

ただこうしたい、

ああしたいという欲望は、

自分の正直な気持とは

考えない。

それはそのときの気分に

よってもクルクル変わる

あてにならないものである。

どうしても、

本心(人間の根本にあって、

“空(くう)―いのち”とつながった心)

より素直に発せられた

変わらぬ

ものでなくてはならない。

                                    

だから

20代のころより

みずからの針路について

考えるとき、

この希望は本心(人間の根本にあって、

“いのち”とつながった心)

から来ているか、

欲望からきているか、

ということを考えてきた。

およそ400年前に書かれた

中国の古典『呻吟語』では、

それでも足りず、

天理天則に基づいているか、

偏見に基づくものなのかを

考えろという(下記を参照)。

自分はそこまでは、

意識して考えてこなかった

ように思う。

その後の数々の

“人生の痛手”は

そこまで客観性をもって、

無私に行き先を決めて

来なかったことよるためか・・・(苦笑)。

たしかに、

中村天風の哲学においても、

天風誦句集で

「一切の希望 一切の目的は

厳粛に正しいものをもって、

標準として定めよう」

とある。

漢学者の白川静は、

文化勲章を授与されて後、

業績に至った秘訣を記者に

訪ねられて、

中国の古人の言葉を引いて

「志あるを要す」

(志、理想、夢…をもつこと)

「恒あるを要す」

(しょっちゅうやること)

とともに、

「識あるを要す」

つまり、

見識があることが大切だと

述べた。

みずからの志、目的が、

天理に基づいているか、

天則によっているかと、

点検するとともに、

日頃から、

道を学び、

真理を吸収することによって、

見識を高めていくことが

大切な所以(ゆえん)であろう。

                                 

テレビドラマや歌、マンガやアニメでも、

「自分に正直に生きる」とは

現代における一つの主要な価値観のように

なっているようだが、

それも、ほんとうはそう簡単な

ものではないのだろう。

                                              

                                  

自分を省みて、

最近、つくづく、思う。

「正直ってむずかしい」。

でもだからこそ、

「正直はすごく大切だ」と・・・。

                                        

                                        

以下、荒木見悟訳注

『呻吟語』より

学術は、心に媿(は)じず、

志に悪なきを以て第一と為(な)す。

也(また)、這(こ)の心志は

是(こ)れ天理なるか、是れ人欲なるかを

点検せんことを要す。

便(すなわ)ち是れ天理なるも、

也、是れ辺見(へんけん)なるか、

是れ天則なるかを点検せんことを要す。

〔訳文〕

学術というものは、

単に知識を集積すればよいのではなく、

心にかえりみて恥じることがなく、

志に一点の邪念もないのが、

第一の肝要事である。

さらにこの心と志とは、

天理にもとづいているか、

人欲にもとづいているかを

点検しなければならぬ。

たとえ天理であっても、

偏見によっているか、

天然の法則によっているかを

点検しなければならぬ。

〔付記〕

学術とは、

心術をみがき上げるものである。

ところが、学術といえば、

人はすぐに豊富な知識をかき集め、

それを見せびらかすことだと

考えがちであるが、

もしその目的が栄達をはかり、

術策を弄するにあるとするなら、

当初から俯行天地に恥じない

心がまえを持つべきであり、

そこにいささかの人欲も

混入してはならない。

(中略)

そこに天理という

名目のもとにおける

真偽邪正の判別をする必要が

あるのである。

                                        

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ただ大きな苦しみよって・・・

偉大な思想は、ただ大きな苦しみによって

深く耕された心の土壌のなかからのみ成長する。

そのような苦痛を知らない心には、

ある浅薄さと凡庸さが残る。

  (中略)

しかし、ひとは余儀なくされるのでなければ、

だれがこの実り豊だが同時に恐ろしい道に

みずから進んでふみ入る勇気を持つだろうか。(後略)

      ヒルティ『眠られぬ夜のために』より

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May 07, 2008

空/SORA

長渕剛と同時代に生きている

幸せを強く想う。

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May 06, 2008

生きてゆかなければ

だけど、この目に映る

この街で ぼくは ずっと

生きてゆかなければ

・・・・・・・・・・・・・・・・・・

正しいものはなんなのか

それがこの胸にわかるまで

僕は街にのまれて

少し心許しながら

この冷たい街の風に

歌い続けている

     尾崎豊『僕が僕であるために』より

                                                             

※「僕が僕であるために戦い続けなきゃならない」という

 さびの部分に注目していると、力強い歌にも感じられるが、

 上記に抜粋した視点で、この歌をみると、

 哀しい歌に思えてきた。

  “僕”が心を許しているのは、あくまでも“少し”だけだ。

 僕が僕であるために、君が君であるために、

 戦い続けなくてはならない街=社会って

 いったいなんだろう・・・。

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この虚偽だらけの世の中で

この虚偽だらけの世の中で

ピュアな魂が生きていくためには、

傷つけられなければならない。

ところが、自分が傷つくだけならいい。

何よりもつらいのは、

誰かを傷つけることだ。

誰かを傷つけてでも、

人は生きていく値打ちがあるのか。

ふとよぎるとき、

全身の力が一気に抜けてしまうことを

感じる。

自分という存在がうすいだけに、

その生きていく基盤はもろくも、

くずれやすい。

だからこそ、人は生きていくために、

心の眼を閉じてしまう。

自分をごまかさなければ

心はこわれてしまうかもしれないと

いつも恐怖におびえて、

自分をだまし、ずるく立ち回っていく。

心が殻をかぶっていく。

こうして、魂が泥にまみれていく。

汚れているからといって、

誰がこの魂を責められよう。

弱いことは悪いことなのか、

と問い返しても、

誰もこたえてはくれない。

ただ、そこには、冷ややかな眼で

見る自分がいるだけだ。

いや、冷ややかな眼で見る

自分を無視し続けている

哀しい自分がそこにいるだけだ。

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May 03, 2008

シェリー 尾崎豊

 社会に出てから、

とくに放送業界の末端にあって、

 この歌に励まされ、

 血みどろになって

這い上がろうとしてきた。

 そして、夢を求めて

 孤独を恐れずに走ってきた。

 

それこそ

むやみに何もかも

捨ててしまった・・・

こうして

ふたたび、どん底で

 あえいでひさしいいま、

 この歌のフレーズが

 自分の血液となり、

 からだのすみずみまで流れ

ひとつひとつ

すべての

細胞の絶叫をさそっている

ように感じられる。

 自分は間違っていたのかも

しれない。

真実へと歩いていないの

かもしれない。

そして死ぬまで

人から大してうらまれず、

バカとも呼ばれず、

このまま

ずっと這い上がれないまま

 終わるのかもしれない。

 どこまでもたどり着けないで

 死を迎えるのかもしれない。

 

それでも、

いまは、

 だれかを愛し、

うたいつづけることが

 大切。

 この歌はそう

うたっているように

きこえている。

  シェリー

シェリー おれは転がりつづけてこんなとこにたどりついた。

シェリー おれはあせりすぎたのか、

     むやみに何もかも捨てちまったけれど。

・・・・・・・・・・・・・

シェリー 夢を求めるならば孤独すら恐れやしないよね。

シェリー 一人で生きるなら涙なんか見せちゃいけないよね。

 ・・・・・・・・・・・

 

おれはまだ馬鹿と呼ばれているか。

 おれはまだまだうらまれているか。

 おれに愛される資格はあるか

おれは決して間違っていないか。

おれは真実へと歩いているかい。

 ・・・・・・・・・・

シェリー いつになれば俺は這い上がれるだろう。

シェリー どこに行けばたどりつけるだろう。

シェリー おれはうたう。愛すべきものすべてに。

                                            

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意外

この間、ひさびさにかつて事務所が

あった青山一丁目の路地裏をほっつき歩いた。

20代なかば、あの頃の感情がよみがえった。

                                                    

自分の夢に疑いもなく、

あけっぴろげに心を開いている。

むしろ、閉塞感に縛られている現在とは

対称をなしていた。

                                                         

当時を色眼鏡によって

どうしても暗い色に回顧してしまい

がちであるせいか、じつに意外であった。

                                                              

                                                                             

ハマショーの『路地裏の少年』

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