「愛」より「誠」
昔、『愛と誠』という
マンガがあって、
ドラマにもなったりして、
とても流行ったのを覚えている
人も多いでしょう。
愛(あい)という女と
誠(まこと)いう男の
恋愛もので、
ぼくはまだ少年だったので
あまり関心がなかった。
ただ、『愛と誠』という
タイトルだけは、
はっきりと覚えている。
それで思うのであるが、
『愛より誠』だと
今思う。
昔から日本人が大切に
してきた徳目は
「愛」よりは「誠」だろう。
だからそう思うのでは
ないのだけれど、
まず自分の心が「誠」で
なければ
ほんものの「愛」が
生まれようはずがない。
たとえば、その人の
心に他人への憎しみが
渦巻いているとする。
それなのに、
自分の中にある
憎しみを認めずに
憎しみはないとする。
それがすなわち、
「誠」でないことであり、
「偽り」というものである。
その心の奥に押し込めた
憎しみをもちながら、
一見、「愛」に見える
施しを他人にするとする。
それは、自分の心に
「愛」を拡大するどころか、
他人への
「憎しみ」を増大することに
つながりかねないのである。
最近、日頃ボランティア活動を
活発にやってきたオバサンが
施設に放火したという事件が
起こったが、まさに、
その事例にあてはまった
事件であることが考えられる。
やはり、
自分の心の中に、
「憎しみ」があるなら、
「憎しみ」があることを認める
べきだ。
それが「誠」であろう。
そうすれば、
「憎しみ」はたとえ
少しずつでも消えてゆくし、
その中で、
「愛」の心も
だんだんと芽生えてくる。
つまり、「誠」という
心のあるべき「自然な状態」で
あってこそ、
その土壌に
「愛」という植物は
しだいに育っていき、
花を咲かせ
実をみのらせることも
できるようになるのである。
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