« July 2008 | Main | September 2008 »

August 26, 2008

それが今の実力。

自分も、

北京オリンピックの

星野ジャパンにはがっかりを

通り越して、

悲しみを覚えた日本人の一人であるが、

ここはもう、

有無(うむ)をいわせず、

日本の野球は負けたんだ、

韓国よりも、

キューバよりも、

アマチュアや大学生が出場していて

三流の選手ばかりの

アメリカよりも、

弱かったんだという

事実を認めるべきだ。




そこには、

日本の経済力など

日本人の総合的な力も

入ってくるが、

これが今の日本の

野球の実力なんだ。

戦前より、

歴史を培ってきた日本の野球の、

紛れのない

現在のありのままの姿なのだ。

そう認めるところからしか、

「始めてはいけない」

のだと思う。



先日、教育テレビで、

太平洋戦争のB 級戦犯に関する

ドキュメンタリーを

途中からみたが

ある、

戦犯者として受刑した人が、

日本人は、

自分たちが戦時下に

行ったことの事実を認めていない。

それが、戦後を

悪くしているといったことを

言っていたのが

印象的だった。



アジア、東南アジア、国内で

程度の差こそはあれ

たしかに残虐な行為をした事実を

認める、

たとえ仕組まれた罠だったとしても

だまされ、

無謀な戦争を始めた

バカさ加減を認める、

始めたけど、日本が

国全体の力を含めて

総合的に弱かったから

負けたんだという事実を認める。

戦後の日本を中枢でつくった

人々の中には、

ほんとうに裁かれるべき者が

裁かれず、

権力にこびへつらい、

反省もせずのうのうと

生き延びた者がいたという

ことが“ほんとう”のことなら

その事実をしっかりと認める。



さあ、

今の俺は・・・?

この今いる地点が、

今の俺の実力だ。

俺の現実だ。

この程度のものしか

書けないということもね。

―へなへなと倒れこむような

 気持ちになる。



なさけないことに、

経済状態といい、

日々やっていることといい、

自分の“現状”を認めるには、

そうとうに勇気が必要な

状況にある。



でも、

認めたくないことを

認めなければ、

ほんとうには

前に進めない・・・



しっかりと見つめていこう、

日本の過去も、

現在の自分も。

できれば、

野球も・・・。

| | Comments (0)

August 25, 2008

使命を果たして死なむと思う

※「いのちのちから」更新しました。

「子供の一生を左右する!自分の興味or他からの強制?」

                                             

                                     

自分は、神からこの世でやるべき

“使命”を与えられている。

自分は、この“使命”を果たすために

生きているのだ。

そう強く念って、生きてきた。

その使命とは、

ワクワクすることであり、

人を楽しませ、喜ばせ、

自分も楽しみ、喜ぶことなのかもしれない。

逆に、

たとえ、どんな困難がともなうものであっても、

それが神からの“使命”であるならば、

しなければならない。

「命を使われる」の“使命”である。

自分の人間をかえ、

人間関係をもっとよくしなければと

思っているのも、

自分の“使命”がより明快になり、

“使命”を果たせるから、

という意味が大きいかもしれない。

「あの人は“あれ”、この人は“これ”、

自分は“○○”、・・・」の

“あれ”、“これ”、“○○”の中身こそが

その人の“使命”だから。

言い換えれば、

大気内や宇宙を舞う粒子のような

微小の一点であっても

“世界人類”、または“宇宙”の中で、

バランスを保つ存在としての役割がある。

その粒子がなければ、

世界は少なくともその粒子がない分、

変ってしまうのだ。

必要だからこの世界で、または宇宙で

小さくともポジションを得て

壮大な“つながり”の中で存在している。

その役割こそが“使命”である。

だから、もしも、

人々から孤立しなければ、

“使命”を果たせないというのならば、

甘んじてそれも受けるべきだ。

たとえ人間から孤立していたとしても

宇宙の秩序からは孤立していないはずだから。

実際に自分が“孤立”の厳しさに

堪えられるかどうかは別として。

「自分には必ず何らかの“使命”がある」

「神からの役目を果たして死にたい」

「この命を神に使われたい」

それが、過去も現在も

自分が生きていくための最大の

原動力である。

その「神から与えられた使命」とは、

なんであるか、それをより明快にしたい

というのが、

数年前より現在にいたる“最大の望み”である。

                                                                              

                                                                        

以下寺田一清著『森信三先生随聞記』より

(引用開始)

「みなそれぞれに〝天の封書〝をいただいているが、

 一生開かずに終わる人もある」

(中略)

「われわれ人間というものは、大宇宙意志によって

 この世へ生み出され派遣されたものといってよいでしょう」

ということです。

われわれ人間のこの世における第一の任務は、何ゆえ自分は、

 この地上に出現せしめられたのかを明らかにすることではないか」 

と端的に(※森信三先生が)説かれ、

しかもこの地上へ派遣せられた自らの使命感が、

死の寸前まで、深められるのが何より望ましいと、

願っておられます。

                                    

    

  (※)は私、百太郎による注。

(引用終わり)

| | Comments (0)

August 22, 2008

“痛み”の“いたみ”

                                   

月曜日(8月18日)以来の、

頭痛、軽い喘息発作、腰痛、

なによりも激しい腹痛・・・。

                                    

喘息で“苦しみ”は

さんざん味わってきたが、

“痛み”のつらさも

今回、少しは

噛み締めることができた。

およそ20年前、

腐った貝にあたって

食中毒となり、

死ぬような目にあったが、

それに準ずる痛さだった。

                                       

“痛み”を客観的に見つめたり、

俯瞰したり、観察したり、

“痛み”の中に入り込んだり、

心身統一道の安定打坐にヒントを得て

セミや鳥、コオロギの声に

耳を集中したり

いろいろやって、

それなりの効果はあったけど、

ツライものはツライねえ。

おかげで

“痛み”の“いたみ”に

肉薄できた気がする。

                                        

今(22日金曜日)

まだお腹がちょっと変だけど

峠を越したようなので

かなり、ほっとしています。

                                         

| | Comments (0)

August 17, 2008

スーツを着た兵隊

戦後、日本人は、

ビジネス(経済活動)という

戦争をしてきた。

軍服をビジネススーツに

着替えただけだった

平和国家日本というが、

戦後、日本人は、

八紘一宇を経済によって

成し遂げようとした。

大砲や軍艦、戦闘機を使わない

戦争をしてきただけなのだ。

表向きは

富国強兵の、

強兵を取っ払ってきたが、

富国強兵を目指していたときと

同じような手段で、

富国を目指してきた。

そして戦前も戦後も、

国家の究極の目的はまったく同じで、

日本が生き延びることであり、

日本が他国より裕福になることであり、

日本が他国に優越することである。

“国民の幸せ”や

“人類の平和・福祉”が

目的でないことは明らかである。

そして、

戦前・戦時中の“教育”の

最大の目的といえば、

強い兵隊をつくることであっただろう。

戦後の教育の最大の目的は、

強い“ビジネス兵隊”をつくることだ。

だから、

経済国家日本から、

軍事国家日本に戻ることは

いつでもたやすいことだ。

だって、

スーツを軍服に

着替えるだけでいいのだから。

見た目が違うだけで、

中身はもうずっと、

同じことを

しているのだから。

(※わかりやすくするため、

  単純な構図にしました。

  悪しからず。)

| | Comments (2)

August 16, 2008

病は“刀”

自分にとって喘息は、

武士にとっての“刀”のようなものである。

身を守る道具であり、

自分を鍛える手段である。

数年前、

多発性のう胞腎という難病に

かかっていることがわかり、

つまり二刀目を得たことになる。

宮本武蔵のごとき二刀流である。

のう胞腎にかからなければ、

仕事をがむしゃらにそのまま続け、

うつ病などの精神疾患にかかっているか、

入院していたのではないか、

下手をすると命もなかったのかもしれない。

今ふりかえれば、それぐらいに思える。

その後、喘息の発作によって、

ピーク時75キロくらいあった体重が、

最高で約50キロまでやせた。

高血圧も下がり、

高脂血症もなくなり、

のう胞腎が悪化するリスク、

そのほかの生活習慣病にかかるリスクは

激減した。

喘息発作によってからだの中の毒素が

かなりの量、外に出されたのだ。

そして、「自分を鍛える」ということであれば、

それらの病を治そうと、

レギュラーの仕事をすべて断り、

休業し、病と向き合ってからというもの、

必然、自分と自分の心と向き合うことになり、

弱さやひねくれてるところ、・・・

さまざまな自分の欠点を見つめられるように

なった。

いまだ高慢で、バカで、

何もわかっていない、というところが

あるし、自分の見えないところで、

たくさんあるのだろうが、

病に取り組むまえの自分と

今の自分とでは、今の方が

ずっとまともであると思う。

金はますますないのであるが。

大きな夢に向って突っ走るという

がむしゃらさが、

今は、かけていて、

その点については、

過去の自分をいとおしく思える

一方で、

今の自分を反省している。

大方、心の整理がついたら

また、今そのとき自分にとって

最大の夢に向って行きたい。                                                     

最後に、付け加えておかねばならないのは、

刀は「武士の魂」というが

あくまでも“道具”であって、

刀をもつ人間そのものではない

ということだ。

だから

自分にとっての“刀”である

病は、道具であって、

自分そのものではない以上、

いつでも手放すことは可能なはずだ。

おそらく、

その“病”という“刀”が、

その人にとって必要なくなったとき

自然と離れていくものなのだろう。

今、“病という刀”を持たされている人は、

その“道具”が必要だからもたされている。

もしどうしても手放したいのなら、

その“道具”を必要としない人間になること

だろう。

                                       

自分もまだその道具を持っているのであるが、

その道具を必要としない人間になろうと

することによって、自分を向上させていくのもいいし、

自分をただ向上させることによって、

自然と病が消えていく…、

そのどちらでもいいと考えている。

| | Comments (0)

August 13, 2008

押井守監督『スカイ・クロラ』と“文体”

押井守監督の『スカイ・クロラ

を見て気づいたのは、

自分は押井氏の“文体”が無性に好きだということだ。

かつて『攻殻機動隊』に夢中になったのもそこだった。

映画の“文体”とは、1カット1カットの絵(画像ときに

音声)にあたるのだろう。

少なくとも自分が映像メディアにおいて

小説などの文章における

“文体”にあたるものととらえているのはそれである。

遠藤周作がどこかで書いていたが、

映画の最初のカットを見れば、それがいい映画であるか、

よくないものであるかわかるというのは、

“文体”がいいか悪いか、好きか嫌いかということになる

だろう。ぼくも、映画館で最初のカットをみて、

さえないものだと、その先2時間の映画なら2時間を

無駄に過ごさなければならないのかと、

拷問に遭遇するような気分になるようなことがある。

そういうときは、その苦しみを緩和するために、

きまって居眠りをしてしまう。

今朝の朝日新聞で、沢木耕太郎氏が、

「押井守監督のアニメ版『スカイ・クロラ』は、

森博嗣の原作をほぼ忠実に映像化していると言える」

と書いている。

さっそく書店で原作の小説を立ち読みしてみたが、

いい悪いではなく、その“文体”は自分の好みには

合わなかった。

ぼくが『スカイ・クロラ』という物語に入れたのは

押井監督の“文体”であればこそなのだ。

小説『スカイ・クロラ』が置かれていたすぐそばの

書棚に、サミュエル・スマイルズ著、中村正直訳の

西国立志伝があった。これは以前より

読みたいと思っている本。

明治時代、福沢諭吉の『学問のすすめ』と並んで、

ベストセラーとなり、多くの青年たちを

奮い立たせたという啓蒙書である。

同じくサミュエル・スマイルズの

“Self-Help,with Illus-trations of Character and Conduct”

を訳したもので三笠書房から『自助論』(竹内均訳)が出ているが

これも好みの問題であるが、

“文体”において、『自助論』にはあまり魅力を感じず、

『西国立志編』にどうしても惹かれてしまう。

立ち読みで、『西国立志編』をつまみ読みしただけで、

発奮させられた。『自助論』ではそこまでのインパクトは

与えられない。

『自助論』の文章もさすが竹内均氏による翻訳で、

明快で歯切れがいい文章だが、

この2つの“文体”の何がちがうのかといと、

もっとも大きな違いというのは、

『西国立志編』が文語体で、

『自助論』が現代文で訳されているという点にある。

自分はどうやら、日本語の文語体

というものに無性に惹かれているようだ。

幸田露伴の『五重塔』を声を出して通読したときに、

目覚めたのだろうか。

もちろん、その文語体による翻訳も中村正直の文章

だからこそ、厚みがあるのだろう。

(中村正直は、昌平坂学問所で佐藤一斎より

儒教を学んでいる。

佐藤一斎は江戸時代の漢学者の中で

もっとも文章がうまいといわれたそうだ。

中村正直の文章は、その影響も

受けているのだろうか)

                                      

ここで、押井監督の『スカイ・クロラ』に戻る。

ぼくは、先日、子供を連れて家族で、

流れるプールに行ったのだが、

仰向けにプカプカ流れながら、

空と雲を見ていた。

そのとき思い出したのが、

スカイ・クロラ』だった。

この映画には、

戦闘機のパイロットの物語であるだけに、

雲と空のシーンがたくさん出てくる。

冒頭のロールテロップの背景にある映像が、

操縦席目線の空と雲だった。

もうその“文体”からして、ぼくは

映画に入り込んでいたのだったが、

懐かしさを感じ、どこかで見た風景と

そっくりだなと思ったのは、

おそらく、子どもの頃、流れるプールなどの

水面や海の上で、仰向けになって眺めた

風景を思い出したのだ。

それが、今、大人になって

子供と入ったプールで、

プカプカ浮きながら空を眺めて

わかったのだ。

でも、じつは

子供の頃、水面で仰向けに

眺めた空と雲をリアルに感じたのは、

先日行った流れるプールに浮かんだ

ときではなく、

映画『スカイ・クロラ』のそのカットを

見たときだった。

現実よりも、リアルさを感じさせる映像・・・。

つまり現実そのものではなく、

自分の記憶の中の風景をよりリアルに

思い出させてくれたのだ。

ぼくは子供の頃、水面で雲と空をただ

眺めていたのではなく、

空を飛んでいたのかもしれない。

鳥や飛行機のように・・・。

                                      

現実よりも映画の方に、

しかもアニメ(CG)に、よりリアルさを感じる。

それは多分にぼくの主観が入っての

ことだろうが、

押井監督の“文体”の凄さにも

通じていることであろう。

| | Comments (0)

August 05, 2008

“独立”するために生まれてきた?

『オーラの泉』の江原さん流にいうならば、

今生に生まれるときに自分で決めたテーマは、

“独立”のような気がしてならない。

この自分の中にある“独立”という言葉の

イメージをわかりやすくするために、

一番いいと思われる表現が

「“孤立”ではない」である。

この世界では1人1人が、それぞれ異なった

なんらかの役目(仕事)を果たせるように

なっている。

その役目を果たしながら自分の足で歩き、

侵さず侵されず、

みんなと仲良く共に生きていくのが“独立”である。

“独立”は、決して、

みんなから離れて、たった一人

自給自足していく

“孤立”ではない。

自分の場合、

社会の中で自分の役目を果たすというより、

誰かの尻にしがみついて、“侵され侵し”ながら

生きていくか、

自給自足はできなくとも、みんなから離れ、

限りなく、

社会から“孤立”しているのに近い状態に

なるか、そのどちらかになってしまいがちである。

その両極端のどちらにも傾かない、

“中庸”こそが、

ぼくの中でイメージしている

“独立”した状態である。

自分がずっと追求してきた

“世の中のため、公のため、世界のため…”

すなわち

AのためでもBのためでもない、

ABを包含したより高い次元を目指す“

という生き方とは、単純に

“独立”したいということだったのかもしれない。

この“独立”を阻んでいるものは何か。

それが、自分の中にある“とらわれ”であり、

“心のクセ”であろう。

その“とらわれ”や“心のクセ”を乗り越え、

“独立”したい、“自由”になりたい

というのが今のスタンスである。

そうそう、自分にとって、

“独立”とは、きっと、“自由”という

意味でもあるのだ。

| | Comments (2)

血液をきれいにする。腸をきれいにする。

久々に健康(体)の記事です。

書物と自分の体による実験でおこなった

現時点での研究の成果です。

肉体(物質)的にみますと、

あらゆる病というものは、

まず体の各部の細胞の汚れに起因している。

そして、その細胞は血液によって汚れる。

だから、血液をきれいにするのが最大のポイント。

―これはいろいろな意味があります。

 ただサラサラだけでいいというものではないらしい。

その血液をきれいにするには、

腎臓と肝臓、そして腸が大事。

ところが、腎臓と肝臓はなかなか手をくだすことは

できないが、腸ならまずは、

食べ物を変え、運動をすることによって、

排泄をよくすることができる。

これは意識して、

宿便をとる、ためないなどして

腸の中をきれいに保つことが肝心。

すると、血液がきれいになっていく。

(腸で血液が作られるという説もあるくらいです)

おそらく腎臓や肝臓への負担も減るでしょう。

―※腸の大切さについてはベストセラー

「病気にならない生き方」にも強調されていましたね。

                                          

(ここから先は、腸をよくする方法論の1つ)  

そして、腸壁を強くするのに、

どうやら体の皮膚を鍛えるのもいいらしい。

体の外側にあるのが皮膚、

内側なのが腸壁、その違いだけらしい。

つまり腸壁も皮膚の一部ととらえてもいいようだ。

                                       

その上、

皮膚を鍛えると呼吸機能も高まる。

そういえば、たしか東洋医学では大腸と肺はひとまとまりに

とらえられている。

皮膚も肺(呼吸器)の一部としてとらえている。

あきらかに関連しているのだ。(おわり)

                                              

ところで、

いのちのちから~子供を病気にしない自然育児&子育てのコツ~をアップしました。

                                                            

「日本での自然育児は古くからある日本式育児です」

| | Comments (0)

August 03, 2008

平常心是道

うちから近いところにある

有名な禅寺「平林寺」を拝観したおり、

「平常心是道」と書かれた栞をくばられた。

裏側にこう解説されている。

「平常心是れ道」(びょうじょうしんこれどう)

南泉禅師(中国の名僧・七四八~八三四)の言葉。平常心は一般に平穏な少しも外物に動じない落ちついた心のことと解釈されていますが、禅宗では日常ありのままの心、すなわち、惜しい・欲しい・憎い・かわいい等の煩悩そのままが平常心であり、それに徹して生活してゆくことが道であり、禅の真髄であると教えております。

ぼく自身が

憎い・惜しい・腹が立つ…、などの

一般的に否定的にとらえられている感情を

自分の中で押し殺して生きてきただけに、

この禅の言葉はありがたい。

怒る・悲しむ・うらむ・にくむ…、

といった感情は人間として自然なものであり、

それを無理やりに押さえ込んだからといって、

聖人君子のような立派な人間に

なれるわけではない。

聖人君子とは、そのような感情を

押さえ込んで生きている人間ではなくて、

自然に

めったなことでは

怒らない・悲しまない・うらまない・憎まない…

人間なのであろう。

そこに到達するには、

感情を押さえ込んでいたのでは

決してなれない。

むしろ、

そうした怒り・憎しみ・悲しみ・恨み・悔やみ…

というものがあるにもかかわらず、

見てみぬふりをして、自分に隠すからこそ、

消えて残らずに、

どんどん溜め込んで、

昨今の親殺しや無差別殺人など

犯罪に走ってしまうというケースが

多いのではないか。

そうした感情がおこったときに、

感情のままに生きられれば、

発散もできるだろうし、

外に表すことはできなくとも

その感情に目をそむけずに

自分の中で沸き起こっていることを

認められれば、

少なくとも心の平静を保てるだろう。

その感情を認めないということは、

その感情を起こした

自分を否定しているということに

つながっているのだから。

こうして得られる「心の平静」こそが、

冒頭にかかげた「平常心是道」では

ないだろうか。

儒教でいう聖人君子、

仏教でいう悟りとは、

「日常ありのままの心、

すなわち、惜しい・欲しい・憎い・

かわいい等の煩悩」を

押さえ込んで生きるのではなく、

「煩悩そのままに徹して

生活してゆくこと」、

その延長線上にある、

そうぼくはとらえた。

| | Comments (0)

August 02, 2008

こういうときこそ・・

今、夜中の2時ですが、

子供が発作を起こしています。

それで、こんな記事を書きました。

「深夜2時近く、子供が発作です」

(↓)このような記事を書きましたが、

こういうときこそ、あえて“プラス思考”と“笑顔”になることも

必要なのでしょうね。

決して、プラス発想と笑顔、そのものを否定しているわけでは

ありません。

| | Comments (0)

August 01, 2008

笑顔でプラス思考?

書店で、

プラス思考できない人が

プラス思考できるようになるための

方法を描いていると思われる

タイトルの本を見かけたが、

そこまでして、プラス思考に

なる必要があるのか、どうか。

また同じく書店で、

笑顔の大切さを描いている

タイトルの本を見かけたが、

そこまで無理して、笑顔を

つくることがほんとうに

必要なのかどうなのか。

ここまで書いて、

まるで、自分が

プラス思考でも

笑顔の人間でもない

ことを露見しているようで

少し恥ずかしくなったが、

とくに笑顔については、

もうちょっとしたほうがいいとは

思うのだが、

年がら年中、

無闇に笑顔を作りたい

とはあまり思わない。

プラス発想し、笑顔に

なった方が、

幸せになるのかもしれないし、

人生ついてくるのかもしれない。

人も集まってくるのかもしれない。

でも、無理にプラス発想し、

笑顔を作ることは、

あるがままの自分を受け入れていることと

同じではないのではないか。

どうしてもマイナス発想してしまう

人がいるならば、

「それはそれでいいじゃないか、

受け入れましょう」

といえる人生の方が素敵に見えるし、

人間に深みが出てくるような気がする。

司馬遼太郎の

「竜馬がゆく」では、

晩年の坂本竜馬は思索に耽りながら

長崎の町を哲学者のような顔をして

あるいていたそうだ。

あえてニコニコと笑顔を作っていたら、

とてもじゃないけれど、

思索にふけることなどできないだろう。

南国土佐出身の底抜けの明るさだけでなく、

こうした陰影があるからこそ、

彼に魅力を感じてきたのだ。

確かに、坂本竜馬をリーダーとする

海援隊には、明るいだけが取柄のような

人間もいたようだが、

どうも薄っぺらくて

自分は魅力を感じられない。

笑顔もプラス思考も、

根底に「そのままでいいのだよ」と

あらゆるものを肯定し認める

というものがなければ、

単なるテクニックで、

形骸でしかないであろう。

現状がよくないからよくするために

プラス思考をしよう、

笑顔をつくろうということは、

悪いことではないのだろうが、

きっと

本筋からはずれいているのだ。

| | Comments (0)

« July 2008 | Main | September 2008 »