いまが一番!
病気であれ、経済難であれ、
人間関係がうまくいっていないのであれ、
“いま”のじぶんが
一番いい状態です。
過去は、健康であったかもしれない、
裕福であったかもしれない。
人間関係もうまくいっていたかもしれない。
でも、“いまのじぶん”にとって、
いまの状態が、一番いい状態です。
そして、“いま”は刻々と
変化していきます。
だから、一番いい“いまの状態”も
どんどん変わります。
よって、いまのじぶんの状態は、
未来のじぶんにとっても
一番いい状態というわけではない。
未来のじぶんは、
そのときのじぶんにとって
一番いい状態に
かならずなっています。
だからなにも恐れることはないのです。
病気や経済難や、
人間関係がうまくいかないのが
よくないという見方は、
何十、何百、…、おそらく無限に
あるものの見方の1つの見方にしか
すぎない。
神様から見たら、どうなんだろう…。
決して、神様の見方にはなれないとして、
想像してみるのも面白いでしょう。
ただ1ついえるのは、
世の中に無駄は1つもないということです。
病も貧も、争も・・・
すべて何かのバランスを
保つために、存在している。
―これも、一つの見方ですが・・・
必要だからこそ、
そこに存在しているのです。
自分がガンだとして、
ガンはいやだ、いやだ…
という。
それは、他の人のもつ、
ガンも拒否している、
つまりガンの人をいやがっていることと
同じだということに気づいていない。
自分だけガンを拒否する
権利があるというのは、
不公平ではないでしょうか。
ただ、たとえば病の場合、
その病になっている自分を
受け入れるということと、
病が治るのをあきらめる
ということとは等しくありません。
治るのをあきらめるのではなく、
病を受け入れるのです。
その方が、病を治す力は
体のうちから沸いてくるのではない
でしょうか。
自分のガンを受け入れるということは、
ガンの他人を受け入れるという
ことにつながる。
そのことが自分の体調に
いい影響をあたえないはずはありません。
バランスが崩れているから、
バランスを保つために病がある。
こうして、
バランスが保たれているのです。
世界に六十億の人口があるとして、
六十億の世界があります。
一人一人の世界は必ず
どこか違っています。
なぜならば、あなたなら、
あなたが居る場所からしか、
世界は見えないし、
感じられないからです。
じつは、その、
その人を囲む
世界こそが“じぶん”という
ものではないのでしょうか。
“じぶん”とは、
身体の範囲だけでなく、
見て、触れて、嗅げて、聞けて、
味わえて、第六感で感じられる
その人を取り巻く世界すべてが、
“じぶん”というものの
範疇なのではないでしょうか。
なぜならば、
“見る”ということだけ、
取り上げても、
見えているものはすべて、
あなたの目の中に
入っているからこそ、
見えているのです。
つまり、見えているものは
すべて、もう、
あなたの一部なのです。
身体の範囲だけでなく
そのあなたを囲む世界、
つまり、ここで“じぶん”と
名づけた世界の中での
何かバランスがくずれたがゆえに、
病になっているかもしれない。
喘息の人が喘息になっているのは
その人という“じぶん”の
一部である、大気が汚染されている
がゆえに、
そのバランスを保っているのかもしれない。
それは、
貧でも争でも同じです。
とにかく、
この記事でいいたかったのは、
たとえ、病であれ、貧であれ、
人間関係がうまくいっていないのであれ、
“いまのじぶん”にとって
“いまの状態”が一番ということ。
その理由を理解するためには、
視野を広げなければならない。
世界に60億の人口があるとしたら、
60億の世界があって、
その1人1人の世界は、
“じぶん”でもある。
そういう見方もあるんだよ、
ということです。
The comments to this entry are closed.
Comments