「私」以外の「私」はほんとうにあるのか
「シッコ」という映画で
正確には覚えていないが、最後の方に、
「これからは『私』でなく『私たち』という
言葉を大切にしていこう」
といった内容のナレーションが出てきた。
金持ちばかりがまともな医療を
受けられて、貧乏人はろくに
受けられないアメリカの現状を
描いた映画であるのだから、
当然の帰結といえる。
「『私』だけの幸福なんてありえない」
という言葉もよくわかるし、
今までずっとわかりたいと思ってきた。
「シッコ」という映画の中だから
それでいい。
ともかく、
この映画の内容はさておき、
「私たち」という言葉が、
どうも苦手な自分がいる。
「私たち」「私たち」…
と無理やりに
脳髄に埋め込まなければ、
すぐに自分の中から消えてしまう
ように感じる。
それは、おそらく、
自分がずっと、
「『私』以外の『私』はほんとうにあるのか」
と本気で疑問を感じて、生き続けてきたことによる。
私が人間関係が苦手なのも、
一人で居るのを好むのも、
人間を大切にすることが処世上、
そして自分や家族の幸福のために
重要なことがわかっていても
本気で大切にする気に
ならないのも、
・・・すべてそこ、つまり
「『私』以外の『私』はほんとうにあるのか」
という感覚から来ているような気がする。
それは、自分の中で自然とこう展開していく。
「『私』以外の『私』はほんとうにあるのか」
という疑問を持っている「私」は正常なのか。
そもそも、
そういう疑問をもつ「私」って、
なんなのだろう。
「私」って、いったいなんなのだろう…。
「自分」ってなんなの?
社会常識からではなく、
自分の内面から
素直に正直に考えてみて(感じてみて)、
「私」以外に、「自分」を、「私」が感じているように
感じている「人(私)」がいるのが、
どうしても分らない、腹に落ちてこないのだ。
どうやら、自分の生涯のテーマは
そこら辺にあるのかもしれない。
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