平常心是道
うちから近いところにある、
有名な禅寺「平林寺」を拝観したおり、
「平常心是道」と書かれた栞をくばられた。
裏側にこう解説されている。
「平常心是れ道」(びょうじょうしんこれどう)
南泉禅師(中国の名僧・七四八~八三四)の言葉。平常心は一般に平穏な少しも外物に動じない落ちついた心のことと解釈されていますが、禅宗では日常ありのままの心、すなわち、惜しい・欲しい・憎い・かわいい等の煩悩そのままが平常心であり、それに徹して生活してゆくことが道であり、禅の真髄であると教えております。
ぼく自身が
憎い・惜しい・腹が立つ…、などの
一般的に否定的にとらえられている感情を
自分の中で押し殺して生きてきただけに、
この禅の言葉はありがたい。
怒る・悲しむ・うらむ・にくむ…、
といった感情は人間として自然なものであり、
それを無理やりに押さえ込んだからといって、
聖人君子のような立派な人間に
なれるわけではない。
聖人君子とは、そのような感情を
押さえ込んで生きている人間ではなくて、
自然に
めったなことでは
怒らない・悲しまない・うらまない・憎まない…
人間なのであろう。
そこに到達するには、
感情を押さえ込んでいたのでは
決してなれない。
むしろ、
そうした怒り・憎しみ・悲しみ・恨み・悔やみ…
というものがあるにもかかわらず、
見てみぬふりをして、自分に隠すからこそ、
消えて残らずに、
どんどん溜め込んで、
昨今の親殺しや無差別殺人など
犯罪に走ってしまうというケースが
多いのではないか。
そうした感情がおこったときに、
感情のままに生きられれば、
発散もできるだろうし、
外に表すことはできなくとも
その感情に目をそむけずに
自分の中で沸き起こっていることを
認められれば、
少なくとも心の平静を保てるだろう。
その感情を認めないということは、
その感情を起こした
自分を否定しているということに
つながっているのだから。
こうして得られる「心の平静」こそが、
冒頭にかかげた「平常心是道」では
ないだろうか。
儒教でいう聖人君子、
仏教でいう悟りとは、
「日常ありのままの心、
すなわち、惜しい・欲しい・憎い・
かわいい等の煩悩」を
押さえ込んで生きるのではなく、
「煩悩そのままに徹して
生活してゆくこと」、
その延長線上にある、
そうぼくはとらえた。
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