病は“刀”
自分にとって喘息は、
武士にとっての“刀”のようなものである。
身を守る道具であり、
自分を鍛える手段である。
数年前、
多発性のう胞腎という難病に
かかっていることがわかり、
つまり二刀目を得たことになる。
宮本武蔵のごとき二刀流である。
のう胞腎にかからなければ、
仕事をがむしゃらにそのまま続け、
うつ病などの精神疾患にかかっているか、
入院していたのではないか、
下手をすると命もなかったのかもしれない。
今ふりかえれば、それぐらいに思える。
その後、喘息の発作によって、
ピーク時75キロくらいあった体重が、
最高で約50キロまでやせた。
高血圧も下がり、
高脂血症もなくなり、
のう胞腎が悪化するリスク、
そのほかの生活習慣病にかかるリスクは
激減した。
喘息発作によってからだの中の毒素が
かなりの量、外に出されたのだ。
そして、「自分を鍛える」ということであれば、
それらの病を治そうと、
レギュラーの仕事をすべて断り、
休業し、病と向き合ってからというもの、
必然、自分と自分の心と向き合うことになり、
弱さやひねくれてるところ、・・・
さまざまな自分の欠点を見つめられるように
なった。
いまだ高慢で、バカで、
何もわかっていない、というところが
あるし、自分の見えないところで、
たくさんあるのだろうが、
病に取り組むまえの自分と
今の自分とでは、今の方が
ずっとまともであると思う。
金はますますないのであるが。
大きな夢に向って突っ走るという
がむしゃらさが、
今は、かけていて、
その点については、
過去の自分をいとおしく思える
一方で、
今の自分を反省している。
大方、心の整理がついたら
また、今そのとき自分にとって
最大の夢に向って行きたい。
最後に、付け加えておかねばならないのは、
刀は「武士の魂」というが
あくまでも“道具”であって、
刀をもつ人間そのものではない
ということだ。
だから
自分にとっての“刀”である
病は、道具であって、
自分そのものではない以上、
いつでも手放すことは可能なはずだ。
おそらく、
その“病”という“刀”が、
その人にとって必要なくなったとき
自然と離れていくものなのだろう。
今、“病という刀”を持たされている人は、
その“道具”が必要だからもたされている。
もしどうしても手放したいのなら、
その“道具”を必要としない人間になること
だろう。
自分もまだその道具を持っているのであるが、
その道具を必要としない人間になろうと
することによって、自分を向上させていくのもいいし、
自分をただ向上させることによって、
自然と病が消えていく…、
そのどちらでもいいと考えている。
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