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July 04, 2008

穢れて生きること、穢れを許さずに生きること

「穢れている俺だけど生きていこう」

という人間と

「穢れることは許せない」

という人間とは

生きている地平が違うにちがいない。

一見、この社会に対して、

前者は「妥協」していて

後者は「妥協」していないと思われる。

ところが、「妥協」ということだけを

みれば、

心の中に入ってみると、

全然異なる結果になることもある。

「穢れている俺だけど生きていこう」

と思える人間は、

心の底では、ほんとうには

自分が穢れているとは思っていないのである。

言葉を変えれば、

自分を受け入れ、肯定できている人間である。

つまり、

「穢れてでも生きていく“俺”」

を肯定できているのである。

ところが、おそらく、

「穢れることは許せない」

という人間は、

心の奥底では、

自分が穢れていることを

知っているのである。

その真の姿に目をつぶって、

「穢れまい穢れまい」

「清くいきねば…」

と思って、涙ぐましいまでの

努力をしているのである。

つまり、

自分のことを穢れた

だめな人間だと思っている。

が、それを意識的には認めまい、

認めまいとしている。

ここで「妥協」という言葉で、

置き換えてみれば、

「穢れることは許せない」という人間は、

むしろ

「あるがままの自分」に

妥協してきたからこそ、

心のそこでは、自分のことを

「穢れた駄目な人間」と思っているのである。

だからこそ、

そんな自分を見つめたくなく、

「穢れることは許せない」と

自分も他人にも、せまる。

ところが、

「穢れている俺だけど、生きていこう」

という人間は、

根本の部分で、

「あるがままの自分」を

妥協せず、押し通して生きてこられた。

つまり、

自分を受け入れ、肯定してきた。

だからこそ、

「穢れた俺だけど生きていこう」と

穢れてでも、自分を全面的に

肯定して生きていける。

だから、むしろ、

「穢れている俺だけれど生きていこう」

という人間は「妥協のない」人間、

「穢れることは許せない」

という人間はさんざん「妥協をしてきた」

人間なのである。

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