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July 31, 2008

「ガン産業の実態」を見れば、医療と世界が見える

「いのちのちから~子供を病気にしない自然育児&子育てのコツ~」

で、以下の記事をアップしました。

「子供にも増えているガン~3大治療と自然な治療」

この記事はジャーナリスト、ベンジャミン・フルフォードさんの

ブログの記事「ガン産業の実態」を元に

書きました。

                                                      

このことは、ガンばかりでなく、他の医療にも

いえることであり、日本だけでなく世界の問題でも

あるでしょう。

私は自分で勉強しただけでなく、

取材を通してどうやらほんとうのことであるようだ

という確信をえました。

こうした“裏の事実”を知ることも、

健全な生活を送るためにも、いまや必要な

ことであるのかもしれません。

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July 29, 2008

いじけている自分に正直に生きる?

いじけている。

意地が悪い、つまりいじわる。

ケチ。

ひねくれている。

すぐに、ひがむ。

しっと深い。

執念深い。

ネチネチしてる。

・・・

これはある人のことを

さしている。

誰あろう、

この私のこと。

「自分に正直に生きる」とは、

こういう「自分」にも

「正直に生きる」という

ことであろうか。

誰かがいいそうだ。

人の本性は善であり、

良心である。

だから、あなたがいっているのは、

ほんとうのあなたではない。

だから、それらに基づく限り、

「正直に生きた」ことにならない。

いやいや

説得力があるようで、

すくなくとも、

今の私には“効き目のない”

言葉である。

だって、人間の本性が

どっちであるかなんて、

人類の歴史の中で

はっきりしたことがあった?

性善説と性悪説、

どっちか正しいか

なんていまだに決着が

ついていないではないか。

別に自分は露悪主義ではないが、

偽善はもっといやだ。

今まで、ずっと偽善の比重が

大きかったからでもあろうが。

たとえ、冒頭にかかげた

社会的に、人間の負の

部分と思われていることであっても

それが自分である以上、

正直に生きるしかないと

思っている。

もっとも、

いじわるな心が自分の中にあるならば、

一方で、いじわるをしてはいけない

という良心も自分にはあるわけで、

その天秤の上で、

判断した結果、外にあらわれたのが、

「自分に正直」な言動ということになろう。

とにかく、

精神が正常である限り、

心の負の面を表にあらわすのは

心の正の面をあらわすより、

ずっとエネルギーが

いることでありそうだ。

行動に移さなくとも、

「いじけている。

意地が悪い、つまりいじわる。

ケチ。

ひねくれている。

すぐに、ひがむ。

しっと深い。

執念深い。

ネチネチしてる」

そういう自分と自分の心というものを

静かに客観的に

見つめたいと思う。

そこにあるのに、

自分の目の届かないところに

隠して、

ないないとあることを認めないことが

まさに、

自分に不正直な生き方であるわけだから。

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July 28, 2008

したくないからしない

自分の中の偽善に気づいてから

というもの、

他人の偽善も気になる。

世の中、

「したくなければしなければ

いいじゃねえか!」

と言いたくなることばかりだが、

自分だって、

したくないのに、

ついついしてしまう、

ことわりたいのに

ことわれないという事が

たくさんあるのだから、

他人のことばかりを責められない。

自分もふくめて

したくないのにする

者の“言い訳”は、

「それをしなくては困るだろう」

ということだが、

ほんとうに「しないと困る」のだろうか。

会社に行きたくないから行かない、

仕事をしたくないからしない、

学校に行きたくないから行かない、

家事をしたくないからしない、

・・・

たしかに、そのときに周囲に

短期的に困る人が出てくるかもしれないが、

おそらくそれをしなくても

社会や会社、学校、家庭は

回転していく。

ただ、「やりたくないから」といって

「やらなかった」

人間は、その場から排除されるかもしれない。

会社を首になったり、

仕事がもう来なかったり、

学校をやめさせられたり、

離婚したり・・・。

それでも、

自分が困ったと思わなければ

困っていないわけで、

「それをやらなくては困る」

と言い切れるものでもないだろう。

ここに書いているような事は、

夢想にすぎないのだが、

世間の人々がすべて

「したくないからしない」と

なったら、

地獄のような社会になるのか、

それとも天国になるのか、

そのどちらでもなく

今までのような現実がだらだらと続いていくのか、

・・・

ぼくはどちらかというと、

今よりはいい方向へと

いくのではないか、

と“夢想”している。

だって、

「したくないけどしている」

人でいっぱいの

世の中がこの“ザマ”だぜ

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July 26, 2008

「私」以外の「私」はほんとうにあるのか

「シッコ」という映画で

正確には覚えていないが、最後の方に、

「これからは『私』でなく『私たち』という

言葉を大切にしていこう」

といった内容のナレーションが出てきた。

金持ちばかりがまともな医療を

受けられて、貧乏人はろくに

受けられないアメリカの現状を

描いた映画であるのだから、

当然の帰結といえる。

「『私』だけの幸福なんてありえない」

という言葉もよくわかるし、

今までずっとわかりたいと思ってきた。

「シッコ」という映画の中だから

それでいい。

ともかく、

この映画の内容はさておき、

「私たち」という言葉が、

どうも苦手な自分がいる。

「私たち」「私たち」…

と無理やりに

脳髄に埋め込まなければ、

すぐに自分の中から消えてしまう

ように感じる。

それは、おそらく、

自分がずっと、

「『私』以外の『私』はほんとうにあるのか」

と本気で疑問を感じて、生き続けてきたことによる。

私が人間関係が苦手なのも、

一人で居るのを好むのも、

人間を大切にすることが処世上、

そして自分や家族の幸福のために

重要なことがわかっていても

本気で大切にする気に

ならないのも、

・・・すべてそこ、つまり

「『私』以外の『私』はほんとうにあるのか」

という感覚から来ているような気がする。

それは、自分の中で自然とこう展開していく。

「『私』以外の『私』はほんとうにあるのか」

という疑問を持っている「私」は正常なのか。

そもそも、

そういう疑問をもつ「私」って、

なんなのだろう。

「私」って、いったいなんなのだろう…。

「自分」ってなんなの?

社会常識からではなく、

自分の内面から

素直に正直に考えてみて(感じてみて)、

「私」以外に、「自分」を、「私」が感じているように

感じている「人(私)」がいるのが、

どうしても分らない、腹に落ちてこないのだ。

どうやら、自分の生涯のテーマは

そこら辺にあるのかもしれない。

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July 24, 2008

自分を作るとは、自分を知ること

近年における自分の大きな成果といえば、

「自分を作るには、まず自分を知ること」

に気づいたということであろう。

理想の人間になることが

1つの目標であり、今でもそうだが、

いくら理想の人間になれても、

現実の自分に基づかないものであれば

砂上の楼閣にすぎない。

そんなもの、作れたとしても

つくってもしょうがないだろう。

自分を深く正しく知れば、

あえて自分を作ろうとしなくても、

自ずと、

自分が出来上がる方向へと

高まっていくものなのかもしれない。

自分を知るとは、

他者を知ることであろう。

だからこそ、

経験だけでなく、

勉強する(学ぶ)ことが

重要である。

最近、「母に愛されていないと

自覚している自分」に気づいた。

それ対して、一時は痛烈な痛みを

感じたが、

一方で、他人事のように

その気づきを面白がっている

自分がいる。

もともと宗教や哲学などの研究が

好きで、

別の言葉でいえば、

真理の探究が

自然に人生のテーマになっているような

自分としては、

「母に愛されていないと自覚している自分」

の発見というのは、

おそらく数学の研究者が

新しい公式を発見したのと

似たような喜びがあった。

その視点に基づき、

周囲を見渡せば、

いくらでも勉強材料はある。

つまり、これまで見えなかったものが

「母に愛されていないと自覚している人」

という方向から追求していくと

見えてくることがありそうだということに

気づき、

とてもわくわくしている

自分もいるのである。

亡くなった母には

ここのところ、やり玉にあげていて

たいへん申し訳ないのであるが、

真理の探究の一環として、

そして、

それに基づいて自分が成長するために

やっているので、

どうか許してね、

と懸命に心の中で言い訳をしている。

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July 23, 2008

人前でキョロキョロしている自分

人生の修羅場から

逃げている人間、

すなわち、

一つ一つのことに対して

責任をとっていない者は

人前で落着かず

人の目を気にして、

キョロキョロしている

という。

自分もよく

キョロキョロしている、

挙動不審であると

いわれたことがあった。

放送作家として

活動し始めていた頃、

あるパーティーの席上、

ホームビデオに気づかないうちに

撮られていたことがあったが、

ビデオに映されている

何か悪い事をやった人間のような

落着かない自分の動きを見て、

思わず目をそらしてしまった。

たしかに、衆人の中で

そわそわと落着かない

自分を強く感じていた。

心を平静に保とうと思っても

心のどこかで

どうしても動揺してしまう。

その頃だけではない、

今でもまだある。

ビデオに挙動不審な

自分が移され、他人からも

キョロキョロしてると

指摘された時期、

自分は社会的にそんなに

間違った

ことをしていたとは思えない。

それでは、何から逃げようとして

いたのだろう。

何に対して

責任をとっていなかったのだろう。

やはり自分だったのではないか。

自分のほんとうの気持から逃げ、

自分を裏切っている。

そういう人生を選んでしまって

いるにもかかわらず、

自分に対して責任を取れていない。

もしかして放送作家という

仕事を心底愛していたわけでなく、

他人へのその響きのよさを感じて、

ただ自分は“放送作家”だぞと

人に見せようとしていたのではないか。

もしかして、自分にとって

アクセサリーと化していたのではないか。

仕事は面白かったし、

好きな局面もたくさんあったが、

ほんとうの放送作家に

なりきれてなかった。

にもかかわらず、

人に見せようとしていた。

でも、自分ではちゃんとわかっている。

ほんとうの

放送作家ではないということを。

それを見つめることから自分が

“逃げている”ということを。

このことは

大した実績を上げられなかったことが

証明している…。

今書いたことは、

自分にとってまだ確信を持てていない

仮説の段階である。

少し自虐的な見方かもしれない。

ただ、今後は、

別に他人の目をひくような

肩書きや地位なんていらないから、

もっと人まえで堂々とできる、

いやもう、どんなところでも、

ただ普通に振舞え、

決してキョロキョロと落着かないことが

ないような

人生を歩みたいものだ。

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July 20, 2008

他人と心が触れ合うってこういうこと?

                                       

今日は、これまでは

ほとんど接したことがない

96歳の、あるおばあさんと

話す機会があったのだが、

以前の自分ではなかったような

ささやかなしあわせ感を

得ることができた。

以前となにが違ったかというと、

できるだけリラックスして、

自然体で接しようと心がけていた

ことだけだ。

近頃は、電車にのってるときも

街を歩いている時も、

力を抜くことを考えている。

そして、周囲にいる人々は、

敵ではない、

味方なんだ

と自分にいい聞かせることもある。

おばあさんとは

かつて少しだけお話したことが

あったのだが、

そのときよりも、

今回の方が

ほんの少しだけど、

心が触れ合えたような気がした。

そして、

帰りながら、

胸にぽっと広がった

しあわせな感覚を

不思議に思っていた。

人と心が触れ合うとは

こういうことかもしれないと

ぼんやり思いながら

正午前の

焼けるアスファルトの上を

だらだらと歩いた。

日本一の放送作家になって、

ハリウッド映画に負けない

映画を作り、

全世界に向けてメッセージを

発信しよう!

夢に向って、

どんな手段を使ってでも

這い上がってやろう、

上昇!上昇!

とたった一人、血みどろの

努力していたときには

まったく

ありえなかった感覚だ。

自分の中では

正反対にある感情といえる。

だから、おそらく

すくなくとも

ぼくの場合は

両方を得るのは

難しい。

ならば

一度きりしかない人生、

今後の自分は

どちらを選択するのか?

ただ後者を選んだ場合、

目指すところまで

死にもの狂いの努力によって

這い上がり

世界へ向けて

何かメッセージを送れたとしても、

そのメッセージは

とても“希薄な”ものに

なってしまうに違いない。

                                      

“深い”ものにするのは

どうすればいいのか?

それをずっと悩み、

自分に問いかけているうちに、

夢が変ってきてしまった…

というのが、じつは

“ほんとうのところ”である。

                                             

                       

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July 19, 2008

なぐさめやアドバイスを求めていない

ぼくは、

このブログで、

プライベートな

生活ということではなく

自分の気持を出す

というのを

1つのポリシーにしている。

できれば、

自分の生活は

日記(ブログ)という形では

見せたくないと思っている。

なぜならば、

「その日は、

おまえ会えないと

いってたけれど、

ブログには、

遊びに行ったと

書いてあったじゃないか。

おれの誘いを断って、

遊びにいくなんて

ひどいじゃないか」

といわれるのが

いやだから。

理由なく誰とも

会いたくない、

何もしたくない

ということはある。

できるだけ自由で

いたいから、

プライベートは見せたくない。

自分はこのブログの意味を

つきつめていけば、

ただ面白い、楽しいから

やっていることになるが、

何が楽しいかと言うと、

「自己表現」なのである。

「自己を表現する」ことに

意味なんかない、

ただそうしたいから

やっているだけである。

「自己表現」とは、

自分の考えや気持、

‐自分というものを出す

ということであろう。

どこまで、純粋に

自己を出せるか?

ということが、

自分が自然に求めている

ことなのかもしれない。

自分の考えや気持ちを

表現するのに、

プライベートを出すのも、

1つの手段であろうし、

実際にプライベートを見せる

こともあるが、

まったくの作り事の方が

自分を出せるという事もあろうし、

ほんとうのことを

書いているようにみせて、

実は虚構も織り交ぜている

こともある。

つまり、

自分を表現する、

他者に伝えるということだけで、

完結している。

他者によく内容が伝わって

いれば嬉しいことは嬉しいが

それが目的ではない。

ましてや、

自分の窮状や悩みを

他人に伝え、

同情してもらったり、

慰めてもらうことは

求めていない。

むしろ、

この拙いブログを読んだ人が、

共感してくれ、

ご自身の悩みが

少しでも、

軽減してくれるならば

それは

とても嬉しいことである。

まあ、それは

思わぬ結果であって、

あくまでも、

今、求めたいと

思っているのは

“自分というものを

できるだけ純粋に

表現する“ことであろう。

いや、

そんなことも考えずに、

書きたいから書く、

むしろその方が

今の自分にはいいんじゃないか

と思っている。

もしかして、

それこそが

純粋な表現なのかもしれないとも

今、ふと考えた。

とにかく、

ぼくがあまり暗いことを

書いているものだから、

ときおり、

コメントやその他を

通して、

慰めてくれたり、

気の毒だと同情してくれたり、

相談に乗ろうとしてくれる

人もあるが、

すくなくとも、

このブログでは

それを求めていない。

端的にいえば、

こんなものでも

ぼくの作品なのである。

または、作品に

限りなく近いものなのである。

日常生活を伝える

日記でもないし、

悩みを打ち明ける場でも

ない。

これが、

このブログにおける

自分のスタンスである。

今まで、

“自分のスタンス”も

いろいろ変ってきたし、

これからも

また変るかもしれないが、

今はそう思っている、

それを今回は

伝えたかった。

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July 18, 2008

はじめに欠点はさらすべき?

初対面の男性に

欠点を見せる女性

女性の中には

初対面の男性の前で、

あえて、

自分の欠点をさらす人が

いる。

それは、おそらく

2つのパターンがある。

1つは、

その男性に気があって

あとで欠点を見つけられて、

ふられるよりも、

先に見せることで、

その欠点があるにも

かかわらず、

自分を受け入れてくれるのか

どうかを確かめたい。

あとあとになって、

自分の欠点が見つかって、

嫌になられるという

リスクはさけたい。

という場合。

もう1つは、

その初対面の男性が

自分のタイプではなく、

にもかかわらず、

相手の人は自分に

どうやら気がある

ようである。

その場合、

早々に自分が自分の

最大の欠点であると

常々気にしている

部分を相手に見せて、

その男から離れようとする。

でも、結局、

その男は、その女性の

欠点を聞かされて、

まったく、欠点だと思わず、

むしろ、その女性が自分で

欠点だといっている

部分をもっているがゆえに、

かわいいと思えてしまい、

ますます追いかけてしまう

ということもある。

「あるがままの自分」とは

「自然体の自分」

ぼくも、

相手の性別は問わず、

最初に、

あえて自分の欠点をさらす

という傾向もある。

そうでなければ

初対面の相手に対しては、

反対に、

かたまってしまって、

まともに自然な会話が

できないという

ことが多いように思う。

はじめに自分の欠点を

執拗なまでに言うことの根底には

相手に自分の欠点を

ふくめた

「あるがままの自分」を

認めてもらいたいという

考えがあるのだろう。

ところが、

あえて

欠点をいう、

欠点をさらすという

こと自体が、

すでに「あるがまま」で

なくなっていることに

気づいていない。

ほんとうの

「あるがままの自分」とは

“自然体”ではないのか。

人前で自然にふるまって、

出てくるのが、

その人の

欠点であり、長所であろう。

さらしている欠点とは、

「自分が欠点だと思っていること」

にすぎない。

また、過去に誰からか、

「おまえの欠点だと指摘されたこと」

であろう。

今、目の前にいる相手は、

それを欠点とは思わないかもしれない。

別のことを欠点だと

思うかもしれない。

だから、あえて

自分からひけらかすというのは、

その欠点に自分がとらわれている

場合、最初にいえば

気が楽になるということでは、

意味があるのだろうが、

それ以外では意味のないことかもしれない。

言葉をかえれば、

自分が狙っているような

「あるがままの自分」を

受け入れてもらう、

「あるがままの自分」を見せる、

といった効果はあまり望めない。

気になる相手の前でも、

“自然体”でいて、

欠点が出たら出たでいいや、

もしくは、

欠点が出ようが長所が

出ようが、

“自然体でいる”

ということが、

「あるがままの自分でいる」

ということだろう。

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July 17, 2008

生。そして、死。

                                                                                 

むりに

生きようとしなくていい。

むりに

死のうとしなくていい。

                                                                               

生きている。

                                                                                 

死んでいく。

                                                                              

ただそれだけでいい。

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シャボン玉は輝く

                                           

ぼくたちは皆、

シャボン玉みたいだ。

石鹸水にひたした

ストローから生まれ、

ユラユラ空中を

浮遊して、

草や、土、木、

アスファルト、

人の身体・・・

なにかにぶつかったり、

空中ではじけて

消えていく。

消えたら、跡形もない。

ほんとうに、

シャボン玉として

存在してるのは

ほんの一瞬にすぎない。

ならば、

ぼくらシャボン玉は

生まれた意味がないの?

いやいや、

それぞれのシャボン玉が

それぞれの輝きを放つ。

それこそが、

存在の意味さ。

太陽の光があたり、

風にゆられて

その輝きは変化し、

ときに窓ガラスに反射し、

花や自然を

透明なからだに

映し出し、

どれ1つとっても

シャボン玉は

同じ輝きをしているものはない。

すぐそばを飛んでいる

2つでも、よく見れば

必ずどこか色合いが

異なる。

1つ1つが

異質な

シャボン玉の輝きは

ストローから生まれたときから

もうその中に

内在している。

さらに、その輝きは

周囲の光、風、緑、影・・・

環境によって、

より一層、

独特なものになる。

周囲に生かされてこそ、

シャボン玉は

自分らしく輝ける。

もともと内在している

輝きがいっそうその光を増す。

自分らしく

輝いて、シャボン玉は

跡形もなく

消えていく。

ほんの一瞬だけど、

たしかに、

そこには、

そのシャボン玉にしかない

輝きがあった。

誰の記憶にも

留められていなくてもいい。

そこで確かに

輝いたこと。

必要なのは

それだけさ。

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July 14, 2008

自分にYESと言えない人は…

自分にNOといっている人の

一番の悲劇は、

他人の餌食になってしまうことだ。

今年、自殺した元TBSの

アナウンサーもそうだろう。

語弊があるかもしれないが、

怪死した尾崎豊もそうだったと

一ファンの意見に過ぎないけれど

ぼく本人は確信をしている。

他人の餌食にならなくても

自傷行為に走ったり、

過食症になったり、

ならなくていい病に

なったり、

つまり、自分に対して

“餌食”という言葉はおかしいかも

しれないが、

自分を餌食にするといっても

おかしくない状態へと

自分自身で

知らず知らずおいこまれてしまう。

そういった具体的な

結果を考えなくても

どうして自分にNOという

つまり自分に対して

無力感をもつことがいけないのか

という理屈は、

簡単である。

自分の身の回りのもの

すべてのものを

見て聞いて触って味わって匂いを嗅いで、

その上で認識しているのは

自分だからである。

自分にYESといえてない人は、

心の中に、

曇った目をもっているのと

同じである。

自分に対する無力感という

曇ったフィルターを通してしか、

あらゆる人や物、すべての

事象を見ることはできないのであるから、

ときには、

ひどい人間がよく見えたり、

心あたたかな人間が逆に悪く見えたり、

駄目でもなんでもない

自分というものが駄目で

どうしようもない人間に

思えたりする。

だからといって、

自分に対して強引に

YESといおうといったって、

無理なことであろう。

よく「自分はできる、できる…」

など肯定的な言葉を

繰り返しいうといいといって、

自分もやったことはあるが、

それも多少の効果はあるだろうが、

劇的な効果はない。

なぜなら、

それだけでは

曇ったフィルターを

きれいに磨ききるのは

大変だろうから。

それよりも

まずは、「認める」ことである。

静かに自分を見つめた上で

「心の中に自分を

だめだと思っている

自分がいる」

ということを認めるのだ。

「自分が嫌いである」

ということを

認識することである。

加藤諦三氏は、

今日のラジオ人生相談

の冒頭で述べられていた。

「あなたが

認めたくないものは

なんですか。

どんなにつらくても

それを認めれば

道は開けます」

ぼくも自分の認めたくない

あることを認めて以来、

いろいろなことが見えてきた。

視界が開けた、

ということは

道も開かれ

はじめたということでもあろう。

このような記事を書けるのも

それがあったからだ。

まだまだ、認めたくないもので

認められてないものが

あるかもしれないが、

自分の経験から、

「認めたくないものを

認める」ということの

重要さについて

自信をもっている。

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July 13, 2008

自由にできるはずなのに…

自由になんでもできるはずなのに

これしかできない。

いや、これすらもできない。

いったいなんなんだ?

どうしてできないんだ・・・

かつて、

他人(ひと)に見られるための

仕事はやめようと思った。

自分の良心や湧き上がる

情熱を動機に

仕事をしよう。

ところが、実行してみて

愕然とした。

できないのである。

他人に見せる、という

動機をのぞいてしまったら、

仕事をするエネルギーが

わいてこない。

他人に命令される、

他人に評価される、

他人にほめられる、

他人よりもよい仕事をする、

それ以外に、自分には

仕事の動機となる

エネルギーは湧いてこない

ことを知った…。

そのとき、すでに

“燃え尽きる”一歩手前にいたのだ。

祖父と母が亡くなる原因となった

奇病(難病)と同じ病にかかり、

母や祖父と同じようには

死にたくないという

気持はたしかにある。

強く恐れている。

しかし、

今、自分が仕事をろくに

できないのは、

それを隠れ蓑に

もっと自分で見つめたくない

本心を隠しているのではないかと

疑ってみることもある…。

その本心とは…

正直、もう自分はつらい思いを

したくないのではないか。

肉体の痛み以上に、

心が、魂が、苦しみをもう

もちたくないのではないか。

一方で

こんな声が耳元で

ささやいてくる。

仕事はもちろん、

生きていくことは、誰もが

苦しいことだよ。

その対価として、

お金をもらって、

みんな生活をしていくのでは

ないか…

甘えるな。

という声。

かといって、

また、何かの仕事に入って、

誰かにけつを叩かれ、

ムチを打たれて、

使役されるのでなければ

動けないというのは

もういやだ。

身体にもよくないだろうが、

何より心がいやだいやだと

悲鳴をあげてるようにも

感じられる…。

それなのに…。

時間があり、

自由があるというときにでも、

積極的な意欲というものが

湧いてこない。

雇い主に見せる、

仕事の取引先に見せる、

上司に見せる、

家族に見せる、

世間一般に見せる、

ということでなければ、

やはり、

やる気が起こらない

自分がいる。

真の自分の魂は、

灰となり、

ほんとうに

燃え尽きてしまったのだろうか。

今日もまた、

部屋の中で、

何をやればいいのか

自分というものは

どこにあるのか

戸惑いながら、

ただ時を過ごしているだけの

自分がいる…

そばに誰もいなくても、

誰かの目を意識しつつ

日々を暮している

自分がいる…

                                         

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July 11, 2008

チャップリンは哲学者になれるか?

シーベリーという心理学者の

「チャーリー・チャップリンはすぐれた哲学者ですが、

コロンビア大学の教授の地位にはつけないでしょう」

という言葉に妙にひかれた。

映画監督の押井守氏は好きな監督である。

今夏、『スカイクロア』という作品が公開され、

712日には、彼の代表作

『攻殻機動隊』を

フルリニューアルした作品がロードショー

として上映される。

押井作品は

本人の言葉をまじえて、

表現してみれば

“哲学という宝石をちりばめた娯楽作品”

だと思う。

それは、

決して、哲学イコール宝石といいたいわけでなく、

押井氏の哲学がすぐれいている。

つまり押井氏はアニメ監督であると

同時に、

すぐれた哲学者という

側面を持ち合わせている

ということである。

しかし、

さきほどの、シーベリーの言葉を

真似て表現すれば、

「押井守はすぐれた哲学者ですが

どこそこの大学の哲学科の教授の地位には

つけないでしょう」

となるだろう。

北野武監督が、

芸大の教授をしているくらいだから、

もしかして、すでに

どこぞの大学で授業を

行っているのかもしれないが

それは、おそらく、

映画であり、アニメの講義であろう。

もし、学生集めのため、

押井氏に哲学の講義をさせたとしても、

普通の教授のように

哲学について研究し、

どんどん論文を発表していく

ことはどだい無理な話であろう。

それに、NHKのドキュメンタリーに

立花隆氏のインタビューを受ける

形で、出演していたが、

どうも“しゃべる”のは苦手では

ないかと思えてならない。

だとすると、学生たちの前で

講義するのはどの道、

むいていることではないのではないか。

ここでいいたいのは、

押井氏はアニメや映画の中でこそ、

そして、チャップリンは、

喜劇や映画の中でこそ、

哲学者になれるのではないかということだ。

文芸評論家の小林秀雄を

哲学者だと表現しているのを

どこかで見たが、

小林秀雄は、評論の中でこそ、

哲学者になれるのだ。

その人たちが、

哲学の論文を書けるとは限らない、

アカデミックな場で

哲学者として評価されるほどのものは

むしろ書けないと考えた方が

妥当であろう。

そして、たとえば

押井監督なら

『攻殻機動隊』の中に

チャップリンなら

『モダン・タイムズ』の中に

小林秀雄なら

『本居宣長』の中に

“哲学”を見出すのは

それを観たり、読んだりする

側ではないか。

人によっては、

それを“詩”とみる人もあろうし、

建築作品と

みている人もいるかもしれない。

おそらく、

『攻殻機動隊』の中に

哲学をみる人は、

その人自身の中に

哲学者としての要素が

あるのだろう。

冒頭の言葉で

シーベリーがいいたかったのは、

その人にはその人の

性に合った場所がある。

そこでは

水を得た魚のようになれ、

周囲の人間から、

ときには

哲学者と思われたり、

詩人と思われたり、

建築家と思われたりするような、

厚みのある業績が

残せるということでもあろう。

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July 10, 2008

おまえは地球の一部じゃない?

星空を観察していたタロウに、

火星が声をかける。

今晩の火星は

まるで

夜空を見上げる

タロウの目の前にいるような

異様な輝きを見せている。

「おい、タロウ!おまえは、

地球とばっかり付き合ってないで、

たまには、俺とも付き合え!」

タロウはこたえる。

「なにをおっしゃる火星さん、

ぼくは地球の一部ですよ。

ガイアというじゃないですか。

地球と人間は一体なんです」

「タロウ、なにをいう!

おまえは、地球の一部であるように

思ってるかもしれないが、

宇宙の一部でもあるんだぞ。

それは、わしらすべての

惑星、恒星といっしょ。

もちろん、地球だって

まったくかわりはない。

わしら星はもちろん、

あらゆる物質・生物は、

つまり存在は、独立している。

それとともに、

宇宙、いやもっと広い世界

の一部でもある。

つまり、地球とおまえは

対等なんだ。

おまえは、地球の一部であるように

みえて、そうではない。

おまえから見て、

火星のわしと地球、

その他のあらゆる星すべてが

星のひとつにすぎない。

地球とわしら他の星の

違いはおまえから

物理的に近いか

遠いかの違いにすぎない。

だから、おまえが

地球の一部だっていうのは、

一見、正しいように見えるが、

それは一定の見方に過ぎない」

「でも、火星さん、

人間が地球の一部だって認識が

できたからこそ、

地球を大切にしなくちゃ、

みんなで守ろうという

機運が盛り上がっているん

じゃないですか」

「ははは。それで、ほんとうに

地球の環境というものが

守れているかね。

年々、状態は悪くなっているではないか。

緑色が消え、ブルーの輝きが

あせてきているのが、この

火星から見てもよくわかるぞ」

「そういわれてみれば、

そうでしょうが・・・」

「タロウ、おまえは、

地球の一部だってことだけに

固執するから、

地球に甘えているのではないか。

地球は地球、おまえはおまえ、

そういう気概があってこそ、

おまえは、相棒である地球を

大切にしようって本気になれる

んじゃないか」

「でも、自分が地球と対等だなんて、

とても傲慢なような気がします」

「もちろん、自分が地球の一部だ、

ちっぽけな存在なんだということは

一面の見方であり、

一部の真実であろう。

しかし、地球ってなんなんだ、

惑星ってなんなんだ、

恒星ってなんなんだ。

そんなことは人間には

ほんとうにはわかっちゃいない。

それならば、

もっともっと自分の

概念を広げたらどうだ。

広大無辺、

広げられるだけ広げた

世界の中のおまえは一部なんだ。

その中心におまえがいる。

その世界の中でおまえは

ほんの一点であるけど、

ど真ん中に突っ立っている。

そして、そのおまえの

周りをあらゆるものが

廻っているんだ。

その中の1つに地球というものがある。

火星もある、水星もある太陽もある、

月もある…

星ばかりじゃない、

鉛筆もあれば筆箱もある、

テレビもある、ゲームもある、

おまえのお父さんもお母さんも、

友達も、全然しらない人間たちもいる、

熱帯雨林の動物も

サバンナの動物も植物も、昆虫もいる。

すべては、おまえが存在している以上、

おまえが中心なんだ」

「なんだか、わかったような、

わかっていないような…」

「わからなくていい、

ただおまえが、地球の一部にしか

過ぎないんだという

卑屈な見方だけに執着するのは

やめてほしい。

おまえが生まれるずっと前に、

同じく地球のどこかの国で

死んだシャカという人間が

いっていたろう。

“天上天下唯我独尊”って

あの意味は、

よくは知らんが

ワシが今、

言ったことに近いのかもしれんな」

「そうですか…。

でも、ぼくはそのお釈迦様の

言葉を知らないんで…」

「そうか。それはどうでもいい。

とにかく、おまえは、

今日から、

単なる地球の一部じゃなくて、

地球とのパートナーでもある。

そして、わしら他の惑星とも

つきあえることができる。

そう意識をかえさえすればいいんだ。

すべては、この世をどうとらえるかに

かかっているからな。

それでは…」

「火星さん、もう帰ってしまうんですか?」

「そうだ。

というわけで今後もよろしくな」

夜空に異様な輝きで存在感を

しめしていた火星が、

急にいつもの光にかわった。

タロウは少しほっとした

気持になって

窓のところでユラユラと

揺れる

カーテンの中へと入っていった。

               (終わり)

                                           

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July 08, 2008

健康や病のことと心理的なこと(後半)

(前の記事より続きます)

ここで健康と心理の話にもどすと、

ある難病をかかえている人がいる。

その人が代替医療も含めて、

さまざまな医療を受け、

自分でも生活習慣を改善するなど

努力をしたとしても、

もしも、“自分”というものに

対して、

ひどく否定的な感情をもっていたとしたら、

完治するのはとても難しいのではないか。

自分に対して否定的な感情をもっているならば、

おそらく、そのような治癒へ向う

努力を続けることも難しいだろうし、

できたとしても、

それは心の奥底では、

病を治そうとしているのではなくて、

ふがいなく感じられる自分というものに

ただムチを打っているということに

なりかねない。

おそらく、

医者のアドバイスに

したがったり、

自分で研究して

生活を規制したり、

運動をしたり、

食事制限をして、

病が治るという人は、

それをやっていて、

ときにはいやなことも

あったかもしれないが、

全体的には

楽しかったといえる人が

治るのだ。

ところが、

自己を否定している人はそうは

ならない。

義務でやるようになる。

そうでなければ、

自分を痛みつけるために

やっていたりする。

そもそもが、

その人のかかっている

病というもの自体が、

自己否定から来ているかもしれない。

病によって自分が苦しめられている

方が、その人にとって

“楽“なのかもしれない

のである。

そういう人が、顕在意識でいくら

その難病を治そう、治そう、

治したい、治したいと

思ったって治るはずはないだろう。

なぜなら、

心のもっと深い部分の

奥底では

その病を治したくない、治したくない、

病でいたい、病でいたいと

願ってやまないのだから。

        

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健康や病のことと心理的なこと(前半)

ぼくは最初、このブログを

病や健康のことについて中心に

書こうと思ってきた。

それだけでなく、

自分にとって

「自己表現」という意味も

出てきて、あまりよく考えず、

なんとなく平行して

やっているようになっていたが、

とくに、ここ数ヶ月は、

自然に

“心理的な”ことに

傾いてしまっている。

ところが、

健康と心理を分けているのではなく、

自分の健康を追求していくとともに、

自己実現というものを求めていった結果、

今、“心理”という

中継地点にたどりついている

ということなのだろう。

今までは、その中継地点に

東洋思想(儒教や仏教・・・)

宗教、哲学、武道・・・などが

あり、その比重が高かったので

あるが、今現時点では、

“心理学”というのが、

面白く、なにより、とても

役立っている。

                                        

“心理学”といっても、

加藤諦三さんの著作が中心であり、

加藤さんは若い頃は、

「青春をどう生きるか?」といった

人生論的なテーマで書いていて

その印象が強く、

また書店にはたくさんの著作が

やさしく親しみやすいタイトルで

ならんでいるから、

軽く見る人もいるようだが、

実際に読んでみると、

そうではない。

じつに深いところも簡潔に

論理的に説かれており、

しかも学者であるのだから

当然ながら、

その意見の根拠になるような

文献、研究者の名称も

きちんと書かれている。

私が傾倒した宗教、東洋哲学系の

書物で、今まで解決できなかったような

ことが、

加藤諦三さんの本で解きほぐされた

こともある。

それは加藤さんがすごいのか、

現代における心理学という学問が

過去の宗教、学問・・・という

ものを凌駕するまで発達してきたのか

よくはわからない。

これから、徐々に、

興味の範囲で、加藤さん以外の

心理学系の書物も

ひもといていきたいと思っている。

       (次の記事に続きます)

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July 07, 2008

しょうもない自分のままでいい?

しょうもない自分を変えようと

今まで努力してきた。

努力するたびに、振り出しに

戻ってしまった。

最近気づいたのは、

しょうもない自分を変えようと

することがいけないのではないか、

しょうもない自分を

しょうもないままでいいと

受け止めることではないか

ということだ。

自分をしょうもないと

思っているのは、

自分に対する1つの捉え方に

過ぎないのかもしれない

ではないか…。

ところが、

しょうもない自分が

しょうもないままで価値がある。

そう思えばいいのだということに

気づいたものの、

なかなか心よりそう思えない。

やはり、

自分はしょうもない、

だめなんだ、

このままの俺では無力で

無価値なんだ…

という意識を拭い切れない。

それは、今、

不本意な生活をしていて、

このまま暮していては

まずい、

自分を変えなければ…

家族に申し訳ない…

という意識が強く働いている

せいかもしれない。

自分は単なる怠け者なのでは

という思いもわいてくる。

でも、まだ解決できていない

今の状態のまま、

突っ走っても、

今までと同様、

“破綻”がきてしまうかもしれない。

という不安がある。

不安というより、確実に

そうなるだろうという確信がある。

それで、何もできない、

何かを始めても思うように

進まないというジレンマがある。

突破口は、

「ありのままの自分に価値を認める」

ということにありそうだと気づいていても、

そこから先が思うように進まない。

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July 04, 2008

穢れて生きること、穢れを許さずに生きること

「穢れている俺だけど生きていこう」

という人間と

「穢れることは許せない」

という人間とは

生きている地平が違うにちがいない。

一見、この社会に対して、

前者は「妥協」していて

後者は「妥協」していないと思われる。

ところが、「妥協」ということだけを

みれば、

心の中に入ってみると、

全然異なる結果になることもある。

「穢れている俺だけど生きていこう」

と思える人間は、

心の底では、ほんとうには

自分が穢れているとは思っていないのである。

言葉を変えれば、

自分を受け入れ、肯定できている人間である。

つまり、

「穢れてでも生きていく“俺”」

を肯定できているのである。

ところが、おそらく、

「穢れることは許せない」

という人間は、

心の奥底では、

自分が穢れていることを

知っているのである。

その真の姿に目をつぶって、

「穢れまい穢れまい」

「清くいきねば…」

と思って、涙ぐましいまでの

努力をしているのである。

つまり、

自分のことを穢れた

だめな人間だと思っている。

が、それを意識的には認めまい、

認めまいとしている。

ここで「妥協」という言葉で、

置き換えてみれば、

「穢れることは許せない」という人間は、

むしろ

「あるがままの自分」に

妥協してきたからこそ、

心のそこでは、自分のことを

「穢れた駄目な人間」と思っているのである。

だからこそ、

そんな自分を見つめたくなく、

「穢れることは許せない」と

自分も他人にも、せまる。

ところが、

「穢れている俺だけど、生きていこう」

という人間は、

根本の部分で、

「あるがままの自分」を

妥協せず、押し通して生きてこられた。

つまり、

自分を受け入れ、肯定してきた。

だからこそ、

「穢れた俺だけど生きていこう」と

穢れてでも、自分を全面的に

肯定して生きていける。

だから、むしろ、

「穢れている俺だけれど生きていこう」

という人間は「妥協のない」人間、

「穢れることは許せない」

という人間はさんざん「妥協をしてきた」

人間なのである。

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July 03, 2008

かくあらねば

今日も

かくあらねばと人を殺す

今日も

かくあらねばは

あってはならぬという

かくあらねばで殺される

ああ、かくあらねばの

理想を追いかけ

いきついた先がこれかよ

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July 02, 2008

もう、ありのままを受け入れてくれる人とだけ・・・

もう、ありのままの

自分を受け入れてくれる人とだけ

生きていければいい。

たとえ、そういう人は

すごく希少であるにしても…。

学生時代、

ある女の子は、ぼくが

喫茶店で、その子のジュースに

指を突っ込むふりをして

ちょっとずらして驚かすという

じつにたわいのないイタズラを

したようなとき、

ぼくのニックネームをいって

「○○らしい」と、

ゲラゲラ笑っていた。

彼女といるとき、新鮮だった。

それまで

なにかというと、

マジメだ、まっすぐだ、

何か自分がやったことに対して、

すごい!とか

そんなほめ言葉しかもらった

ことはなかったからだ。

真面目、

正直、

がんばりや・・・・

それは、

おそらく、

他人を意識して

つくりあげた

自分の身を守るための

「鎧(ヨロイ)」である。

ぼくより

3,4歳は年下であったのに

彼女は、

「ほんとうのぼく」という

ものを見てくれていたのだろう。

それいでていつでも

好意的であった。

だから、その子の前では

“自然に”振舞えた。

これまでの人生の中では

数少ない、

今思えばとても大切な人である。

ところが、

なにもわかっていないぼくは

ひどいことをしてしまった。

ちょっと見た目には、

かわいい顔をして

男性からもてるタイプだった

彼女の親友を

自分に紹介してくれと頼んだ。

ぼくに明らかな

好意を示してくれていた

彼女に向って、

「おまえなんか、いやだ。

おまえがいつもいっしょにいる

女のほうがずっといい」

と面と向って告げるのに

等しい依頼を

してしまったのだ。

彼女の親友は

自分のほんとうのことなんか、

少しもわかってくれない、

おそらくわかるときは

永久に

こないだろう人なのに…。

ぼくのほんとうの姿に

関心をもっていた

わけではないのだから。

自分はいつもそうである。

男女を問わず

自分にほんとうの意味で

好意を寄せてくれる人からは

離れようとしてしまう。

そして、

逆に自分に興味をもっていない、

ときに自分に

悪意すら抱いているであろう

人間を追いかけてしまう。

その人間への憎しみを

心の奥底に溜め込みながら。

それは「押さば引け、

引かば押せ」

という駆け引きのような

意図的なものではなく

もっと無意識から

来ている行動である。

だから、絶望的な

結果となる。

人の愛を受け入れられない、

そして永久に人を愛せない、

人間とは自分のような者の

ことなのかもしれない…。

ぼくに心を開いてくれた、

そして

ぼくが心を開くことができた、

“めずらしい人”である

“彼女”のしあわせを

今はただただ、

祈ることだけしか

できることはない。

           

(追記)

 だから、

前の記事で紹介した

この歌はよくわかる…

「06.wma」をダウンロード

                                         

                           

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July 01, 2008

冷酷 3

母が亡くなって、泣いた。

でも、その涙は、

母を失った悲しみというより、

今まで“母”を追い求めてきたけれども、

ほんとうの意味での“母”とは

出会えなかった・・・

亡くなったことにより、

とうとう永久にその“母”に

出会えなくなってしまったという

悲しみだったのかもしれない。

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冷酷 2

妹の結婚式のとき、

とめどなく涙が流れたのは

今思えば、

ぼくの魂の悲鳴だったに

違いない。

そのとき、

いまだに白いもやの

只中に一人、

ポツリとしていた。

ぼくが泣いているのを見て、

母は…、

これまでこの母の言葉を

見つめるのが怖くて

無意識に

目をそらしてきたのだが…、

母は、

「みっともないじゃない」

とたしなめた。

ぼくの心を知ろうとは

これっぽっちも

しなかった。

ずっと、一番、冷酷だったのは

母だったのかもしれない。

四十も半ばに近づいた今、

ようやく気づく。

母はもう亡くなって

9年経っている。

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冷酷

ぼくは中学生のあるときから、

まったく涙が出なくなってしまった。

そのとき以来、目の前の風景すべてに

白いもやがかかるようになった。

悲しいことがあっても、

悲しいと感じるのでなく、

ただかわいていて、苦しかった。

10年以上たって、

20代の終わりであったろうか、

妹の結婚式のとき

ようやく涙を取り戻せた。

なぜか泣けてしょうがなかった。

自分から、悲しみと

普通の景色を奪った者に

ぼくはひたすら仕え続けた。

その者が自分の涙を

奪ったのだとは知らずに、

懸命に愛そうと努めた。

その後、数十年たって

その者が死んだと聞いても

まったく涙は出なかった。

いまだに線香をあげに

行っていない。

おそろしいくらい

冷淡でいる自分がいる。

そんな自分を

かわいた苦しみで

見つめている自分がいる。

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