押井守監督『スカイ・クロラ』と“文体”
押井守監督の『スカイ・クロラ』
を見て気づいたのは、
自分は押井氏の“文体”が無性に好きだということだ。
かつて『攻殻機動隊』に夢中になったのもそこだった。
映画の“文体”とは、1カット1カットの絵(画像ときに
音声)にあたるのだろう。
少なくとも自分が映像メディアにおいて
小説などの文章における
“文体”にあたるものととらえているのはそれである。
遠藤周作がどこかで書いていたが、
映画の最初のカットを見れば、それがいい映画であるか、
よくないものであるかわかるというのは、
“文体”がいいか悪いか、好きか嫌いかということになる
だろう。ぼくも、映画館で最初のカットをみて、
さえないものだと、その先2時間の映画なら2時間を
無駄に過ごさなければならないのかと、
拷問に遭遇するような気分になるようなことがある。
そういうときは、その苦しみを緩和するために、
きまって居眠りをしてしまう。
今朝の朝日新聞で、沢木耕太郎氏が、
「押井守監督のアニメ版『スカイ・クロラ』は、
森博嗣の原作をほぼ忠実に映像化していると言える」
と書いている。
さっそく書店で原作の小説を立ち読みしてみたが、
いい悪いではなく、その“文体”は自分の好みには
合わなかった。
ぼくが『スカイ・クロラ』という物語に入れたのは
押井監督の“文体”であればこそなのだ。
小説『スカイ・クロラ』が置かれていたすぐそばの
書棚に、サミュエル・スマイルズ著、中村正直訳の
『西国立志伝』があった。これは以前より
読みたいと思っている本。
明治時代、福沢諭吉の『学問のすすめ』と並んで、
ベストセラーとなり、多くの青年たちを
奮い立たせたという啓蒙書である。
同じくサミュエル・スマイルズの
“Self-Help,with Illus-trations of Character and Conduct”
を訳したもので三笠書房から『自助論』(竹内均訳)が出ているが
これも好みの問題であるが、
“文体”において、『自助論』にはあまり魅力を感じず、
『西国立志編』にどうしても惹かれてしまう。
立ち読みで、『西国立志編』をつまみ読みしただけで、
発奮させられた。『自助論』ではそこまでのインパクトは
与えられない。
『自助論』の文章もさすが竹内均氏による翻訳で、
明快で歯切れがいい文章だが、
この2つの“文体”の何がちがうのかといと、
もっとも大きな違いというのは、
『西国立志編』が文語体で、
『自助論』が現代文で訳されているという点にある。
自分はどうやら、日本語の文語体
というものに無性に惹かれているようだ。
幸田露伴の『五重塔』を声を出して通読したときに、
目覚めたのだろうか。
もちろん、その文語体による翻訳も中村正直の文章
だからこそ、厚みがあるのだろう。
(中村正直は、昌平坂学問所で佐藤一斎より
儒教を学んでいる。
佐藤一斎は江戸時代の漢学者の中で
もっとも文章がうまいといわれたそうだ。
中村正直の文章は、その影響も
受けているのだろうか)
ここで、押井監督の『スカイ・クロラ』に戻る。
ぼくは、先日、子供を連れて家族で、
流れるプールに行ったのだが、
仰向けにプカプカ流れながら、
空と雲を見ていた。
そのとき思い出したのが、
『スカイ・クロラ』だった。
この映画には、
戦闘機のパイロットの物語であるだけに、
雲と空のシーンがたくさん出てくる。
冒頭のロールテロップの背景にある映像が、
操縦席目線の空と雲だった。
もうその“文体”からして、ぼくは
映画に入り込んでいたのだったが、
懐かしさを感じ、どこかで見た風景と
そっくりだなと思ったのは、
おそらく、子どもの頃、流れるプールなどの
水面や海の上で、仰向けになって眺めた
風景を思い出したのだ。
それが、今、大人になって
子供と入ったプールで、
プカプカ浮きながら空を眺めて
わかったのだ。
でも、じつは
子供の頃、水面で仰向けに
眺めた空と雲をリアルに感じたのは、
先日行った流れるプールに浮かんだ
ときではなく、
映画『スカイ・クロラ』のそのカットを
見たときだった。
現実よりも、リアルさを感じさせる映像・・・。
つまり現実そのものではなく、
自分の記憶の中の風景をよりリアルに
思い出させてくれたのだ。
ぼくは子供の頃、水面で雲と空をただ
眺めていたのではなく、
空を飛んでいたのかもしれない。
鳥や飛行機のように・・・。
現実よりも映画の方に、
しかもアニメ(CG)に、よりリアルさを感じる。
それは多分にぼくの主観が入っての
ことだろうが、
押井監督の“文体”の凄さにも
通じていることであろう。
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