どこまでがあなたでどこまでがじぶん?
また小難しいことを書いて
本人がわかってないのではないかと
いわれるかもしれませんが、
はっきりといいます。
そうかもしれません。
しかし、わかっていないと
いえば、この“せかい”のことについて
ぼくだけでなく、
多くの人が
なにひとつわかっていないの
かもしれない。
このからだについてだって、
どこまでがじぶんのもので
どこまでがじぶん以外のもの
かだって。
これは、とても痛ましいことですが、
あのベトナムの、枯葉爆弾による
被害者、ベトちゃんドクちゃん。
生まれながらにして、
2人のからだはくっついていました。
でも、あのからだは、
どこからどこまでがベトちゃんで、
どこまでがドクちゃんだったのでしょう。
だからといって、
ぼくはある種のスピリチュアリズム、
ちょっと前でいえば、宗教に生きる人たちの
ように、魂や心ばかりを
優先して、身体ばかりを従にする
傾向に、これまでの自分も
そうであったがゆえに、
近頃とても抵抗を感じています。
身体はほんとうに意味がないもの
なのか。
魂や心に隷属するものなのだろうか。
もし、この現実界で、
肉体は心や魂を
鍛えるためだけに存在している
ということならば、
この現実に
生きていく意味はないということにも
つながりかねない。
じっさいに、
ぼくには魂は見えない、
心も見えない、
見えないばかりではない、
触れないし、つかめないし、
感じていられているかといえば、
ほんとうに感じているか
どうかも不明。
だからこそ、世間では、
唯脳主義(ゆいのうしゅぎ)的な
脳科学なるものが、
流行っているのかもしれない。
―脳科学を否定しているわけでなく、
脳からみた人間という
捉え方に対して、
ひじょうに浅はかさを感ずることもある
ということです。
ようするに、「それだけなの?」って―
重厚な脳科学といえるものがあるとして、
浅はかな脳科学が流行っていると
するならば、
脳という身体を重視しすぎている
というよりも、
身体というものを、
あまりにも軽視しているがゆえに、
「そう見えて」しまうのではないか。
―この「そう」の「そう」とは
何を指すのでしょうか。
まるで国語の試験問題のようですが、
著者であるぼくは、この「そう」とは
「脳こそが人間の中枢という見方」
と注釈をそえておきましょう。
ここでまた小難しいことをいいます。
動物は、自分の身体と他者の身体との
區別がつかないといいます。
人間も赤ちゃんのときはわからない。
ただ、長ずるにおよんで、
母親など他の人間の身体を見て、
触れて感じていくことによって、
自分も同じような身体をもっている
ということに気づいていく。
目の前にいる人間と同じような
独立した(孤立した?)存在で
あるということを意識していく。
となると、人間が他の人間との
身体の區別をするということは、
非常に人間的な精神活動であると
いえる。
つまり、動物にはない“精神”の
働きによって、
動物には不可能な
自分の身体と他者の身体との
區別ができるというのです。
だからといって、
ここで、人間は、
動物にはない
“精神”というものをもつことによって、
自己と他者との區別がつくように
なったのだから、
「“精神”というものは素晴らしい」
ということを言いたいのではない。
むしろ、自己と他者との區別を
つけがたい肉体というものが
あったればこそ、
“精神”の働きができたということを
いいたいのです。
繰り返します。
「ぼくたち人間は、
精神によって、
自己の身体と他者の身体との
境界線をつくった」。
そして、ここから先が
もしかしたら、ぼくが
この記事で一番言いたかったことかもしれない。
その“精神”とは、
人間に備えられた
“錯覚”ではないのか・・・。
あくまでも、
肉体こそが、
人間に与えられている
唯一の現実であるのかもしれない。
そして、その現実は、
他者と自己との身体の
區別をもたない。
“精神”という名の、
人間がなぜか付与された
“錯覚”こそが、
人と人、
人と物との間の
“境界線”を描いてしまった
のだと。
すくなくとも、
下記は確かなことです。
「“今ここ”で
身体をもたないじぶんは
“今ここ”にいる
ぼくにとって
存在しない」。
(了)
また惑わせるような
ことを書いてしまって
ごめんなさい。
これは、ぼくの描いた
創作(フィクション)と
思ってください。
現に、そんな気分で
書きました。
ただ、読み返してみて、
極端な主張をしているだけに
日常では見られない
真理がちらついている
ような気がする。
ここに書いた意は、
あらためて
ぼくにとって
考えてみる価値が
あることかもしれません。
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