欲望こそがこの俺を解放へと導く?
「これが俺だ」
という実感は、
どれがほんとうなんだろう。
理屈ぬきで
“つかんでいる”人間が
うらやましい。
自分を裏切り続けた
結果だろうか、
希薄な「俺」しか
感じられない
自分というものを
ようやく少し
つかめたばかりである。
ただどうしても
裏切れなかった
自分というものは
少なくとも欲望に
だけはあった。
今おもえば、
欲望こそが
この「俺」を
内側で引き止めて
くれる
「最後の砦」に
なってくれていたの
かもしれない。
食欲しかり、
睡眠欲しかり、
性欲しかり…。
中でも性欲は
他の人は
知らないが、
自分としては
内部で激しく渦巻いて
いたがゆえに、
常に
せき止めることが
できずに、
その奔流は
ときにダムを決壊し、
あくまでも
自分にとってのであるが
理性的な活動から
逸脱してしまう
ことがあった。
それは
縛りが弱かった
というよりも
エネルギーが
強かった
ということなのかもしれない。
とくに性欲というものには、
なにか汚らわしいような
ものを思い、
(じつは、今でも
払拭されきって
いないのだが・・・)
翻弄される自分を
卑下もしてきたが、
それがあったからこそ、
また戻ることに
なるとはいえ、
牢獄からしばし
脱出することが
できたのだ。
それがなければ、
「牢獄」しか知らない
「(ブタ)箱入りムスコ」に
なっていたかもしれない。
果たして、
今の自分の心が、
欲望からきているのか
神聖なものからきているのか
ということが
常に把握できるもの
なのだろうか。
もしかしたら、
この「俺の心」とは
ときに立派な
ことを思っていても
欲望と寸分も
違わないのではないか。
確かなものとは
すべて
欲望に裏付けられている
のではないか。
それはいいすぎだとしても、
欲望が魂の牢獄からの
開放の手伝いを
してくれることは
自分の経験から
たしかにいえる。
それに、
何よりも神聖な
出産という
人類に欠かせないイベントは、
必ず
性欲を発端にして
はじまるのだ。
その事実に
目をつぶってはいけない。
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