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September 30, 2008

タヨウはタオ?

                                                         

多様を多様のままに。

                                                            

多様(タヨウ)とはタオ(道)のこと?

だから「多様を多様のままに」とは

「タオをタオのままに」ということ?

                                                          

多様を多様のままに。

それこそが、普遍。

                                                          

タオは普遍です。

だから

「多様を多様のままに。

―タオをタオのままに。

それこそが、普遍」

ということなのかな。

                                                       

なんだか、こじつけのようだけど、

これも“ことだま”かな?

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何万億年

何万億年、

ぼくがここにいたとしたら、

ぼくのなかに柱が立つ。

何万億年、

きみがここにいたとしたら、

もっと仲良くしたいとおもう。

かわるかわる、

ぼくときみのまわりは

かわるかわる。

かわってかわらないのは

きみとぼくだけ。

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September 29, 2008

15才のぼくへ贈ることば

                                                            

「なんで、ぼくがあなたでなければならないんだ!」

ということば。

 ← いつでも使っていいよ!

                                                         

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そして・・・

多様を多様のままに。

それこそが、普遍。

                                       

                                       

                                           

                                         

                                         

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祈り

多様を多様のままに。

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ぼくときみのナラティブ

ぼくはいま、科学を中心とした

世界のものの見方を“解体”したいと

思っている。

世界はあらゆる見方ができるんだ。

ただ、生きていくために、

都合のいい、

生き抜くために一番都合のいい

見方・考え方をそれぞれが

もてばいいのではないか。

とらわれすぎている。

ゆえに、頑なになる。

そして、じぶんをじぶんで

苦しめる。

ぼくたちには、すでに、

一番、じぶんにとって

ぴったりのナラティブ‐物語を

與へられている。

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いまが一番!

                                          

病気であれ、経済難であれ、

人間関係がうまくいっていないのであれ、

“いま”のじぶんが

一番いい状態です。

                                                         

                                                                               

過去は、健康であったかもしれない、

裕福であったかもしれない。

人間関係もうまくいっていたかもしれない。

でも、“いまのじぶん”にとって、

いまの状態が、一番いい状態です。

                                       

                                                      

そして、“いま”は刻々と

変化していきます。

だから、一番いい“いまの状態”も

どんどん変わります。

よって、いまのじぶんの状態は、

未来のじぶんにとっても

一番いい状態というわけではない。

                                                     

                                                           

未来のじぶんは、

そのときのじぶんにとって

一番いい状態に

かならずなっています。

                                                                             

                                                       

だからなにも恐れることはないのです。

                                                      

                                                      

病気や経済難や、

人間関係がうまくいかないのが

よくないという見方は、

何十、何百、…、おそらく無限に

あるものの見方の1つの見方にしか

すぎない。

神様から見たら、どうなんだろう…。

決して、神様の見方にはなれないとして、

想像してみるのも面白いでしょう。

                                                            

                                                      

ただ1ついえるのは、

世の中に無駄は1つもないということです。

病も貧も、争も・・・

すべて何かのバランスを

保つために、存在している。

―これも、一つの見方ですが・・・

必要だからこそ、

そこに存在しているのです。

                                                        

                                                      

自分がガンだとして、

ガンはいやだ、いやだ…

という。

それは、他の人のもつ、

ガンも拒否している、

つまりガンの人をいやがっていることと

同じだということに気づいていない。

自分だけガンを拒否する

権利があるというのは、

不公平ではないでしょうか。

                                                      

                                                      

ただ、たとえば病の場合、

その病になっている自分を

受け入れるということと、

病が治るのをあきらめる

ということとは等しくありません。

治るのをあきらめるのではなく、

病を受け入れるのです。

その方が、病を治す力は

体のうちから沸いてくるのではない

でしょうか。

                                                      

                                                        

自分のガンを受け入れるということは、

ガンの他人を受け入れるという

ことにつながる。

そのことが自分の体調に

いい影響をあたえないはずはありません。

                                                       

                                                      

バランスが崩れているから、

バランスを保つために病がある。

こうして、

バランスが保たれているのです。

                                                       

                                                          

世界に六十億の人口があるとして、

六十億の世界があります。

一人一人の世界は必ず

どこか違っています。

なぜならば、あなたなら、

あなたが居る場所からしか、

世界は見えないし、

感じられないからです。

                                     

                                     

じつは、その、

その人を囲む

世界こそが“じぶん”という

ものではないのでしょうか。

“じぶん”とは、

身体の範囲だけでなく、

見て、触れて、嗅げて、聞けて、

味わえて、第六感で感じられる

その人を取り巻く世界すべてが、

“じぶん”というものの

範疇なのではないでしょうか。

                                                       

なぜならば、

“見る”ということだけ、

取り上げても、

見えているものはすべて、

あなたの目の中に

入っているからこそ、

見えているのです。

つまり、見えているものは

すべて、もう、

あなたの一部なのです。

                                      

                                      

身体の範囲だけでなく

そのあなたを囲む世界、

つまり、ここで“じぶん”と

名づけた世界の中での

何かバランスがくずれたがゆえに、

病になっているかもしれない。

喘息の人が喘息になっているのは

その人という“じぶん”の

一部である、大気が汚染されている

がゆえに、

そのバランスを保っているのかもしれない。

それは、

貧でも争でも同じです。

                                                       

                                                     

とにかく、

この記事でいいたかったのは、

たとえ、病であれ、貧であれ、

人間関係がうまくいっていないのであれ、

“いまのじぶん”にとって

“いまの状態”が一番ということ。

その理由を理解するためには、

視野を広げなければならない。

世界に60億の人口があるとしたら、

60億の世界があって、

その1人1人の世界は、

“じぶん”でもある。

そういう見方もあるんだよ、

ということです。

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September 26, 2008

どこまでがあなたでどこまでがじぶん?

                                       

また小難しいことを書いて

本人がわかってないのではないかと

いわれるかもしれませんが、

はっきりといいます。

そうかもしれません。

しかし、わかっていないと

いえば、この“せかい”のことについて

ぼくだけでなく、

多くの人が

なにひとつわかっていないの

かもしれない。

                                                                           

このからだについてだって、

どこまでがじぶんのもので

どこまでがじぶん以外のもの

かだって。

これは、とても痛ましいことですが、

あのベトナムの、枯葉爆弾による

被害者、ベトちゃんドクちゃん。

生まれながらにして、

2人のからだはくっついていました。

でも、あのからだは、

どこからどこまでがベトちゃんで、

どこまでがドクちゃんだったのでしょう。

                                           

                                       

だからといって、

ぼくはある種のスピリチュアリズム、

ちょっと前でいえば、宗教に生きる人たちの

ように、魂や心ばかりを

優先して、身体ばかりを従にする

傾向に、これまでの自分も

そうであったがゆえに、

近頃とても抵抗を感じています。

                                          

                                         

身体はほんとうに意味がないもの

なのか。

魂や心に隷属するものなのだろうか。

もし、この現実界で、

肉体は心や魂を

鍛えるためだけに存在している

ということならば、

この現実に

生きていく意味はないということにも

つながりかねない。

                                            

                                       

じっさいに、

ぼくには魂は見えない、

心も見えない、

見えないばかりではない、

触れないし、つかめないし、

感じていられているかといえば、

ほんとうに感じているか

どうかも不明。

                                          

だからこそ、世間では、

唯脳主義(ゆいのうしゅぎ)的な

脳科学なるものが、

流行っているのかもしれない。

―脳科学を否定しているわけでなく、

脳からみた人間という

捉え方に対して、

ひじょうに浅はかさを感ずることもある

ということです。

ようするに、「それだけなの?」って―

重厚な脳科学といえるものがあるとして、

浅はかな脳科学が流行っていると

するならば、

脳という身体を重視しすぎている

というよりも、

身体というものを、

あまりにも軽視しているがゆえに、

「そう見えて」しまうのではないか。

―この「そう」の「そう」とは

何を指すのでしょうか。

まるで国語の試験問題のようですが、

著者であるぼくは、この「そう」とは

「脳こそが人間の中枢という見方」

と注釈をそえておきましょう。

                                         

                                        

ここでまた小難しいことをいいます。

動物は、自分の身体と他者の身体との

區別がつかないといいます。

人間も赤ちゃんのときはわからない。

ただ、長ずるにおよんで、

母親など他の人間の身体を見て、

触れて感じていくことによって、

自分も同じような身体をもっている

ということに気づいていく。

目の前にいる人間と同じような

独立した(孤立した?)存在で

あるということを意識していく。

                                        

                                          

となると、人間が他の人間との

身体の區別をするということは、

非常に人間的な精神活動であると

いえる。

つまり、動物にはない“精神”の

働きによって、

動物には不可能な

自分の身体と他者の身体との

區別ができるというのです。

                                            

                                       

だからといって、

ここで、人間は、

動物にはない

“精神”というものをもつことによって、

自己と他者との區別がつくように

なったのだから、

「“精神”というものは素晴らしい」

ということを言いたいのではない。

むしろ、自己と他者との區別を

つけがたい肉体というものが

あったればこそ、

“精神”の働きができたということを

いいたいのです。

                                             

                                        

繰り返します。

「ぼくたち人間は、

精神によって、

自己の身体と他者の身体との

境界線をつくった」。

そして、ここから先が

もしかしたら、ぼくが

この記事で一番言いたかったことかもしれない。

その“精神”とは、

人間に備えられた

“錯覚”ではないのか・・・。

あくまでも、

肉体こそが、

人間に与えられている

唯一の現実であるのかもしれない。

そして、その現実は、

他者と自己との身体の

區別をもたない。

“精神”という名の、

人間がなぜか付与された

“錯覚”こそが、

人と人、

人と物との間の

“境界線”を描いてしまった

のだと。

                                              

                                        

すくなくとも、

下記は確かなことです。

「“今ここ”で

身体をもたないじぶんは

“今ここ”にいる

ぼくにとって

存在しない」。

          (了)

                                                          

                                                          

また惑わせるような

ことを書いてしまって

ごめんなさい。

これは、ぼくの描いた

創作(フィクション)と

思ってください。

現に、そんな気分で

書きました。

ただ、読み返してみて、

極端な主張をしているだけに

日常では見られない

真理がちらついている

ような気がする。

ここに書いた意は、

あらためて

ぼくにとって

考えてみる価値が

あることかもしれません。

                                                             

                                                            

                                                         

                                                             

                                                           

                                                              

                                                                                                                                                      

                                                                                                                                                      

                                                                                                                                                          

                                                                                                                                                    

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September 25, 2008

右目を取り外しました・・・

今日ぼくは右目を取り外し、

パソコン用に換えた。

この目をつけさえすれば、

画面に向ってキーボードを

打つだけで、

直接データを脳に書き込むことが

できる。

つまり、パソコン・ディスプレー上に、

自身の脳の中身を

さらけ出しているのと

同じことになる。

こうなると、

いかにも、自分が薄っぺら

人間だということが

白日のもとにさらされてしまう。

CGによって、

立体的に見せられているのだが、

自分の脳という迷宮は

こんなにも単純だったのか

とあきれるばかりだ。

もちろん、

他の人間には決して見せたくない。

ならば、キーボードで、

脳の中にデータをどんどん

打ち込んでいって、

内容を豊富にすればいい

と思われるかもしれない。

ところがどっこい、

データをいくら押し込んでも、

脳の構造自体は

変ることはない。

つまり、ディスプレー上の

CGでいえば、

迷宮を構成する壁は

どんなことをしても、

量を増やしたり、高さや幅を

変えたりしても、

決して変化することはないのだ。

・・・・・

                                        

↑これはもちろん、ぼくの

想像の世界。

でも、近い将来、人類は

同じようなものを開発するのでは

ないか・・・

リバーシブルのコンタクトでなくて

“つけかえ用の眼球”が

ここ数年間の間に、

開発されるかもしれない。

こうした未来が、ぼくたちにとって、

とくに子どもたちにとって、

いい世界なんだろうか、

それとも最悪だろうか・・・

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September 23, 2008

願い

ぼくはあらゆる人、生物がみずからを

生かせる世界を創りたい。

そのために役立ちたい。

それは、ずっと願ってきたこと。

金をもうけることが得意な人、

財産や権力がある人だけが、

生き延びられるような世界は最低だ。

人が人の生命や個性を殺してはいけない。

どんな人種でも、民族でも、

宗教でもいいではないか。

すべての人が幸せにならなければならない。

世界が一色になってしまったら

面白くもなんともない。

単なる理想だといわれるかもしれない。

でも、その理想を死ぬまで追いかけて

いきたい。それが、自分の理想であり、

理念であり、思想である。

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September 19, 2008

じぶんはじぶんのものではない

自殺をしてなくなられた方の

苦しみには、計り知れないものがあります。

他の人には、どこまでもわかならいでしょう。

それを承知でできればひかえめに

もうしたいのですが、

やはり、自殺をする人には、

そこに至る過程がどんなものであっても、

多少の傲慢さは残ると思います。

それはどうしてか…

果たして

自分のからだはじぶんのものなのでしょうか。

かってに、じぶんのからだを殺す

権利がにんげんにあるのでしょうか。

ことばをかえていえば、

じぶんのからだはじぶんなのでしょうか。

ぼくは、スピリチュアル的な見解は

知りませんが、

生まれようとして生まれたわけではない。

生まれたいと思ったって、

生まれ出る能力がそなわっていたって、

生み出すちからを人間が

牛耳っているわけではない。

ただ、どうしたら生まれるか

ということを知っているだけで、

生まれるシステムを創ったのは

人間ではない。

いいかえれば

生命を生み出す力のある生命を

まったく新しく、

ゼロから創造する力は

人間にはないわけです。

またここで、

じぶんはじぶんなのかという

問いにもどります。

じぶんの筆箱やたんす、テレビ、

家・・・などの物はじぶんの

ものだと主張しても、

大きな支障はないかもしれない。

でも、よく

「じぶんの勝手でしょう!」

ということばが使われますが、

じぶんはじぶんのものなのでしょうか。

じぶんというものは、

じぶんの持ち物では

ないのではないでしょうか。

「じぶんの勝手」で

じぶんをどうにかしていいのでしょうか。

じぶんを勝手にどうにかする力は

与えられていて、

だからといって、

じぶんの好きなように

じぶんの生命を痛みつけて

いいものでしょうか。

はたして、じぶんとはなんでしょうか。

じぶんの境界線はどこでしょうか。

じぶんには中身があるのでしょうか。

もしもじぶんというものが

なにものからあずけられた

預かりものだとしたら、

大切にしなくてはならないのは

至極あたりまえのことでしょう。

もしじぶんというものを

創ってくれたのが神様だとして、

あんまり人間が苦しんでいたら、

死んでもいいよ

といってくれそうな気もしますが、

ぼくにはわかりません。

ただ、じぶんはじぶんのもの

ではないという気がすごくして、

じぶんを含めて、

あらゆる生命を粗末にしては

ならないのではないかと、

なんとなく、しきりに思っているだけです。

(※とりとめのないお話で、

  失礼いたしました。)

                                                          

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September 15, 2008

価値観の転換

今は、価値観を根本から

考え直さなければならない

時代だ。

たとえ、学校で習ってきたことでも、

世間の常識的なことでも

疑わなければならない。

宗教でも道徳でも、

思想でも医療でも、

経済でもなんでもそうだ。

いったん、すべてを疑い、

もっといえば、もうそういうものは

できるだけ考慮に入れないで、

(それは、大変難しいことなのだが・・・

つまり、心と頭を白紙にしなければならない)

自分なりの、

これからの時代を担う

人間たちによる価値観

というものをつくっていかなければならない。

そのときに、

既成の概念(考え)というのは

邪魔になってくる。

ただ、一気に行動や生活を

変えてしまうと、

社会は混乱するし、

自分の頭や心に支障をきたす

ことになってしまうかもしれない。

だから、体は常識的に行動して、

まずは心と頭―中身のみを

どんどん崩していかなければ

ならない。

つまり、一掃した上で、

自分の身体で

つまり魂で感じたもの、

とらえたものをベースに

新しい価値観をつくっていくことだ。

(身体とは、魂に他ならない。

魂が物質化したのが身体である

のだから・・・)

そのときのキーポイントは、

先に説いたように、

生活は常識的であること。

規則正しく生活し、

ちゃんとしたものを食べ、

運動し、ふつうに働き(勉強し)、

家の中などの掃除をして、

必要な睡眠をとること、…。

なぜならば、

生活さえ、ちゃんとしていれば、

頭や心は狂うことはないからだ。

(その点、多くの人は誤解している。

心や頭の問題は、

心や頭から入ろうとしているが、

そうではないのだ)

個人個人の身体とソウルに

よって考える価値観であるのだが、

それは、個性に包まれているものの

多くの皆と限りなく近いものに

なっているはずだ。

なぜならば、人々は頭脳の中身に

おいてはつながっていないが、

心(とくに魂レベル)や身体では

つながっているのだから。

われわれは、同じところから生まれ、

死んで同じところへと去っていく。

そして、物質的にみても、

誰もが地球の一部にしか過ぎない。

地球から生まれ、

地球で生き、

地球で死んでいく。

死から生へ、

そして生から死へ。

誰もが常に地球といったいである。

新しい適切な価値観を創れば、

現代日本が抱えている、

多くの問題・悩みは、自ずと

消えていく。

その価値観を創るには

何よりも学校教育などで

教わり、

マスメディアで常日頃見てきた

ような、その根底にある

価値観をベースに少しでも

考えているようなら

いつまでたっても創造できるもの

ではないということを

深く知るべきだ。

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September 13, 2008

ボーッとしてる人が増えれば日本はよくなる。

日本をよくするには

毎日、ボーッとしているだけで

充分満足に暮らせる人を

増やすことである。

朝からただボーッと

雲ばかりを見ている人。

路傍でばったり出会った近所の

人と何時間でもとりとめのない

お話ができる人。

自転車に乗っていて、

自分が走ったことなのない

面白そうな道ばかりを

廻るので、なかなか目的地に

つかない人。

本を読んでる途中で、

考え事ばかりをしてちっとも

読み終わったことがない人。

生産の合理化などいっこうに気にせず、

ただ土が好きという理由だけで、

畑を耕してばかりいる人。

子どもの頃からずっと、

蟻んこを見ているのが好きで、

大人になった今でも

いつも蟻の穴のあたりを

のぞいている人。

損得ぬきで人を助けるのが

好きで、仕事をそっちのけで、

人助けばかりをしている人。

祭り好きで、

一年中、やる気がないけど、

祭りの時期だけは人が変ったように

生き生きとする人。

毎日、明け方まで星を眺めている人。

長風呂・・・。

1回の食事に2時間、3時間、4時間・・・

とかける人。

家の中をピカピカにすることだけに

日々、この上ない幸せを感じている人。

人の話をただニコニコと何時間でも、

一日中でも聞いていられる人。

電車やバス、交通機関が

時間通りに来ない、

それが5時間、6時間・・・

と半端じゃなくても、

怒らずに待っていられる人。

ちっとも金儲けにつながらないけれど、

自分の仕事を丁寧に

仕上げることに

日々かけている人。

道で倒れている人を見かけたら、

自分の生活(仕事など)を無駄にしてでも、

その見知らぬ人のために、

時間と労力、金を惜しまないで

お世話することに無常の

喜びを感じる人。

・・・・・

ようするに、

不合理で、無価値な、まったく意味のない

ことに、いくらでも、時間を

かけられる人、

たとえ、一生でもボーっと

生きて、充分に満足できる人を

増やすことこそが、

日本をよくするもっとも

いい方法であると思う。

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September 12, 2008

日の出

2008_081

伊豆の海にて・・・

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September 11, 2008

ヒゲ

                                                       

ヒゲをのばして

気づいたこと。

ヒゲのあるしあわせ。

                                                        

剃(そ)っていたときは、

エステで毛穴を埋めたい

と思っていたのにね。

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ふがいなさ

自分のふがいなさを

見つめれば見つめるほど

しあわせになれる。

・・・ふしぎだ。

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きょう…

きょう、

交通事故にあわなかった。

路上で刺されなかった。

隕石が落ちてこなかった。

病で倒れなかった。

家族がみんな無事だった。

・・・・・・・・・・

生きている。

この奇蹟にひざまづきたい気持だ。

感謝。

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ようするに…

ようするに、

しあわせであればいいんだな。

病であっても。

金がなくても。

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むしのこえ

どんなにつらくても

虫の声に耳を傾けると

一瞬にしてしあわせになれます。

目はこころの窓。

耳はこころへの入口。

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September 07, 2008

本当の世の中のため人のため

神にとって好ましい生き方とは、

その人が幸せだと思って暮らしていること。

その人がどう明るいか、

その人がどう生きるか。

世の中の暗い部分をあげつらって指摘する間に、

「ありがとう」をたくさん

言ったほうがよい。

本当の世のため、人のためという行為は、

自分の周りに優しさや温かさを

投げかけること。

まず自分が楽しく生きる、

ということです。

    小林正観著

『喜ばれる ~自分も周りも共に幸せ~』より

※太線は私がつけました。

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広い心

                                                                              

                                                                              

中学の卒業のとき

色紙に書いた言葉が

「広い心をもとう」だった。

                                                                            

クラスメートから、

「広い心って、どういう意味だよ」

とあきらかな悪意にもとづく

質問を投げかけられて、

ちゃんと答えられなくて、

「広い心ってなんだ?」

という問いが

いつまでもいつまでも

頭の中を廻るように

なった。

                                                                              

おかげでじゅうぶんに

「広い心」という言葉が

刷り込まれているはずにも

かかわらず、

アレから30年近くたった現在、

自分が「広い心」になれたとは、

とうてい認められないし、

むしろ、狭い心から脱しきれない

己というものをまざまざと

見せつけられている。

                                                                                    

ただ、かつてといまと

異うのは、

「自分が広い心ではなくはない」

というウソを自分にたいしてついて

いないことだけである。

率直にいえば、

以前、「おれは広い心なんだ」

と思い込もうとしていた時期があった。

今は、決して広くない、

受け入れられないものが

あまりにもあることを

認めている。

                                                                              

だからといって、

少年のころ、

色紙に書いた

「広い心」になることを

あきらめたわけではなく、

「広い心になりたい」、

「広い心のはずだ」と

意識し続けた頃より、

むしろ、

「己の狭量さ」を知ろうとしている、

今のほうが、

1ミリは近づけたのではないかと

たんなる錯覚かもしれないけど

信じている。

                                                                           

なぜならば、

「いやなことはいや」、

「いいことはいい」と、

「狭量さ」を見つめたところからしか、

人を受け入れられる

器は広げられないと気がついたからだ。

                                                                           

「おれはどんなことでも、

受け入れられるんだ」と

ウソをついている限りは、

いつまでたっても

そこにとどまったままだ。

                                                                            

一番、身近な人間である自分を

受け入れられない者に、

他人を受け入れられる

筈があろうか…。

                                                                              

さらに、今後は、

「自分」というものを

意識しすぎている限り、

その「枠」から抜け出られるはずがない

という観点から、

もっと心が広がっていくことに

身を任せるべきではないか。

そんなことを想っている。

                                                                                                                              

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September 06, 2008

実感

どなたかはわかりませんが、

ときおり、このブログを訪ねて

くださる方がいます。


でも、不思議なものですね。

こうして、パソコンをうっている、

地上のどこかで、

時を同じくしている人がいる。


目には見えないし、

触れないし、

聞こえないし、

話してもいなけれど、

なんとなく、感じられるような

気がする。


その感じを手放さないだけで、

すぐそばにしあわせを

実感できる。


ぼくたちは、まだまだ

見えていないだけで、

たくさんのしあわせに

かこまれてくらして

いるのかもしれませんね。

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山のあなた  カール・ブッセ 上田敏訳

山のあなた
     カアル・ブッセ 上田敏訳



山のあなたの空遠く

「幸(さひはひ)」住むと人のいふ。

噫、われひとゝ尋(と)めゆきて、

涙さしぐみかへりきぬ。

山のあなたになほ遠く

「幸」住むと人のいふ。

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September 04, 2008

成功、成功、成功・・・狭すぎる!

成功、成功、・・・

巷にあふれている。

広辞苑で調べてみる。

①目的を達成すること。事業などをなしとげること。

②転じて、地位や富を得ること。「―者」

よし、○○文学全集をここ2年間で

読み終わろう、という目的を達成したとして、

誰も彼のことを成功者とはいわない。

世間でもてはやされている成功とは、

①にある「目的を達成すること」ではなくて、

②の地位や富を得ることであろう。

とくに、①にある「事業」も入るが、

実業家的、経営者的な成功をした人こそが

成功者であるようだ

「立身出世」を目指した明治時代は、

「末は博士か大臣か」だったのだから、

時代と共に、成功のイメージはかわっている。

成功?と聞いて、

20代のころ、何十万もする

成功哲学の教材を買わされてしまった

反省もふくめて、

「バカらしい!」という

想いが先行してしまう。

それは、感情だけではない

理屈もついている。

それは、「成功者」や「成功」という

言葉の概念がごく限られた範囲の

ものであるのに、

みんながみんなそれを目指している

バカさ加減にある

反対にそれを目指さない、

または成功していない人間は

価値のない者であるというように

とらえられていることを

人々の多くが甘んじて受けている

ことにある。

もちろん、

成功することが向いている人は、

経営でも事業でも、商売でも

金銭的にかえってくるものを

やればよい。

ただ、それは、人間が人生で

行うべき、

数万あるか、数億あるかは

知らないが、

無限にある事の、

ほんの一部にしかすぎないの

である。

それなのに、ほとんどの日本人が、

そのほんの一部を得ようと

躍起になっている。

成功、成功、と煽り立てている

マスコミにだまされている。

古人のゆたかさを見よ。

勿論、金銭的物質的な

豊かさではなく、

心の豊かさである。

それこそが、今、

日本人にもっとも必要な

ことではないか。

金も物も必要だが、

最低限あればいい。

心の豊かさは、

無限にある。

そして、そこには

みんなに通用する

あなただけの世界がある。

あなたは、

そのままでいい。

                                         

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古典を読むことは現在を読むこと

古典を読んだからといって

過去を学べていると考えるのは

幻想である。

古典を読むということは、

現代を通して過去を学んでいる

ということに過ぎない。

現代にある過去と同じものを

学んでいる。

現代にまったくない過去は

学びようがない。

リンゴの味は、読んだだけでは

わからないのと同じ。

体験がなければ、文字だけでは

人はわからないからだ。

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無限の「たましい」

世界はかずおおくの

「たましい」という

エネルギーでできている。

この「たましい」の一つでも

たかめれば、世界がたかまる。

そして、そのたかまりかたは、

112ではなく、

二乗三乗四乗…、無限。

たかまればたかまるほど

広がっていく。

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修行の入口

どんな修行でも

どこから入るかが問題。

自己否定から入るか、

自己肯定から入るか。

我執から入るか、

無我から入るか。

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September 02, 2008

人間は言葉に定められる

                                                        

人間が発するのが言葉である。

                                                    

そして言葉は人間を規定する。

                                                         

                                                                   

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文語と人物



文語こそが、



幕末明治の人物である。



今更ながら気づく。

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きらわれない

現代人は「きらわれない」という一事のために

生きねばならない。


だから、おもしろい人物は皆無となった。


寛容でなくなった社会は滅びねばならない。




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September 01, 2008

ほんとうの学問とは心術をみがきあげるためのもの

『呻吟語』(講談社学術文庫、荒木見悟訳)より



学術は、心に恥じず、志に悪なきを以て第一となす。


〔訳文〕学術というものは、単に知識を集積すればよいのではなく、心にかえりみて恥じることがなく、志に一点の邪念もないのが、第一の肝要事である。


〔付記〕学術とは、心術をみがき上げるものである。(後略)

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天はみずから助くるものを助く

サミュエル・スマイルズの『セルフ・ヘルプ』の文語訳と口語訳をあえて縦書きにして比べてみました。

【文語訳】
「天はみずから助くるものを助く」といえることわざは、確然経験したる格言なり。わずかに一句の中に、あまねく人事成敗の実験を包蔵せり。
(中村正直訳『西国立志篇』より)

【口語訳】
「天は自ら助くる者を助く」
この格言は、幾多の試練を経て現代にまで語り継がれてきた。 その短い章句には、人間の数限りない経験から導き出された一つの真理がはっきりと示されている。
(竹内均訳『自助論』より)

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