心の問題と愛
レンタルビデオ店で借りた
「シャイン」を4度見た。
映画を意識して繰り返し見ることは
今までは好きではなく、
4度というのは初めてかもしれない。
心に傷をもつ父親に育てられた
ピアニスト、デヴィッド・ヘルフゴット
の心理状態が、
自分の幼少期、青年期(実は、30代半ばまで
いや、今でも…かもしれない)
の心境とよく似ていて、
繰り返し見ながら、
「あのときの自分」というものを
思い出していた。
あの苛酷な環境で、
デヴィッドとまでは行かないとしたとしても
それに近い苦しみの中で
人生を泳いでいたということが
確かならば、
彼は「救い」のために
精神の病をきたしてしまったのだが、
「あのときの自分」は
喘息なり、腎臓病なり、
そうした身体の病になっていた方が
楽だったに違いない。
それに、発作さえおきていれば、
少なくとも「愛のかわりのようなもの」を
得られたように錯覚できた
であろう。
ぼくは実に複雑な家庭環境の中で
育った。
別にそれを不幸だととらえてきた
わけでもなく、
それによって“おいしい”部分も
あったのだが、
失ったものも大きかったはずだ。
その複雑に絡まった過去にこそ
今の自分を解くカギがある
ということはわかっていても、
どこからほどいていけばいいのか、
糸口が見当たらないで、
ここ数年を過ごしてしまった。
それがどうやら、亡くなった
母との関係のあたりにありそうだと
つい半月ほど前に
気づいてから、
現在の私と妻や娘、息子との関係、
さまざまな人間関係や
社会への見方も
霧の中を一直線にのびるライトのように
一気に見えてきた。
その延長線上で、
映画「シャイン」を通して、
過去を見つめ、その意味を
闡明しはじめたのだ。
ただ、自分一人じゃ、
解決にいたるまでには
限界があると
感じている。
素直に自己を見つめてみて、
自分や家庭内だけでは
手に余る問題である。
専門家にカウンセリングを受ける
必要があると思うし、
またすでにその方向で動いている。
亡くなった父は、
似たような心の問題を
抱えていて
墓場まで持ち越してしまった。
それだけは、子どもたちや妻の
ため、自分のために
したくない。
だから、身近な人、
ご縁のある人には
待ってほしいと思うのだ。
とくに、自分の中の
心の傷に気づいてからというもの、
まるで、そこから
血が噴出しているようで、
止血しているだけ、
自分のことだけで
精一杯だ。
実はもうだいぶ前から
そうなのであるが、
気づきがあってからというもの
ますます、そうなっているし、
意識的にまずは自分だけを
癒そうとしている。
「自分が幸せにならなければ
他人を幸せにできない」
とは真理であろうから。
なにか他の人のために
するようなことが、
必要なことがあっても、
また気分にまかせて行った
としても、
どこまで魂が入れることができるか、
自信はない。
“愛”の心とはどういうものか、
泉のように湛えられる
人間にいつかはなりたい
という『夢』はある。
ただ、唯一の着手点は
自分を真に愛するということに
しかないとも思うのだ。
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