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June 28, 2008

本気で愛せない

無性にこの歌が好きだ。

とくにこの一節は何度聞いても胸を

打たれる。

                                                                   

 

形のない愛だけを信じてきたあなたは、

本気で愛すること怖れてるだけ

                                                            

「本気で愛することを怖れる」、

それは「本気で愛することができない」

ということ。

恋人だけでなく、家族も、友人も、

自分も・・・

自分を取り巻くあらゆる人間と

この世界を・・・

ほんとうは、愛したくてしかたなくても。

クリスマスの歌で、

もろに季節外れですが、・・・

いつものように、

のせたくなったのでのせます。

                                                             

Midnight Flight-ひとりぼっちのクリスマスイブ-

                  浜田省吾

あの娘乗せた翼 夜空へ消えてく
空港の駐車場 もう人影もない

"
行くな"と引き止めれば 今頃二人
高速を都心へと 走っていたはず
失くしたものが あまりに大きすぎて 痛みを
感じることさえも 出来ないままさ
ひとりぼっちの クリスマス・イブ
凍えそうな サイレント・ナイト
ここからどこへ行こう もう何も見えない空の下

妹と暮らすつもり しばらくニューヨークで
ひとりきり 東京で もう生きていけない
逢いたい時にだけ 電話かけてきて
食事して ドライブして ベッドに入るだけ

形の無い愛だけを 信じてきたあなたは
本気で愛すること 怖れてるだけ

ひとりぼっちの クリスマス・イブ
凍えそうな サイレント・ナイト
二人で生きてきた 都会の灯りが遠ざかる

ポケットの中 あの娘に贈ろうとした Golden Ring
今でも 手のひらに 握りしめたまま
ひとりぼっちの クリスマス・イブ
凍えそうな サイレント・ナイト
もう守るものなんて見つけられない 何ひとつ

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欲望こそがこの俺を解放へと導く?

「これが俺だ」

という実感は、

どれがほんとうなんだろう。

理屈ぬきで

“つかんでいる”人間が

うらやましい。

自分を裏切り続けた

結果だろうか、

希薄な「俺」しか

感じられない

自分というものを

ようやく少し

つかめたばかりである。

ただどうしても

裏切れなかった

自分というものは

少なくとも欲望に

だけはあった。

今おもえば、

欲望こそが

この「俺」を

内側で引き止めて

くれる

「最後の砦」に

なってくれていたの

かもしれない。

食欲しかり、

睡眠欲しかり、

性欲しかり…。

中でも性欲は

他の人は

知らないが、

自分としては

内部で激しく渦巻いて

いたがゆえに、

常に

せき止めることが

できずに、

その奔流は

ときにダムを決壊し、

あくまでも

自分にとってのであるが

理性的な活動から

逸脱してしまう

ことがあった。

それは

縛りが弱かった

というよりも

エネルギーが

強かった

ということなのかもしれない。

とくに性欲というものには、

なにか汚らわしいような

ものを思い、

(じつは、今でも

払拭されきって

いないのだが・・・)

翻弄される自分を

卑下もしてきたが、

それがあったからこそ、

また戻ることに

なるとはいえ、

牢獄からしばし

脱出することが

できたのだ。

それがなければ、

「牢獄」しか知らない

「(ブタ)箱入りムスコ」に

なっていたかもしれない。

果たして、

今の自分の心が、

欲望からきているのか

神聖なものからきているのか

ということが

常に把握できるもの

なのだろうか。

もしかしたら、

この「俺の心」とは

ときに立派な

ことを思っていても

欲望と寸分も

違わないのではないか。

確かなものとは

すべて

欲望に裏付けられている

のではないか。

それはいいすぎだとしても、

欲望が魂の牢獄からの

開放の手伝いを

してくれることは

自分の経験から

たしかにいえる。

それに、

何よりも神聖な

出産という

人類に欠かせないイベントは、

必ず

性欲を発端にして

はじまるのだ。

その事実に

目をつぶってはいけない。

                                             

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June 26, 2008

自由になったフリ

大学の授業を

抜け出すのが、

すごく快感だった。

一般教養では、

キャンパス内の

丘の上の

礼拝堂で宗教の講義が

おこなわれた。

配られた出席カードに

名まえを記入して

すぐに、

他人目につかないよう

中腰になって、

木造のドアを

ほんの少しだけ

開いてぬけていく。

無事に抜け出られて、

丘の階段を

だらだらと

おりていくときの

あの開放感。

その快感を味わうために

抜け出していたの

かもしれないと

振り返れるくらいだ。

ところが、

楽しいのは

それくらいで、

抜け出した後は

長い長い空白の

時間が待っている。

いや、やるべきことは

あったのだ。

読書をするとか、

物を書くとか…。

しかし、それは

義務に近かった。

今、思い出しても

楽しいというのは

授業を抜け出した

瞬間だけで、

その後の記憶については、

重苦しくて

息苦しい空気に

支配されている。

そうあのときの

おれは義務を抜け出し、

別の義務を

遂行しようとしていた。

授業からは

抜け出せても、

結局は、

自分を縛る

ある

“支配”からは

まったく

抜け出せていなかった。

自由になったフリを

自分が自分に

見せていただけだったんだ。

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June 25, 2008

わからない

なんでこんなに苦しいんだろう。

今夜も寝るのがいやで、

こんな時間まで起きてしまった。

寝るのがいやだってことは、

死ぬのがいやだってことで、

つまり、それは生きていない

ということであり、

生きるのがいやだって

ことにつながっているのかもしれない。

明日の朝を迎えても、

どうせ同じ一日が待っている。

どうして生きているんだ。

なんで生きているんだ。

意味がまったくわからない。

日常の中に埋没している

自分に満足している自分と、

まったく受け入れていない

俺がいる。

こんなはずではなかったという

声がこだましてくるのを

きちがいのように

耳をふさいできこえないふりを

しているもう1人の誰かがいる。

さあ、このままパソコンの前に

寝てしまうか。

キーボードに倒れこみ、

ほっぺたに朝、起きたら

あとがついているような。

酒に酔い路傍にはきだすことも

もう何年もやっていない。

あのときの風をおれは故意に

捨ててしまったのだろうか。

ああ、さびしくもこどくでも

なんともないというのは

こんなにこどくでさびしいものなのか。

生きるってなんなのか、

いま、あらためて、まったく

わかならい。

ぜんぜん、わからない。

どうなってんだ・・・。

このおれは・・・

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June 24, 2008

光もあれば闇もある

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雑木林をみつめる。

光もあれば闇もあるから、

雑木林はおもしろい。

光だけだったら、ぼんやり見ていて、

おもしろくもなんとも

ないだろう。

                                                       

今、一般的な風潮として、

光ばかりを評価しすぎて

いないか。

明るさ、笑い、楽しい、プラス思考・・・・

                                                       

一方で、

暗さ、悲しみ、怒り、苦しみ、悲観・・・

などが、すみの方へと

押しやられている。

そして“日の当たらない場所”で

息をひそめて生息している。

すみに押し込められているがゆえに

深く根づいていくとともに

ときに、暴発することもある

                                                         

上記のような

ことをたとえば“闇”というとして、

もし、この世から、

それらの闇がなくなったら、

ドフトエフスキーも漱石も、

ゴッホも、ベートーベンも・・・・

文学・絵画・音楽・・・、

ありとあらゆる芸術が

存在しないであろう

                                                       

だからといって、

闇にある人間が光があることが

わかっているにもかかわらず、

「この世は闇ばかりだ」と光の存在を

認めようとしないのもまったく解せない。

また、

「この世には、闇も光もないのだ」

といいはる者も好きになれない。

                                                           

この世には、たしかに

闇も光もある。

社会の闇も光も

自分の中の闇も光も

そのありのままを見つめる、

だからこそ、生きていておもしろい。

ぼくはパラダイスとは、

光のみの世界ではなく、

光もあれば闇もある世界だとおもう。

                                                  

それは、決して闇の中で生きろ、

光の中で生きろ

ということではない。

闇と光の中で

もうすでに生きている

人間と自分の真実の

姿を見ることだけでいいのではないか

ということだ。

                                                   

                                                  

今の世界とそこに生きる人間が

いけないとするなら、

光もあれば闇もある

そのあるがままのほんとうの世界を

見つめていない、

それだけのような気がしてきた。

                                                        

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いのちのちから 更新しました。

                                                         

いのちのちから

~子供を病気にしない自然育児&子育てのコツ~

http://blog.livedoor.jp/shou0731fuu1115/

                                                 

 

更新しました!

(今のところ“4の日”に更新してます)

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June 20, 2008

「愛」より「誠」

昔、『愛と誠』という

マンガがあって、

ドラマにもなったりして、

とても流行ったのを覚えている

人も多いでしょう。

愛(あい)という女と

誠(まこと)いう男の

恋愛もので、

ぼくはまだ少年だったので

あまり関心がなかった。

ただ、『愛と誠』という

タイトルだけは、

はっきりと覚えている。

それで思うのであるが、

『愛より誠』だと

今思う。

昔から日本人が大切に

してきた徳目は

「愛」よりは「誠」だろう。

だからそう思うのでは

ないのだけれど、

まず自分の心が「誠」で

なければ

ほんものの「愛」が

生まれようはずがない。

たとえば、その人の

心に他人への憎しみが

渦巻いているとする。

それなのに、

自分の中にある

憎しみを認めずに

憎しみはないとする。

それがすなわち、

「誠」でないことであり、

「偽り」というものである。

その心の奥に押し込めた

憎しみをもちながら、

一見、「愛」に見える

施しを他人にするとする。

それは、自分の心に

「愛」を拡大するどころか、

他人への

「憎しみ」を増大することに

つながりかねないのである。

最近、日頃ボランティア活動を

活発にやってきたオバサンが

施設に放火したという事件が

起こったが、まさに、

その事例にあてはまった

事件であることが考えられる。

やはり、

自分の心の中に、

「憎しみ」があるなら、

「憎しみ」があることを認める

べきだ。

それが「誠」であろう。

そうすれば、

「憎しみ」はたとえ

少しずつでも消えてゆくし、

その中で、

「愛」の心も

だんだんと芽生えてくる。

つまり、「誠」という

心のあるべき「自然な状態」で

あってこそ、

その土壌に

「愛」という植物は

しだいに育っていき、

花を咲かせ

実をみのらせることも

できるようになるのである。

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今も変らず・・・

今はまだ、心理的にも

ちょっと無理があるけれど、

こんなこと、自然に妻にいえるような

「大人」にはやくなりたいものだ。

                                                         

髪をとかして 化粧して

一番好きな服を着て

子供達 お袋にあずけて

出かけよう 今夜

・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・・・・・・・・

君がいなきゃ たとえすべて手にしても

うつろで孤独な日々が続くだけさ

一番大事なもの気づいたから・・・

・・・・・・・・・・・・・

今も変らず 俺 君に恋してる

一番きれいな君を知ってるから…

      浜田省吾『星の指輪』より

                                                       

 

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June 19, 2008

プラス発想しないのでなくて出来ない

本日の朝日新聞夕刊に

「自殺10年連続3万人超」

という見出しの記事が出ていた。

自殺の原因は、

健康問題、経済・生活問題、

家庭問題、勤務問題、男女問題・・・

という順番であった。

うつ病だけではなく

おそらく、

それ以外の健康問題にしても、

経済・生活問題にしても、

家庭問題にしても

その他にしても、

心の問題、心の健康ということは、

からんでいるであろう。

一般的にどんな悲惨だと

思われている状況にあっても、

それをいい方にとらえるか、

悪い方にとらえるかは。

その人にかかっている。

事柄自体には、

良いも悪いも、

プラスもマイナスもない。

解釈するのはその本人である。

プラスに発想し、

いい方に解釈をしていれば、

どんなに肉体的につらくても、

経済状態が厳しくても、

人間関係において摩擦があっても

自殺に至ることはないだろう。

人生のどん底にあっても、

悠々と胡坐を

かいていられる人も

世の中には大勢いる。

それは、おそらく事柄への

とらえ方にかかっている。

だからといって、

自殺をした人は、

自分にふりかかった問題を

プラスに解釈しなかった

だからその人が悪いのだという

ことにはならない。

正確にいえば、

「解釈しなかった」ではなく

「解釈できなかった」のである。

これだけ、世の中、

プラス発想の大切さが

唱えられているのだから、

自殺した人の多くに、

意識的にプラス発想しよう、

自分にふりかかった出来事に

ついて、よい方に解釈しよう

とした人がいたのではないか。

それでも、彼らは結果において

そう出来なかったといった方が

正確ではないかと思うのだ。

それが出来ないのはなぜか。

出来なくさせている何かが

あるのである。

その何かとは、その人の心、

すなわち潜在意識やさらに

それよりももっと深い部分に

あるのだろう。

その何かが、顕在意識によって

プラス発想をしようとしても

マイナス発想をさせ、

物事をいい方向に

解釈しようとしても、

悪い方向に

解釈させてしまうのである。

そして、

その人の心の奥深くより、

その何かを取除くのは

容易なことではないだろう。

このことは、一向に減らない

自殺者の数にも表れている。

まずは、この根底には、

こうした心の不健康といえる

問題があるのではないか

といった面からも、

議論していくことが必要だと思う。

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June 18, 2008

宮崎勤の死刑に想う

宮崎勤の死刑が執行された。

宮崎勤について今まで

自分が感じたこと、

考えたことを、

たとえ拙いものであっても

自分を見つめるという意味でも

この時点で

書いておいたほうが

いいであろう。

今後、マスコミでほとんど

取り扱われることが

なくなるであろうが、

それとともに、自分の

記憶のかなたへと押しやられていく

ことは想像するに

難くないから。

事件から数年後、

ある番組のロケのとき、

彼がおそらく生まれてから

ずっと住んでいたであろう

五日市の家を見る機会を得た。

印象は、

「これほど豊かな自然にかこまれて

育っている中で、どうしてあんな

残酷な事件を起こす

人間になったのだろう」

その頃すでに日本人には、

「自然が人間の心を癒す」

「正常にする」という見方が

広まっていたのだろう。

その影響を自分は受けていた。

たしかに、今でも

「自然の力」というものは

自分の心と身体を通して、

受けとめている。

1988年頃の事件当時、

宮崎は「今田勇子」という女性に

なって、犯行声明文をマスコミに

送った。

それを読んで私は、

別に自分に文才が

あるなしに関係なく、

直観で

「男性が女性になりかわって書いたものだろう」

と見抜いた。

まだ、各マスコミが

「今田勇子とは、子どもが持てなくて、

子どもを持つ親や社会を憎んでいる女性

ではないか」などと報道している渦中に

である。

その後、宮崎が捕らえられている姿を

テレビのニュースで見て、私は

「やっぱりなあ」と思うと同時に、

見事なまでに当たってしまったことに

薄ら寒ささえ感じたものだ。

今は、なぜ当たったのかという

ことを正直、少しおびえながら

勇気を出してこう語る。

「自分は内面に宮崎と同じようなものを

もっているのだ」と。

ワイドショーだったと思うが、

宮崎のことを大島渚監督が

「彼はこんな犯罪を実行する前に、

芸術家になっていればよかったのだ。

きっと芸術家として成功したであろう」

というようなことを言っていた。

別に、私がその部分で彼と

「同じようなものを

もっている」といいたいわけではない。

そうではなく、育った家庭環境は

異なるとはいえ、

それぞれの家庭より受けた抑圧、

去勢、ときにはいじめに近いもの

(自分がそれと

同じような心の痛み・苦しみを

受けたという意味でも)

・・・が、似通っていた部分が

あったせいではないかと思うのだ。

何かで聞いたが、

宮崎がうちに帰ると

父と母、彼以外の兄弟の

食事が用意されていて、

彼の食事はないということが

日常茶飯事だったようだ。

そんな中で、優しくしてくれたのが

唯一、彼のおじいさんだったという。

そのおじいさんが亡くなり、

その後、彼は犯罪へと向かっていく。

私はそのようなあからさまな

虐待を受けたわけではないのだが、

親や周囲の大人たちより、

彼らの意に染まるように

育てられた。そこから、

はずれると捨てられるような

恐怖におびえながら、

幼児期、少年期を過ごしてきた。

現に心理的に捨てられ、

切り離されたこともあったであろう

ことを今は、想像できる。

宮崎勤は確かに

人間を癒す力のある

「自然」にかこまれる環境の中で

育ったけれど、

この「冷たい家族」によって、

「自然」との間に

バリアを造られてしまっていたのであろう。

子どもも大人も

心理的に安定していなければ、

どんなに近くにそれがあっても

自然に心よりふれられるものではない。

人間が心を開放してこそ、

自然もその心に入ってこられる。

閉ざしていたのでは、

自然の中に暮していても、

まったく自然のない、

鉄筋の群れに

住んでいるのといっしょである。

今、私にも被害者となった

子どもと同じ年頃の

娘がいる。

親の気持を想うと、

死刑はもちろん

自分の手で殺しても、

殺しきれない、

幾ら憎んでも

たりない心境であろう

ことは充分に想像できる。

一方でまだ幼いが

息子もいる。

この息子は、

なんとしても、

宮崎のような人間にしてはいけない、

自分のような苦しみを

味あわせたくないとも思う。

今日の朝日新聞夕刊には

「社会が受けた衝撃の大きさとは

裏腹に、本人(宮崎勤)は公判でも

最後までひとごとのようだった」

とある。

「ひとごと」とは

「自分と向き合えない」

ということである。

なぜ彼が「自分と向き合え」

なくなったのかといえば、

それだけ彼にとって、

まったく自分というものを

受け入れられないような

過酷な幼少期を生きてきた

ということである。

そして、唯一、彼のことを

受け入れられていたはずの

祖父が死んでしまった…。

おそらく彼は自己の現実を

見つめず、

「ひとごと」ととらえる

ことでしか、

彼にとって地獄の

世の中を生きのびることは

できなかった。

今の法律・制度は

死刑があるのだし、

また、被害者となった

子どもたちの

親御さんの気持ちを

慮れば、

「死刑」もやむをえなかったと

私は考える。

ただ、死刑囚・宮崎勤を

作り上げたような家族を

生んだ「社会」が、

ぜひ、今、書いたような視点

というものを忘れないでほしい、

かつて「今田勇子」の文章が

心の琴線にふれてしまった

私は「ひとごと」ではなく

そう願うのである。

                                       

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June 16, 2008

夢は素っ裸で海

素っ裸で昨晩は寝た。

ちゃんとした名称は忘れたが

「素っ裸健康法」ってやつだ。

体にどれだけいいかは

まだわからないけど、

すくなくとも、

ほんのささやかな

自由を味わえた。

いつも寝巻きを着て、

腹巻をしているせいだろう、

ふとんの中で

生まれたままの姿になったのは、

みのを取られたミノムシに

なったようで、

不安もあり、自分のからだに

頼りなさも感じるのだが、

その気持の裏腹で、

のびのびとした開放感も

どこかで感じているのだ。

それが「自由」ってものの

本質的な姿かもしれない。

自分の最近生まれた

夢をここで告白したい。

それは、素っ裸で

海にはいることだ。

海水パンツをはずして

波にもまれるのは

どれだけ気持ちがいいことか。

それには、江ノ島のような

海じゃ、いつ大切なところに

ビニール袋のような

ゴミがはりつくかわからなし、

夏場だとクラゲに

さされて機能不全に

陥るのは勘弁である。

やはり南の島の海岸のような

透明で

海中にはいっている

自分の足先までが

くっきり見えるような

ところがいい。

もしかしたら、熱帯魚か

なんかがいっぱい

コツコツぶつかってきたりして、

それはそれで快感で

クセになってしまうかもしれない。

プライベートビーチや

ヌーディスト村のような

「気取った」ところは

ご免である。

なぜなら、

ささやかな「自由」を

得るためのものなのに

だいなしにされてしまう

ように思えるから。

一緒にいるひとは、

自分のすべてを見せられる

人ならいてもいい。

無人島にやはり、

たった一人、素っ裸で

いるのはあまりにも

不安で、恐怖感に縛られる

おそれもあるからだ。

ただ、その一緒にいる人の条件は

海に入っている

「ぼくのすがた」を

カメラやビデオに

おさめないことはもちろん

ぼくに想起させるような

ことはいわないこと。

自分が一人で

波にもまれている姿を

あまりにもくっきり

思い浮かべることは、

きっと、自分自身、

たえられないような

気がするから。

もっとも好きこのんで

四十男の

そんなぼくの姿を

カメラやビデオにとったり、

アタマに繰り返しなぞるような

ことをする人は誰も

いないと思うけど。

                                      

                                       

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ココ(↑)をクリックすると、パソコン画面が“そら”になります。

                                                                                                                           

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「体」のあとは「心」

今、自分の心の問題に焦点を

あてられているというのは、

一つは、体の方が落着いている

からであろう。

先月血液検査とレントゲンのみであるが、

健診を受けて、

喘息の原因となっているアレルギー反応を

のぞいては、すべてが見事なまでに

「正常値」であった。

これも、難病等による

体調不良のために

仕事を完全休業して、

およそ7年半。

自画自賛ではあるが、

自分の努力の賜物と

家族の多大な協力のおかげであろう。

神様と周囲の人たちに

心より感謝したい。

ようするに、

心の問題というハードルを

与えられたということは、

いよいよ「仕上げ」の段階に

入ったのだととらえている。

仕事を休んでから、

一つの計画があった。

それは、自分が体をこわしたのを

逆手にとって、

健康・医療問題を専門しようと

考えたことだ。

「なんでもや」では、

この先、物書きとして通用しないと

切実になっていたのだ。

ところが、

物書きとは

それが、物語であれ、

人物評伝のようなものであれ、

人間(とくに心)を描くべきだ

という思想を私はもっている。

自分としては、

健康・医療問題というテーマでは

ちっとも結びつかない

という矛盾が生じてきてしまった。

結びつくといっても

自分に関心があり、

「そそられる」テーマでなくては

しょうがないわけで、

そういった切り口には

到達しえなかった。

今、体の病の背景にあると

思われる「心」について、

「完全治癒の道」を目指して

取り組んでいこうということは、

まさに、自分がいうところの

「人間(心・魂)」へとダイレクトに

飛び込むということである

ようやく2つの線が

結びつくところまでに、

きたということでもあるわけである。

こころの問題が解決できれば

きっと自分を取り巻く

環境は変るであろうし、

新しくて

面白い何者かが「書ける」のではないか

というワクワクした気持で

今は日々を過ごしている。

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June 15, 2008

心の問題と愛

レンタルビデオ店で借りた

「シャイン」を4度見た。

映画を意識して繰り返し見ることは

今までは好きではなく、

4度というのは初めてかもしれない。

心に傷をもつ父親に育てられた

ピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴット

の心理状態が、

自分の幼少期、青年期(実は、30代半ばまで

いや、今でも…かもしれない)

の心境とよく似ていて、

繰り返し見ながら、

「あのときの自分」というものを

思い出していた。

あの苛酷な環境で、

デヴィッドとまでは行かないとしたとしても

それに近い苦しみの中で

人生を泳いでいたということが

確かならば、

彼は「救い」のために

精神の病をきたしてしまったのだが、

「あのときの自分」は

喘息なり、腎臓病なり、

そうした身体の病になっていた方が

楽だったに違いない。

それに、発作さえおきていれば、

少なくとも「愛のかわりのようなもの」を

得られたように錯覚できた

であろう。

ぼくは実に複雑な家庭環境の中で

育った。

別にそれを不幸だととらえてきた

わけでもなく、

それによって“おいしい”部分も

あったのだが、

失ったものも大きかったはずだ。

その複雑に絡まった過去にこそ

今の自分を解くカギがある

ということはわかっていても、

どこからほどいていけばいいのか、

糸口が見当たらないで、

ここ数年を過ごしてしまった。

それがどうやら、亡くなった

母との関係のあたりにありそうだと

つい半月ほど前に

気づいてから、

現在の私と妻や娘、息子との関係、

さまざまな人間関係や

社会への見方も

霧の中を一直線にのびるライトのように

一気に見えてきた。

その延長線上で、

映画「シャイン」を通して、

過去を見つめ、その意味を

闡明しはじめたのだ。

ただ、自分一人じゃ、

解決にいたるまでには

限界があると

感じている。

素直に自己を見つめてみて、

自分や家庭内だけでは

手に余る問題である。

専門家にカウンセリングを受ける

必要があると思うし、

またすでにその方向で動いている。

亡くなった父は、

似たような心の問題を

抱えていて

墓場まで持ち越してしまった。

それだけは、子どもたちや妻の

ため、自分のために

したくない。

だから、身近な人、

ご縁のある人には

待ってほしいと思うのだ。

とくに、自分の中の

心の傷に気づいてからというもの、

まるで、そこから

血が噴出しているようで、

止血しているだけ、

自分のことだけで

精一杯だ。

実はもうだいぶ前から

そうなのであるが、

気づきがあってからというもの

ますます、そうなっているし、

意識的にまずは自分だけを

癒そうとしている。

「自分が幸せにならなければ

他人を幸せにできない」

とは真理であろうから。

なにか他の人のために

するようなことが、

必要なことがあっても、

また気分にまかせて行った

としても、

どこまで魂が入れることができるか、

自信はない。

“愛”の心とはどういうものか、

泉のように湛えられる

人間にいつかはなりたい

という『夢』はある。

ただ、唯一の着手点は

自分を真に愛するということに

しかないとも思うのだ。

                                       

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June 12, 2008

路地裏から抜け出せない少年

ハマショー(浜田省吾)の

「路地裏の少年」を繰り返し繰り返し

聞いている。

なぜ聞きたくなるのかよくわからなかったが、

少し気がついたのは

中年となった自分がいまだに

「路地裏の少年」のままなんだ

ということ。

つまり心の中は「路地裏から抜け出せない少年」

でここまで来てしまったということにだ。

                                        

                                                   

(以下、「路地裏の少年」より)

口ずさめば悲しい歌ばかり。

届かぬ想いに胸を痛めて

ああ今日もまた呼ぶ声に応えては

ああ訳もなく砕かれて手のひらから落ち

今はおれ二二初めて知る

行き止まりの路地裏で

                                                      

この「二二」のところを「四三」にすれば

まったく今の自分にあてはまる

情けないかな。

                                                       

                  

DVDで映画「シャイン」を見た。

幼少の頃からの父親によるスパルタ教育によって

精神に破綻をきたしてしまう一流ピアニストの

実話を映画化したもの。

                                                         

ぼくは、ピアノの教育を受けたのは、小学生までは

小1~2の2年間だけだし、

父親ばかりから厳しくされたわけではないのだが、

主人公のピアニスト(デヴィッド・ヘルフゴット)の

心理状態は、自分の幼少期から青年期に

かけてとそっくりであった。

彼の気持も、またその精神病の原因となった

父親の心理も手にとるように理解できた。

自分には喘息やのう胞腎という「抜け道(?)」がなければ

主人公と同じく精神病になっていたかもしれないと

自己の過去の人生がみわたせるような映画であった。

                                                      

それにしても、

登場人物の心境がよく理解できたというのは、

自分がいつまでも

「路地裏から抜け出せない少年」

だからなのであろう。

                                                            

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TSUNAMI

(前の前の記事よりの続き・・・)

080608_012_2   

                                                                                                                            

湘南といえば、サザン。

活動休止はさびしい。

ところで、

TSUNAMI(つなみ)とは、

津波のことであろう。

メロディを聞いて、

小波(さざなみ)をイメージしていたのは

おれだけであろうか?

                                                                                                                      

                                                                                                                              

それにしても、

できることなら

こういういい曲を

死ぬほど聞いてから

死にたいものだ。

                                                     

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June 10, 2008

子育てと健康に関するブログはじめました!

                                                   

子育てと健康に関するホームページを

立ち上げると以前いいましたが、

ブログ(“自然流育児&子育て”がテーマ)から

はじめています。

もうちょっと、記事がたまったら、

アドレスをお伝えしようと思っていたのですが、

忘れないように気にとめるのも、

めんどうくさいので(笑)、

今お伝えしちゃいます。

                                                            

「いのちのちから

~子供を病気にしない

 自然育児&子育てのコツ~」

http://blog.livedoor.jp/shou0731fuu1115/

                                                       

このキビダンゴも

健康と子育て日記的なものから

始まりましたが、

今は、主観ばかりの

まさにプライベート日記になりはてています。

ところが、主観を書いてるつもりに

なっているだけで、

自分のハートを書けてるとはいいがたく、

このブログが、

自分の“心さがし”のツールに

なっています。

新規に立ち上げたブログでは、

客観性をもたせたいと思っていますが、

やはり主観がなくては

みるほうも作るほうも、

おもしろくないので、

客観と主観のバランスを

目指したいと思います。

ただ、理想はそこにありますが、

できるか、どうかは

いろいろな意味での

能力の問題であり、

自分でも定かではありません。

それにしても、

自分の心を書くって、

難しい。

「心を書く」なんて、

ガチガチにならないで、

適当に書いても、

自分を書けないのだから

しょうがない。

二十歳(はたち)のころ、

物書きを志してより

背負っている「苦しみ」です。

今、つかみかけているものが

“ほんもの”であることを

切にねがっています。

                                  

新しいブログは、

目指していることは、

上記のような感じで、

プライベートというよりも

どちらかといえば“公式的”

なものにしたいと考えてますが、

プレッシャーになるとますます

かけないので、

心理的、外面的にも

できるだけ“てきとー”に、

やっていこうと思ってます。

こっちと同様・・・。

                                  

                                    

                                                

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June 08, 2008

海-enosima

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江ノ島(湘南)の海に一人。

                                                       

080608_065

海は、ただそこにあるだけでいい

                                                        

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そして、この俺も生きている。

                                                                                                                        

                                                                                                                         

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June 07, 2008

侵されざる母親像

43才という

この年になって

ようやく分かったことがある。

自分は、甘やかされて育ってきたから

喘息になったのかもしれないと、

これまでは思ってきたのだが、

そうではなく、母親に

甘えられなかったのだ。

母親から充分な

愛を受けてこなかったのだ。

そのままの自分を

受け入れてもらえず、

去勢されてしまった。

それで、真面目ないい子に

なってしまった。

今、こんな堅物な大人に

なってしまったのも

その影響が大きい。

一方で、内面は、母親やその他の人間、

そして自分に、にくしみや

攻撃性を蔵している。

だから、人付き合いが苦手になる。

相手への敵意を懸命に

隠さなくてはいけないから。

まさか、このような心理学で

いわれる型通りの定理が

自分にあてはまっているなんて、

今までそうしたことを

本を読んだり

人から聞いたり、

ブログなどで

できるだけ正直な気持を

書こうとしてきたが、

まったく

気がつかなかった。

母親はもう

亡くなっているのだが、

これまでは

神聖視をしすぎていた。

母親を愛の深い寛大な

人間だと思ってきた。

まったくその反対の視点から

みると、自分のことや

過去のこと、似たような

他の人間のこと、

自分の子供のこと、

女房と自分との関係など

見えてきたような

気がする。

今までは、

自分の母親へメスを入れて、

解剖するのが

恐ろしくてできなかったのだ。

自分にとって、母という

聖域に足を踏み入れることは

許されることではなかった。

まだまだ

ハードルはあるのだろうが、

この段階まで来られて

少しほっとしている。

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June 03, 2008

コメント欄について

                                                                           

自分の中に、土足でずけずけと入り込んで

くるような奴は芯から嫌いである。

以前、楽天でブログをしていたとき、

私が書いた記事とはなんの関係もないのに

私のページのコメント欄を利用して、

他の者をさそって、

長々と言葉をやり取りした者があったが、

他の人間はどうであるかは知らないが、

私は眩暈するぐらいに腹が立ったことを

覚えている。

それを許せるほどの

寛容な人間ではない。

実際に会える相手なら、

言って分かる人間か分からない奴か

を自分なりに見極めた上で

怒りを正面からぶつけたいところだが、

ブログの中だけの面識のない者である。

考えたあげく、

リンクをはずした。

付き合いを拒否したということである。

(以前、私は目的のためなら、

気に食わない奴など

どんどん他人との関係を切ってきた。

今は反省しているので、

できるだけ人を切らない

ようにしているのだが、

このときは、切らなければ

自分の心をコントロールできない

というくらい怒り心頭に達していた。

すべては神から与えられた

関係-人間であろうが、

ときには、「切る」ことも

必要なことではないか

この件をきっかけに

今はそう思い返すようになった。)

こんなことをしているから

自分は友人が少ないし、

ブログでいえば、相互リンクが

少ないということなのかもしれないが、

自分を曲げてまでして、

人と無理矢理付き合いたくない。

ビジネスやなにか事業を行うためのもの

ならまだわかるが、

“ホーム”ページというように

とくに個人のブログは

自分の家のようなものである。

コメント欄は縁側にあたるかもしれない。

縁側はうちと外との境目ではあるが、

縁側だって、自分のうちには違いないのだ。

そこで勝手なことをされたら、

すくなくとも、私は

黙っていられない。

最近、ココログには

コメントを承認制にするという機能が

ついていることを、

あらためて思い出したので、

しばらくはそうさせていただて

試してみることにした。

もちろん、

記事への感想など、

普通のコメントは歓迎である。

ただ感想といっても、

自分の書いたものを

否定されたのでは、

やはり黙ってはいられないし、

承認しないだろう。

私は別にこのブログへの

評論を求めているわけではないし、

それは、家の縁側から、

中に向って悪口をわめきたてているような

ものだからである。

ほんとうに、その家のものを

思っての否定的な意見ならば、

顔をつき合わすなり

手紙をかくなり、

せめてちゃんとしたeメールを

送るなり、

筋をとおすべきではないか。

だからこそ、批判が

効果を発揮するのである。

他人に要求するだけでなく、

自分もそうしたいと思っている

これは、自分の性格かもしれないが

それくらい“かたく”かんがえなければ

いけないのではないか。

ネット上のつきあいでも。

本名をのべていない人が多いだけに

安易な方向に流れすぎている

と思うのだ。

とにかく自分の中に土足で

入り込まれるのは、何よりもいやなの

である。

                                                                     

ここでスイスの哲学者であり、キリスト者である

カール・ヒルティの言葉を記しておきたい。

ひとは他人からなにも得ようと思わないなら、

全く違った目で彼らを見ることができ、

およそそのような場合にのみ、

人間を正しく判断することができる。

                                    

浅い交わりの友人とも長くつき合って行きたければ、

彼らから多くを求めないよう用心しなければならない。

    (ヒルティ著『眠られぬ夜のために』より)

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