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July 11, 2008

チャップリンは哲学者になれるか?

シーベリーという心理学者の

「チャーリー・チャップリンはすぐれた哲学者ですが、

コロンビア大学の教授の地位にはつけないでしょう」

という言葉に妙にひかれた。

映画監督の押井守氏は好きな監督である。

今夏、『スカイクロア』という作品が公開され、

712日には、彼の代表作

『攻殻機動隊』を

フルリニューアルした作品がロードショー

として上映される。

押井作品は

本人の言葉をまじえて、

表現してみれば

“哲学という宝石をちりばめた娯楽作品”

だと思う。

それは、

決して、哲学イコール宝石といいたいわけでなく、

押井氏の哲学がすぐれいている。

つまり押井氏はアニメ監督であると

同時に、

すぐれた哲学者という

側面を持ち合わせている

ということである。

しかし、

さきほどの、シーベリーの言葉を

真似て表現すれば、

「押井守はすぐれた哲学者ですが

どこそこの大学の哲学科の教授の地位には

つけないでしょう」

となるだろう。

北野武監督が、

芸大の教授をしているくらいだから、

もしかして、すでに

どこぞの大学で授業を

行っているのかもしれないが

それは、おそらく、

映画であり、アニメの講義であろう。

もし、学生集めのため、

押井氏に哲学の講義をさせたとしても、

普通の教授のように

哲学について研究し、

どんどん論文を発表していく

ことはどだい無理な話であろう。

それに、NHKのドキュメンタリーに

立花隆氏のインタビューを受ける

形で、出演していたが、

どうも“しゃべる”のは苦手では

ないかと思えてならない。

だとすると、学生たちの前で

講義するのはどの道、

むいていることではないのではないか。

ここでいいたいのは、

押井氏はアニメや映画の中でこそ、

そして、チャップリンは、

喜劇や映画の中でこそ、

哲学者になれるのではないかということだ。

文芸評論家の小林秀雄を

哲学者だと表現しているのを

どこかで見たが、

小林秀雄は、評論の中でこそ、

哲学者になれるのだ。

その人たちが、

哲学の論文を書けるとは限らない、

アカデミックな場で

哲学者として評価されるほどのものは

むしろ書けないと考えた方が

妥当であろう。

そして、たとえば

押井監督なら

『攻殻機動隊』の中に

チャップリンなら

『モダン・タイムズ』の中に

小林秀雄なら

『本居宣長』の中に

“哲学”を見出すのは

それを観たり、読んだりする

側ではないか。

人によっては、

それを“詩”とみる人もあろうし、

建築作品と

みている人もいるかもしれない。

おそらく、

『攻殻機動隊』の中に

哲学をみる人は、

その人自身の中に

哲学者としての要素が

あるのだろう。

冒頭の言葉で

シーベリーがいいたかったのは、

その人にはその人の

性に合った場所がある。

そこでは

水を得た魚のようになれ、

周囲の人間から、

ときには

哲学者と思われたり、

詩人と思われたり、

建築家と思われたりするような、

厚みのある業績が

残せるということでもあろう。

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